横川良明の演劇コラム「本日は休演日」  vol. 15

Column

誰が百鬼丸を人間にしたのか。舞台『どろろ』が示した答え

誰が百鬼丸を人間にしたのか。舞台『どろろ』が示した答え
今月の1本:舞台『どろろ』

ライター・横川良明がふれた作品の中から、心に残った1本をチョイス。独断と偏見に基づき、作品の魅力を解説するこのコーナー。今月は舞台『どろろ』をピックアップ。原作ともアニメとも違う、オリジナルの「どろろ」の核にあったものを読み解きます。

文 / 横川良明

手塚治虫の「どろろ」をベースに舞台ならではの「どろろ」へ

原作は、巨匠・手塚治虫の同名漫画。体の48箇所を魔神に奪われた百鬼丸が、妖怪討伐の旅を経て失った体の一部を取り戻す怪奇ファンタジーだ。

ぶっきらぼうだが根は優しい百鬼丸と、その相棒となる腕白で勇敢な泥棒・どろろ。ふたりは少しずつ絆を深めながら、次々と襲いかかる妖怪を打ち倒す。手塚治虫らしいユーモアと、人間社会に対するアイロニーが織り込まれた本作は、多くの読者の心を掴み、これまでアニメ化、ゲーム化、実写映画化と多彩なメディアミックスを展開してきた。

そんな中での今回のアニメ化&舞台化だ。原作発表から半世紀以上を経て再び命を宿した「どろろ」は、私たちがよく知る手塚治虫の「どろろ」とはまた違う空気をまとっていた。原作の根底に息づくメッセージを焙煎し、よりおどろおどろしく、よりドラマティックに、そしてより胸をえぐるような哀切をまとった「どろろ」として私たちの前に現れたのだ。

我が子を生贄にした父と母。その行為は正義か、悪か

原作との大きな相違点は、まず百鬼丸(鈴木拡樹)のキャラクター。時に軽口を叩くこともあった原作の百鬼丸と違い、アニメ&舞台の百鬼丸は序盤では一切言葉を発さない。まるで人形あるいは生きた躯のようだ。これにより、手塚的な親しみやすいギャグは完全に封印された一方で、逆に百鬼丸の背負わされた因果の苛烈さが一層際立つアレンジとなっている。

もうひとつの相違点が、百鬼丸が生贄に捧げられた理由だ。原作では、父・醍醐景光(唐橋充)の「天下獲り」の野望のために生贄に捧げた百鬼丸だが、アニメ&舞台では、「領土の繁栄」と微妙に理由が変更されている。民の暮らしを守るという大義名分をつけることで、景光の非道な行為に正当性が加えられた恰好だ。

その正当性により、景光も、母・縫の方(大湖せしる)も、弟・多宝丸(有澤樟太郎)も、それぞれに百鬼丸の存在とどう向き合うか大きく葛藤を強いられることになる。ここに、舞台『どろろ』の面白さがある。

張本人である景光は、領民の暮らしを守るために我が子を犠牲にするのは武士として何ら恥じることではないと唱え、国を守る領主としての哲学を主張する。

一方で、人道に外れた両親の行いを非難する多宝丸だが、その純粋さ、善良さは彼の育ちの良さゆえであり、それ自体が同じ両親から生まれながら修羅の道を歩まざるを得なかった百鬼丸との対照性を表しているから皮肉だ。ずっと何自由ない生活を送ってきた多宝丸が、百鬼丸の存在を知ることで、今まで関わりのなかった修羅の道を選び取るところに、人が人として生きる難しさを感じた。

そして何より、どんなに呪われた子であろうと我が子を愛し、それでも百鬼丸と決別を果たす縫の方に人間の持つ矛盾や利己心が凝縮されていた。愛してはいる。だが、受け入れることはできない。なぜなら、百鬼丸の存在を受け入れることは、すなわちこの国の滅亡を意味することだから。

結局、血を分けた家族は誰ひとり百鬼丸を受け入れられなかった。ある意味で、とても人間らしい選択だった。

血が家族の証明でないのなら、何が人と人を家族にするのか

では、家族とは何なのだろうか。血のつながった父母や弟は、国のために百鬼丸を犠牲にした。そこに、家族の情はない。では、血のつながりが家族の証明ではないのなら、何が人と人を家族にするのか。

その答えを示すのが、どろろ(北原里英)と寿海(児島功一)の存在だ。孤独でありながら、自らが孤独であることを自覚するほどの人間的な感情さえ持ち合わせていなかった百鬼丸。ずっと人ならざるものとして生きてきた彼を、どろろは「あにき」と慕い、季節の美しさを教えてくれた。

そして、川に流された百鬼丸の命を救い、義手や義足を与えた寿海は、もうひとりの生みの親。炎の中で百鬼丸のために駆けつけた終盤のシーンは、観客の涙腺を揺さぶる至高の名場面だ。

