黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 25

Interview

ゲームプロデュースの最先端 齊藤陽介氏(上)これじゃ『与作』しかできないぞ?

ゲームプロデュースの最先端 齊藤陽介氏(上)これじゃ『与作』しかできないぞ?

「このスケジュールが遅延する体質をオレが改善してやる!」

そういう2位だったんですか(笑)。エニックスはホントにいろいろ面白いことをやっていたんですね。エニックスでは最初何をされていたんですか?

齊藤 実はゲームじゃなくてグッズの部署に入ったんです。購買部っていうグッズの企画と営業の間にある、いわゆる資材管理とか制作管理の部署です。その部署でいわゆる『バトルえんぴつ』(注9)とか『ドラゴンクエスト』のフィギュアとかキーホルダーの制作管理をやっていたんですよ。玩具を作りたいという希望を聞いてもらっての配置だと思います。

だから、『バトルえんぴつ』なんかだと、朝から下町の鉛筆工場に行って。工場のおじいちゃんとお茶を飲みながら機械があったまるのを待って、とりあえず1本出来たヤツを見て、版ズレがないかとかチェックして。「じゃあ、今日はコレでいきましょう」みたいな話をしたりとか、この新しい企画の材質はどのプラスチックにしようかとか、そういうことを1年間やっていたんですよね、ワケのわからないまま。

注9:『ドラゴンクエスト』シリーズのキャラクターやモンスターが描かれた鉛筆で『バトエン』の通称で知られる。鉛筆の六角形の面に「全員に50のダメージ」「ミス」などのメッセージが書かれていて、転がして友達と対戦することができる。

その仕事はどう思われていたのでしょう。もっとほかのことをしたいというようなことはなかったんですか?

齊藤 いや、メッチャ楽しかったですよ。楽しかったんですけど、そのかたわらでね。同じフロアの壁を挟んで向こう側にゲームを作る部署があったんですけど、アイツらはいっっっつもスケジュール遅れてばっかりで(笑)。

ハハハハ、そう思われていたんですか。

齊藤 思っていました。こっちは製造から販売までスケジュールを守るのは当たり前で、たとえば材料がこのプラスチックだったらロット数は月にどのくらいかとか、1日に何個できるから、このタイミングで何個納品できるとか、そういったことをやっているわけですからね。

スケジュールが押したので、ちょっと納期が遅れますなんて簡単には言えないですからね。

齊藤 そうです、そうです。

新卒で元気があってムチャクチャなヤツ

購買部のお仕事はどのくらいされていたんですか?

齊藤 1年間だけです。なんか新卒で元気があってムチャクチャなヤツがいるらしいっていうことで、当時ソフトウェア企画部の部長だった本多(注10)に引っ張られまして、それで企画課に移ったんです。そのときは「このスケジュールが遅延する体質をオレが改善してやる!」なんて意気込んでいましたね。3カ月後には「ゲームってデジタルだけど結局は人間が作っているから、これは遅れてもしょうがないわ」っていう思考に変わっていましたけど、ハッハッハ。

注10:『ドラゴンクエスト』シリーズのプロデューサーを務めた本多圭司氏のこと。のちにエニックス社長となり、スクウェア・エニックス誕生の際に取締役副社長を務めた。

やっぱりそこは納得しちゃったわけですか。

齊藤 はい。

本多さんや福嶋(康博)さん(注11)に「新卒で元気なヤツがいる」と思われたということですが、ご自身は自覚されていたんですか?

注11:エニックスの創業者で初代社長。卓越した経営手腕でエニックスを株式公開企業に押し上げた。現在は株式会社スクウェア・エニックス・ホールディングス名誉会長。

齊藤 けっこうメチャクチャやっていたのは確かです。当時のエニックスはクリスマスにファミリーパーティーをやっていて、その企画を新卒が考えるんですが、私は役員をステージに上げて万歩計を振らせて、誰が一番でしょうみたいなのをやったりとか、全身タイツを着て司会をやったりしたんですよ。それで、何かおかしなことを考えるヤツがいるなっていうことで呼ばれた感じです。たぶん。

それは目立ちますよね。

齊藤 そんなつもりはまったくなかったんですけど、今考えたらメチャクチャでしたね。

ゲーム作りの現場に行かれたわけですが、そこでは最初何をおやりになったんですか。

齊藤 アシスタントプロデューサーからスタートして、一番最初はスーパーファミコンのゲームを。『ミスティックアーク』(注12)なんかですね。

注12:異世界に連れ去れた主人公が自身の世界に戻るため、さまざまな世界を旅する1995年発売のファンタジーRPG。

実際にやられてみてどうでしたか?

齊藤 あんまり大きな声では言えないですけど、当時の開発会社は有象無象なところがけっこうあって、なんか同人みたいな会社も……打ち合わせに行くと開発がテレビの前で夕方5時から始まるアニメを見ていたりとかね。で、私たちが来たら「ワーッ」ってクモの子を散らすように自分の席に戻っていくんです。『バーニングヒーローズ』(注13)っていうゲームを作っていたときがまさにそうでしたね。

注13:8人の主人公の物語を楽しめるオムニバス形式のRPGで、正式名は『熱血大陸バーニングヒーローズ』。1995年発売。

「メインプログラマーが逃げた!」「探せ!」みたいな……笑

あ~~仕事なんだか遊んでいるのか分かんないみたいな。そういうのは許せなかったんじゃないですか?

齊藤 ちゃんとやることをやっているんだったらいいんですよ? でも、そういうときって、往々にしてちゃんとやっていないんです。打ち合わせに行って、じゃあ成果物を見ましょうとなるじゃないですか。で、見せてもらったら先月と全然変わってねえ、みたいな(笑)。そんなことがいっぱいありました。契約すらあるのか、みたいな感じでしたよね。

そんなレベルの頃ですか。

齊藤 はい、ちょうどファミコンからスーファミに移るぐらいですね。そんな話はい~っぱいありますよ。『ワンダープロジェクトJ』(注14)っていうゲームでデバックのお手伝いとかしていたときも「メインプログラマーが逃げた!」「探せ!」みたいな、ハハハハ。

注14:機械人間の少年ピーノを育てていく1994年発売の育成シミュレーションで。アニメーションでの演出や自由度の高い育成システム、人間との争いを背景とした壮大なストーリーなどが話題となった。正式名は『ワンダープロジェクトJ 機械の少年ピーノ』。

あの頃って逃げる人がいましたよね

撮影 / 北岡一浩 取材協力 / 仁志睦


続きは第2回インタビューへ
2月18日(月)公開予定

ゲームプロデュースの最先端 齊藤陽介氏(中)多分、みんなバカだった…

ゲームプロデュースの最先端 齊藤陽介氏(中)多分、みんなバカだった…

2019.02.18

著者プロフィール:黒川文雄【インタビュー取材】

くろかわ・ふみお
1960年、東京都生まれ。音楽ビジネス、ギャガにて映画・映像ビジネス、セガ、デジキューブ、コナミDEにてゲームソフトビジネス、デックスエンタテインメント、NHN Japan(現LINE・NHN PlayArt)にてオンラインゲームコンテンツ、そしてブシロードにてカードゲームビジネスなどエンタテインメントビジネスとコンテンツの表と裏を知りつくすメディアコンテンツ研究家。コラム執筆家。アドバイザー・顧問。黒川メディアコンテンツ研究所・所長。株式会社ジェミニエンタテインメント代表。DMMオンラインサロンにて「オンラインサロン黒川塾」を展開中。
黒川塾主宰。ゲームコンテンツ、映像コンテンツなどプロデュース作多数。

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