横川良明の演劇コラム「本日は休演日」  vol. 14

Column

林遣都が見せた、罪悪と陶酔。

林遣都が見せた、罪悪と陶酔。
今月の1本:舞台『熱帯樹』

ライター・横川良明がふれた作品の中から、心に残った1本をチョイス。独断と偏見に基づき、作品の魅力を解説するこのコーナー。今月は林遣都主演の舞台『熱帯樹』をピックアップ。ある家族の愛憎劇が炙り出す人間の業を読み解きます。

文 / 横川良明

心に熱帯樹を生やす娘と、鳥籠の母。

熱帯樹は、1年を通じて気候が暖かく雨の多い地域に生い茂るという。そう聞いて、僕は何年か前に訪れたバリの景色を思い出した。降り注ぐ眩しい陽射しと、素肌にねっとり絡みつくような暑さ。温暖で湿度の高いバリは、僕を、東京にいるときよりも原始的な気持ちにさせた。

三島由紀夫の戯曲『熱帯樹』は、一言で言うと、ある一家の倒錯した愛憎劇だ。母の律子(中嶋朋子)は、夫・恵三郎(鶴見辰吾)を亡き者にすべく、息子である勇(林遣都)に父を殺せと唆す。一方、母を憎む娘・郁子(岡本玲)は、愛しい兄に母を殺すよう焚きつける。母と妹の間を行き来する勇は、それぞれに対する愛に心を乱しながらも、憎き父へ殺意の刃を向ける。

ギリシャ悲劇の『オイディプス』や『エレクトラ』を彷彿とさせる、血を分けた者同士の愛と憎しみの交錯は、満ち足りないものを抱えた者同士による渇望の物語に思えた。

娘の郁子は、病に伏せ、未来と自由を剥奪されている。母の律子も、一見華やかに見えるが、内実は夫の意に従うしかない人形だ。着物ひとつも自分で選ぶ自由は、ない。そして実の妹との近親相姦に及ぶ勇も、その行為の根源にあるのは、叶うことのない母への愛念。すべての元凶である父・恵三郎もまた権力という豪華な羽織を一枚脱げば、がらんどうだ。みんなが、寂しさに取り憑かれている。みんな、誰かの何かになりたがっている。

『熱帯樹』は、そんな家族の崩壊劇だ。その中で特に印象的だったのが、タイトルにもなっている「熱帯樹」という隠喩。

母・律子は、兄妹という関係にありながら睦み合い、母殺しを企てる子どもたちを、熱帯樹に例えた。つやつやした緑の葉。毒々しい赤い花。律子は幻の熱帯樹をそう形容する。その言葉から想起されるのは、あらゆるものを養分にして己の生気へと変換する逞しさと強欲さ。であるなら、赤い着物をまとい、美しくあるために贅の限りを尽くす律子の中にこそ、熱帯樹が生育しているように思えた。

だが違う。熱帯樹は、高温多湿の土地でしか育たない。目に痛いほどの原色のジャングルだ。そこには、保証はないが、自由はある。夫に跪くことでしか生きる術を持たない律子には似合わない。

では律子にあつらえられた場所はどこかと言えば、答えは舞台上に最初から提示されている。鳥籠だ。飼い主の歓心を買うために愛らしい声で啼く鳥は、夫の望むがままに振る舞う律子そのもの。そう自覚しているからこそ、子どもたちの間で育つ熱帯樹を嫌悪した。

そして郁子もまた母が籠の鳥であることをわかっているから、自らの手で何度も鳥を絞め殺した。ベッドにくくりつけられたような自らを哀れんで、同じ境遇の籠の鳥を近くに置いたのではない。妄想の中で、何度も母を殺すことで、郁子は今にも消えそうな命の火に薪をくべていたのではないだろうか。

最後に郁子と勇が辿る顛末も、絶望というよりは今までになく生命の躍動に満ちていて、むしろ新しい楽園――熱帯樹の生い茂る原色のジャングルに向けて自由を獲得したかのように見えた。白とグレー、そしてオフホワイトの色しか持たなかった勇と郁子は、家を捨てることで色を取り戻した。一方で、残された律子は、華やかな衣装を身にまといながら、鳥籠の中で生き続ける。原始に帰った者と、とどまった者。最後に律子が放った小鳥は、彼女の願いか。

屏風のような舞台美術は熱帯樹の見立てであり、まるで意思を持った触手のように蠢いては、舞台空間に変化をもたらす。その伸びた枝葉は、5人の登場人物を抱きとめるようにも、食らい尽くすようにも見えて、想像を刺激する。小川絵梨子がシアタートラムという小空間に出現させた『熱帯樹』は、三島由紀夫らしい「耽美」や「破滅」といったキーワードよりも、もっと生身の人間劇として強く印象に残った。

