黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 25

Interview

ゲームプロデュースの最先端 齊藤陽介氏(上)これじゃ『与作』しかできないぞ?

ゲームプロデュースの最先端 齊藤陽介氏(上)これじゃ『与作』しかできないぞ?

高校3年の11月まで泳いでいられたんです。

外で!? それでも、まだ病弱だったんですか?

齊藤 病弱でした。ちょくちょく喘息がひどくなって入院していましたからね。点滴を打ちながら大会に行ったりしていましたし。

でも水泳って呼吸と言いますか心肺機能が重要になりますよね。

齊藤 だから喘息の子供に水泳をやらせる親御さんが多いんじゃないかなと思います。

なるほど、対症療法みたいな感じですか。

齊藤 そうですね。で、神奈川県で水球をやっている高校って当時は2校しかなかったんです(現在は3校)。ひとつは慶應で、もうひとつは私の出身の神奈川大学附属高校。慶應は幼稚舎からやっているんでメッチャ強いんですよ。

それは強そうですね。でも、そういうハードな戦いって、齊藤さんのイメージとかなり違う感じがするので驚きです。

齊藤 でも、楽しかったですよ。勉強なんかよりもずっと。

ちなみに。通われていた高校はどんな学校だったんですか?

齊藤 中高一貫なんですけど私は高校からです。当時はまだ新設の男子校(現在は共学)で私は2期生なんですよ。一応進学校なんですが、文武両道をうたっていて部活も活発にやっていましたね。で、頭のいい連中はエスカレーターではなく、外のもっと優秀な大学に行っていました。私は勉強がキライだったので作文だけで神奈川大学に入りましたけどね。

高校の修学旅行にてバスガイドさんと

ハハハハ、そうなんですか。

齊藤 なぜか学校の成績は良かったんです。で、神奈川大学に行く人は成績が良い順に希望する学部を選べるんです。受験勉強の必要がないんです。だから、高校3年の11月まで泳いでいられたんです、ハハハハ。

一番好きなゲームは『ザ・ブラックオニキス』

水泳以外に、当時興味のあることはなんでしたか。

齊藤 小学校のときからずっと泳いでいて、高校もそんな感じだったんで、ほかはあんまり……ただアナログゲームは嫌いじゃなかったです。学校でテーブルトークRPGをやっている連中とつるんでよく遊んでいましたから。

どういった経緯で、そういったものがお好きになったんですか?

齊藤 ファンタジーな世界に対する憧れとかがあったんですかね。小説とかよく読んでいましたし。富士見ファンタジア文庫とか定番の『指輪物語』とか。

水泳や水球とファンタジーってすごい両極端ですよね。

齊藤 でも、昔からそんな感じだったです。ヤンキーみたいな不良グループとゲーム大好きみたいなグループの真ん中にいて、その間を取り持つ役みたいな。

そういう感じだったんですか。じゃあ両方に友達がいて楽しかったんじゃないですか。

齊藤 はい。パソコンが好きな友達の家にも行ったりしていました。だから、「一番好きなゲームは?」と聞かれたら、今でも『ザ・ブラックオニキス』(注2)を挙げます。その友達の家でメッチャ遊んで、「すげえな、世の中にこんなものあるんだ」って思いましたね。そこから『無限の心臓』とか『ドラゴンスレイヤー』とか『テグザー』とか、いろいろ遊びました(注3)。

その友達は富士通好きで、持っているパソコンがFM-7だったんで、PC-8001とか8801で遊べるゲームはなかったんですけどね(注4)。まあでも有名どころはFM-7でも遊べていたので、ソイツの家でいろいろ遊んでいました。で、自分もパソコンが欲しいなと思って、中学校のときに親にねだってPC-6001mkII(注5)を買ってもらったんですが、これまた遊べるゲームが少なくて『信長の野望』(初代)ばっかりやっていました。

注2:ブラックタワーに隠された宝石・ブラックオニキスを手に入れるべく、3Dで描かれたダンジョンを進んでいくという、1984年に発売されたコマンド入力式のRPG。日本で最初の国産RPGとして名高い。

注3:『無幻の心臓』はクリスタルソフトから、『ドラゴンスレイヤー』は日本ファルコムからパソコン向けに発売されたRPG。どちらも発売は1984年で国産RPGとして高い人気を誇った。『テグザー』はゲームアーツから発売された1985年発売のロボットアクションもので、のちにファミコンにも移植されている。

注4:当時、パソコンのメーカー間にソフトの互換性はなく、NEC系のパソコンでしか遊べないものや富士通系でしか遊べないものなどがあった。

注5:「パピコン」の名で知られるNECのPC-6001の後継機。当時としてはめずらしい音声合成機能を標準搭載していて、1024文字の漢字をグラフィック表示することも可能になっているなどユニークな機能で注目を集めた。

じゃあ、どっちかって言うとパソコン系のゲームが入口だったんですね。

これじゃ『マリオ』はできない、『与作』しかできないぞと(笑)

齊藤 そうですね。でも、ゲームの世界に入ってやろうというのはあんまりなかったです。さっき言った友達は『マイコンBASICマガジン』とか『I/O』とか(注6)に自作のプログラムを投稿しているレベルの子だったんです。だから「あ、オレには無理だな、これ」って感じで、遊ぶのはいいけど、作ろうっていう思考にはならなかったですね。

注6:どちらも当時高い人気を誇ったパソコン雑誌(当時は「マイコン」と呼ばれていた)。『マイコンBASICマガジン』は電波新聞社、『I/O』は日本マイクロコンピュータ連盟(現在は工学社)の発刊で、どちらも読者の投稿プログラムが目玉のひとつになっていた。

そのころはもうすでに「ファミコン」は出ていましたよね。

齊藤 「ファミコン」は当時メッチャ人気ですぐに買えなかったんですよ。なんかテレビゲームが人気らしいぞってことで、親父がよく分からないまま「カセットビジョン」を買ってきちゃいまして。これじゃ『マリオ』はできない、『与作』(注7)しかできないぞと(笑)。

注7:木こりの与作を操作してイノシシやヘビなどをよけながら木を切っていくという、北島三郎の『与作』をモチーフにしたアクションゲーム。アーケードで人気を博し、1981年にカセットビジョンに移植された。

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