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鈴木拡樹が“生きろ”と顎にストレートパンチを食らわせる舞台『どろろ』絶賛上演中!

鈴木拡樹が“生きろ”と顎にストレートパンチを食らわせる舞台『どろろ』絶賛上演中!

3月2日(土)の梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティから上演が始まっている舞台『どろろ』。原作は手塚治虫の同名漫画で、体の部位を失った男・百鬼丸が、盗賊のどろろと妖怪を退治しながら、自らの体を取り戻していくストーリー。脚本・演出は西田大輔。役者陣は、主役の鈴木拡樹だけでなく、多くの話題作に出演している北原里英、有澤樟太郎、健人などが脇を固め、手練れのスタッフ・キャスト陣が贈るスペクタクル性の高い舞台となっている。
そのゲネプロと舞台挨拶が3月7日(木)の東京公演の初日前に行われた。

取材・文・撮影 / 竹下力

鈴木拡樹の気持ちが滾るだけで、舞台全体が緊張感に満ちる

幼い頃から両親に漫画好きだと公言した覚えはないが、父親から譲り受けた初めての漫画本が『どろろ』だった。それ以降、放送中のアニメも観ているし、ノベライズも読み漁り、2007年の実写映画に至っては、何の因果か父親とふたりで観ることになった。私が手塚治虫に触れた初めての作品で、父親にとっては私に何かを語りかけたいと思うほど魂を揺さぶられる漫画だったわけだ。

親子2代にわたって大きな影響を与えたのは、諸説あれど完璧な終わりを迎えたわけではない、つまり未完成な作品であるという要素が大きいだろう。時代背景を含め、なぜそうなったのかというエピソードは掃いて捨てるほどあるが、完璧ではないからこそ持ち得た強い“飢え”や“渇き”が作品から伝わってくる。百鬼丸とどろろの設定が面白い、ということはもちろんだけれど、早く続きを読みたい、あるいはちゃんとした結末を知りたい、こんな話になるのではないか、読者の想像力をかき立てるからこそ、現在でも舞台にアニメにゲームに、映画になり、時代を超えて途方もない普遍的な力を持つ作品になったのだと思う。

今作ではそんな飢餓感が舞台だからこそ生々しく感じられた。そもそも登場人物が、国の平和を、母を、父を、家族を、力を、血を、愛を、自分の体を、己の存在価値を求めて飢えている。それらが目の前で本物の肉体と装置で表現される。人間をリアルに描こうとする“劇画”という表現手法にぴったりくる。

舞台版の物語は醍醐の国の主である景光(唐橋 充)の妻、縫の方(大湖せしる)の出産シーンから始まる。その頃の国は、飢饉、流行病、他国とのいざこざなどで疲弊しており、景光はある寺のお堂で十二体の鬼神像に国の安定と復活を願った。そして約束手形として鬼神たちが要求したもの。それが縫の方から産まれる赤ん坊の体だった。子供は目や鼻、口、手、足などあちこちが欠けて産まれ、異形の者として川に流され、捨てられてしまう。そして時は流れ、どろろ(北原里英)という幼い盗賊が、その赤子と出会う。それが、両腕に刀を仕込んだ百鬼丸(鈴木拡樹)だった。彼は鬼神たちを倒し、己の体を取り戻そうと旅を続けていた。その一方で、鬼神たちによって平和がもたらされた醍醐の国では、多宝丸(有澤樟太郎)という世継ぎも産まれ、国は安定したかに見えたのだが……。

人の心を乗っ取る妖刀の似蛭(にひる)や、ベルリンの壁といった戦争の痕跡をカリカチュアライズした“バンモン”という壁もしっかりと登場させ、手塚治虫の世界を忠実に再現しているのに、それ以上に西田大輔にしか表現できない世界がそこにはあった。劇場を荒野にしてしまおうとする猛烈な勢いの殺陣の応酬が乘峯雅寛の美術と相まって凄まじい迫力を表出させている。西田は舞台ならではのダイナミズムを生みだすことに成功したと言っていい。しかし、そこに、“もっと過剰に”“もっと大胆に”できるのではないか、という作家としての“飢え”を感じたのは気のせいだろうか。

舞台全体にもそんな“飢え”という感覚が漂っている。その“飢え”の中心にいるのが、百鬼丸。敵を倒し、体の一部を手に入れても、すべてを手に入れるまで求めることを止めない。鈴木拡樹はその飢えた感情を圧巻の表現で見せる。物語の序盤では所作を中心に慎重に演じ、目でモノを見ること、耳で音や声を聞くこと、言葉を声に出すことに対するもどかしさを、身体全体を使って発散していた。たとえ観客が己の耳、目、鼻を塞いでも、聞こえてしまう音、見えてしまう気迫、匂ってくる色気。鈴木拡樹の一挙手一投足、気持ちが滾るだけで、舞台全体が緊張感に満ち、観客を「どろろ」の世界に引きずり込む。

そして、多宝丸 役の有澤樟太郎の迫真の演技がより一層、百鬼丸の存在を際立たせる。多宝丸は、父も母も国の平和も、兄の百鬼丸も求めている。でも、それは許されない。しがらみ、自分の力のなさゆえに、心は乾ききっていく。百鬼丸は己が身体を手に入れて飢えを少しずつ満たしていくのに、多宝丸はどんどん飢えていく。そのコントラストに目を見張る。

そんな“飢え”や“渇き”を癒す存在が、北原里英が演じるどろろだろう。戦闘(殺陣)にはほとんど加わらない。不意に手にする武器はあっても、自身は戦闘を求めていない。すなわち“飢え”や“渇き”のアンチテーゼとして屹立している。だからこそ、百鬼丸はどろろを求め、どろろの癒しが百鬼丸の救いになるのだ。そして、どろろも自分にはない百鬼丸の飢えを求めている。鈴木はインタビューで本作を“バディもの”と言ったけれど、どちらかが欠けても脆く崩れてしまう、そんなふたりだけにしか築けない痛いほどの緊密な仲がこの舞台をリアリティのあるものにしてくれていると思う。

この物語の登場人物たちは、果てない戦いの末にどこに辿り着くのだろう? その答えは観客に委ねられている。百鬼丸はすべての身体を手に入れ、100パーセントの人間に戻ったとき、何者になるのか? 本来、失った身体を手に入れるということは、人間になるための“手段”であるはずなのに、見ているとそれ自体がいつの間にか“目的”になってしまう。だが、最終目的は、人間になるとはどういうことなのか、だ。その永遠に辿り着けない“目的”が描かれているからこそ、観客の心は、もっと続きが見たい、結末を知りたいという、“飢え”や“乾き”に満ちてしまうのだ。

この終わりのない感情は、人間の生きたいという宣言でもある気がする。“バンモン”という今では時代がかったモチーフは、西田によって生と死の境にある牢獄となっている。それを超えた先に死が待っている。でも、我々はその内側に拘束されることで必死にもがいているのだ。人は生きながら死んで、死にながら生きるという原初的な人間の生存原理を、ナアナアに生きている私のような人間の気づかせてくれる。終演後、涙が止まらなかったのは、ほとんど素舞台の板の上に“愛”という脆くて儚い、狂おしい感情が吹き荒んでいたからだ。“飢え”や“渇き”がほんの一瞬だけ癒される瞬間に感じる壮絶なカタルシスが待っている傑作だった。

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