景光ら醍醐一族にはなくて、どろろや寿海にあったもの。それは、ありのままの百鬼丸を肯定すること。どんなに呪われた生まれであろうと、どんなにその手が血まみれであろうと、どろろも寿海も百鬼丸を受け入れた。仮にふたりが醍醐一族のように国と百鬼丸を秤にかけられたとしても、きっと百鬼丸を選んだのではないだろうか。

我が身を投げ打っても、守りたいもの。たとえ日が暮れても、信じて帰りを待つもの。それが、家族だ。だから、家族なんだ。血生臭い修羅の道の果てに、百鬼丸が景光を許すことができたのも、自分には肯定してくれる家族がいると感じられたから。帰る場所があるから。あの瞬間、ようやく百鬼丸は、人ならざるものから、人間へと変わることができた。身体の一部を取り戻していくこと以上に大きなものを百鬼丸は手に入れたのだ。

舞台『どろろ』は国という大きなもののために犠牲となった個人が、苛酷な運命をはねのけ、家族を見つける物語だった。ラストシーンのどろろの視線の先には、きっと今まで見たことのないような優しい微笑みを浮かべている百鬼丸がいる。そう静かに願うように、劇場の光が落ちた。

「佇まい」で見せる。それが、鈴木拡樹の役者力

キャストは総じて実力者が揃っており、その力量で観客をぐっと引き込んだ。特に百鬼丸役の鈴木拡樹は、前半ほとんど台詞を発しない。序盤は義眼のため、目に表情も乗せられない。その中で刀を振るい、敵と戦い、少しずつ人間としての感情を取り戻していく百鬼丸の変化を表現しなければいけなかった。言葉で説明する以上に難しい役だが、それを鮮やかにやってみせたところに、鈴木拡樹が鈴木拡樹たる所以を見た。

鈴木拡樹は、とにかく「佇まい」の見せ方がこの上なく優れている。まるで殺人マシーンのような前半の百鬼丸と、痛みを知り、感情を覚え、激しく心が揺れ動く中で自らの宿命と対峙する百鬼丸とでは、立ち姿も、刀の振るい方も、何もかもが違う。究極的に言えば、彼がそこに立っているだけで、観客はその「佇まい」に物語を見てしまう。そういう稀有な力を持った役者だ。そのブラックホールのような不思議な吸引力が、“欠落”を抱える百鬼丸によく合っていた。

有澤樟太郎はよく通る声と細身長身という舞台俳優にとって無上の武器を引っさげつつ、この多宝丸では気迫のこもった演技で熱を生んだ。彼の持つ独特の品の良さと華やかさが名家の息子である多宝丸にぴったりで、居並ぶだけで闇の道を生きてきた百鬼丸との対照性が表現されていた。

また、賽の目の三郎太 役の健人と、仁木田之介 役の影山達也も、醍醐一族との戦いというメインストーリーを盛り上げる上で欠かせないキャラクターとして存在感を発揮した。

母を見殺しにした三郎太は、自らが「逃げた」ことに対する負い目から修羅となり、百鬼丸に襲いかかる。そのときの悔恨に震える咆哮は、きっと多くの観客の心にこだましたはずだ。また、妖刀・似蛭に魅入られ修羅と化した影山の演技は、狂気の中にゾクゾクと震える色気があり、新境地を切り開いた。

母を失ったがために、人ならざるものになった三郎太と、妹がいながらも人ならざるものに堕ちた田之介。どちらも人ならざるものながら、最後に人間らしく思えたのは、演じる役者の力あってのことだ。

2.5次元舞台というと、一般的に「原作の世界を忠実に再現する」ことが大前提と言われているが、この舞台『どろろ』はアニメ版と連動したプロジェクトであり、手塚治虫の原作をベースに、この2019年に上演する意義のある作品として、つくり手たちが換骨奪胎的なチャレンジを試みている。アニメのOPである女王蜂の『火炎』が繰り返し使われるなど、世界観を共有する一方で、アニメ版では未登場の賽の目の三郎太が登場し、醍醐一族の顛末も独自路線をとるなど、舞台オリジナル要素も満載。2.5次元舞台がもはや単一の定義では括れないほど進化・多様化していることを改めて証明する作品でもあった。

舞台『どろろ』

大阪公演:2019年3月2日(土)~3日(日)梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティ
東京公演:2019年3月7日(木)~3月17日(日)サンシャイン劇場
福岡公演:2019年3月20日(水)ももちパレス
三重公演:2019年3月23日(土)三重県文化会館大ホール

原作:手塚治虫 脚本・演出:西田大輔 脚本監修:小林靖子
出演: 鈴木拡樹/北原里英/有澤樟太郎/健人 影山達也 田村升吾 赤塚篤紀 児島功一/唐橋充 大湖せしる

オフィシャルサイト
https://www.dororo-stage.com/

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