中嶋朋子と栗田桃子。二人の実力派女優が、作品に奥行きをもたらした

俳優は5人それぞれに充実していたが、特に面白かったのは中嶋朋子と栗田桃子のふたり。ギリシャ悲劇の出演経験も豊富な中嶋は、三島由紀夫の台詞が持つ流麗な韻律を鮮やかに操り、作品の機動力となった。

律子にとっての勇は、枯れ果てた自尊感情を満たしてくれる存在に見えた。相手を傷つけても許されるのは、愛されている人間の特権だ。その権利を勇に行使することで、彼女はあの家で気が狂わずに過ごせたのではないだろうか。母になりたいと願った律子だが、僕には律子は最後まで女に見えた。そんな律子の空虚を、中嶋は生々しく表現してみせた。

一方、外側の視点から家族を観察する従妹の信子を演じた栗田桃子は、否応なく熱を孕む本作の中で、一貫して飄々と、温度を変えず存在し続けることで、信子の不気味さを浮き上がらせた。

信子の衣装は、黒。どんな色と交わっても決して影響されることはなく、破滅や不穏の象徴とされる色でもある。家族のもつれに何の関心もないような顔で編み物をしながら、実のところ壁の向こう側から聞こえる崩壊の音に注意深く耳をそばだて、自らの望む形へ家族を編み上げているのが、信子だ。

他の4人が滑稽なりに人間らしい人物であるのに対し、信子はしたたかで恐ろしい。栗田の淡々とした声色と真意の読み取れない表情が、傍観者である信子を観る者の角度によってどちらにでも振れる、映し鏡のようなキャラクターにせしめた。

苦悩の極致で光る、俳優・林遣都のすごみ

そして、勇役の林遣都は、非常に負荷のかかる役どころであったように思う。滔々と胸の内をぶちまけるキャラクターが多い中、勇は自ら“語る”のではなく他者から“語られる”ことによって造形されていく。

象徴的なのが、勇にとってある重大な場面において、勇は舞台に姿を現さず影のみで演じるという演出が施されていた。それはとても刺激的な試みで、思わず釘付けにされたのだが、つまり勇という役は、確たる答えを役者自らが賢しらに掲げることを求められていない、というふうにも受け取れた。

周囲を圧倒することによって君臨するような役ではないし、共感によって観客と手をつなげるような役でもない。言い尽くせない難しさが、勇には混在している。

その中で、林遣都のすごみを感じた瞬間があった。それが、母・律子が娘・郁子の前で、勇が自分の乳房の間に顔を埋めたことを語るシーンだ。その手で母を殺しに来たつもりが、母に抱かれ、支配されることに安息と幸福を覚え、目的をなし遂げられぬまま、悄然とその場を後にした勇。その薄志弱行ぶりが、母の口によって暴露される。

このときの勇の打ちひしがれた姿に、林遣都の底力を見た。勇には弁解も反論も与えられない。ただ母によって語られる甘美な過ちを、降り注ぐ妹からの視線を、背中で受け止めるだけ。勇の全身は強張り、震え、大きな瞳は今にも決壊しそうな感情を必死で食い止めている。

その身体には、下劣な自分を恥じ、責め苛む罪悪感が渦巻いているようにも見える。だが一方で辱めに震えながらも、その血流には強い陶酔と背徳が漲り、白い肌が母の温もりで今なお火照っているようにも感じられた。

何より感嘆したのが、そうした勇の苦悩が卑しいのに美しいというアンビバレンツの境地にあることだった。もう少し林遣都が若ければ、もっと潔癖さが強く押し出されていたのではないかなと思う。だが、経験を積み、より表現が豊潤に、複雑になった林遣都は、人間の俗っぽさも体現するようになった。

表現というものは、単一ではつまらない。同時に成立するはずのない数多の感情がないまぜになり、安定を失い、それでも膨張は止まらず、最後は波濤のように砕ける。そうした混沌にこそ、人間の本質がある。

林遣都は表情と身体だけで、そんな勇の内面の格闘と崩壊する自我を観客に伝えた。彼があの後妹を抱いたのは、本当に愛ゆえだったのだろうか。郁子は、「息子」にも「男」にもなれなかった勇に、「罰」を与えることで「救済」を施した。母への思慕とも恋慕ともつかぬ感情で雁字搦めになっていた勇は、あの「罰」を引き受けることで、明快な役割と心の安寧を得た。それを愛と呼ぶのか、別の何かと呼ぶのか。

こうして思い返すだけで胸が切り刻まれそうになる。鬱蒼とした熱帯雨林から立ちのぼる熱情に最も浮かされていたのは、観客である僕だったのかもしれない。

舞台『熱帯樹』

東京:2019年2月17日 (日) ~2019年3月8日 (金)@シアタートラム
兵庫:2019年3月12日~2019年3月13日@兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール
愛知:2019年3月16日~2019年3月17日@東海市芸術劇場大ホール

作:三島由紀夫
演出:小川絵梨子
出演:林遣都、岡本玲、栗田桃子、鶴見辰吾、中嶋朋子

オフィシャルサイト

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