黒川文雄のエンタメ異人伝  vol. 26

Interview

稀代のゲームプロデューサー「シブサワ・コウ」襟川陽一氏(上)パソコンは夢の小箱?

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音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

2017年7月23日から三日間に渡って掲載された「エンタメ異人伝」の6話にコーエーテクモホールディングス 襟川惠子代表取締役会長に登場いただきました。

ビデオゲーム産業界での襟川代表取締役会長の活躍はすでに多くの人の知るところですが、「エンタメ異人伝」のインタビューでは、女史のプライベートな半生を振り返るものとなり、記事として好評を博しました。そこで語られたのは、私人としてのものが多かったことがその理由だと思います。

そして今回、襟川惠子の夫である、「シブサワ・コウ」こと襟川陽一の取材においては、先の「エンタメ異人伝」で語られた陽一との出会いなどを含めて、反証となる部分も大いに聞きたかった部分です。

ビデオゲーム産業界の始まりとともに、ゲームソフト開発にその人生の大半の時間を共にした二人、約40年、夫唱婦随(ふしょうふずい)とは若干色合いが異なりますが、パートナーとしてのお互いの存在があったからこそ、今に至る歴史が紡がれたのではないでしょうか。

今回の「エンタメ異人伝」は、襟川惠子、襟川陽一、このふたりで歩んだ人生を襟川陽一にフォーカスし、彼の目線で語るものです。最後までお付き合いください。

(敬称略)

インタビュー取材・文 / 黒川文雄


2年前の惠子会長のインタビューへの反論…!?

襟川 その節は会長がお世話になりました(注1)。

注1:エンタメ異人伝vol.6で、襟川陽一氏の妻であるコーエーテクモゲームスホールディングス代表取締役会長の襟川惠子氏にお話をうかがった。

乙女ゲーム生みの親 襟川惠子氏(上)フランス人形から不良少女へ!?

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2017.07.23

こちらこそありがとうございました。

襟川 あれは何年前でしたっけ。

2年前です。この連載の初期の段階で受けていただきました。初めて聞くようなお話も多かったので非常に好評で、そのあたりについて陽一社長にもぜひお聞きしたいなと。

襟川 同じ時代に同じ仕事をずうっとしてきたので、だいぶ話がダブっちゃいますけどね。

陽一社長が書かれた書籍(注2)も読ませていただきました。最近は露出も多くて、もういろいろなところでしゃべったんだよなと思うところも多々あると思うのですが。

注2:襟川陽一氏がシブサワ・コウとして自身の半生やクリエイティブ術などについて綴った『シブサワ・コウ 0から1を創造する力』(PHP研究)のこと。

襟川 そうですね。ほとんどしゃべってしまったので、私よりも鯉沼(久史)(注3)のほうがいいんじゃないかと(笑)。

注3:コーエーテクモゲームス代表取締役社長。『戦国無双』や『ガンダム無双』、『ワンピース海賊無双』など、数多の『無双』シリーズのタイトルを手がけたことで知られる。

世界中のゲームファンの方が「頑張れ」と応援してくれたこと

(笑)…とはいえですね、陽一社長に出ていただきたいという読者の声が以前からたくさんありまして。それは私も同じで、ぜひお話をうかがいたいと思っていたんです。ゲームを作り始めて、もう40年近いですよね。

5歳のころ、両親と

襟川 1980年からですから、もう39年ですね。

一代で会社がここまで成長と言うケースは、とても素晴らしいことですよね。

襟川 ゲームファンの皆様方が応援してくださっているということが、やっぱり一番うれしいです。国内だけではなくて、世界中のゲームファンの方が「頑張れ」と応援してくださる。そういう言葉に励まされることで、「いいゲーム作ろう」と自然に動機付けされると言いますか、きっかけが出来上がって、それでゲームを何本も作ってきたんですね。

黎明期の頃にゲームと出会って、ゲーム作りを始めて、それをゲームファンの方々が叱咤激励して引き上げて下さって。そういったことを1980年からずっと続けてきまして、それがさらにどんどん……ビジネスでいえば2018年のゲームマーケットは15兆円になるとも言われていますよね。それぐらいの勢いで、急激に今ゲームの世界は広がっていっています。そういう中で40年近くゲームの仕事を続けられたというのは非常に幸せです。本当にファンの皆様に感謝したいと思います。

作ったものが評価されて、陽一社長がさらに頑張ろうと思われて、またいいものを作ってと。すごくいいスパイラルだなと御社の歴史を見ていて僕は思います。

襟川 そうですね、おっしゃるとおりです。

会社は生き物で、傷ついたり、活気に満ちていたり…

でも、やっぱり初期の頃はいろいろ御苦労もされましたよね?

襟川 全然苦労なんてしていないですよ。好きなことをやってきましたから。

そう言えるのはいいですよね。とはいえ、御実家が経営されていた会社が廃業するというのは厳しい経験だったと思います。そうしたことを目の当たりにされたときは、どのように感じられたのでしょうか。

襟川 う~~ん……会社っていうのは生き物であってですね。さまざまな理由で傷ついていって、最後どうにもならなくなると廃業して無くなる。生きていた会社、活気に満ちていた会社がまったく無になってしまうということを目の当たりにしたわけです。ですから、家業が廃業したことへの悔しさはもちろんありましたが、同時に父親の会社の残務処理をしていく中で、そこに至った原因というのも自分なりに分かってきまして。自分だったらこうする、こういう風にすればうまくいくんじゃないかと思い始めたんです。

そのとき、以前に勤めていた大阪の会社に戻って、営業の仕事をもう一度やらないかというお話もいただいていたんですが、無謀な夢といいますか、希望といいますか。甘い考えではあったんですけれども、何かやってみようという気持ちが芽生えてきまして、それで光栄(当時)を創業したんです。

13才のとき、姉と

御家業と同じ業種で創業されたわけですよね。ほかのインタビューなどでも、自分ならやれるんじゃないかという気持ちがあったと、お答えになっていますが、やっぱりそうしたお気持ちが強かったのでしょうか。

襟川 戦前から染料問屋を営んでいましたから、その頃から長くお付き合いいただいている染工場やプリント工場、繊維製品を整理する会社などがありまして。襟川家の3代目が家業を再興するんだったら応援するよという暖かいお言葉を、そうした会社からいただいたんですね。そういったお言葉にお応えするということで、染料工業薬品の販売の仕事をもう1回スタートしたというのが実態です。ただ、自分としては何か新しいことをやらなくちゃいけないという気持ちが強くて、包装用の資材であるとか、販促用のプロモーション機材であるとか、いろいろなことにチャレンジをしていきました。

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