平成スポーツ 勝手にプレイバック!  vol. 4

Column

日本から世界へ! 平成スポーツ・パイオニアの歴史

日本から世界へ! 平成スポーツ・パイオニアの歴史

様々なスポーツジャンルで、世界へと挑戦するプレーヤーが現れた「平成」。日本のスポーツ史において、これほどまで日本と世界の距離が近づいたことはないだろう。これから始まる「令和」でも、多くのプレーヤーが海を渡り、世界を舞台に活躍してくれるはずだ。

ここで忘れてはいけないのが、各スポーツジャンルで海外進出の礎を築いた “パイオニア”の存在。野球・サッカー・テニス・バスケットボールの4つの競技において、本格的な海外進出を果たしたパイオニア達の軌跡を振り返っていく。

文 / 山下貴將

野球界のパイオニア 野茂英雄

田中将大、大谷翔平など多くの日本人選手が活躍するようになったMLB。日本での実績を作った後、野球の本場アメリカに挑戦するために海を渡る――。今では当たり前となった、この流れを平成初期に作ってくれたのが、野茂英雄だ。今年3月に現役引退を発表したイチローも、野茂の存在がなければMLBでの活躍はなかったかもしれない。

高校卒業後、社会人野球の世界で圧倒的な成績を残した野茂。ソウル・オリンピックで日本代表の銀メダル獲得に貢献するなど、アマチュア球界No.1投手として君臨した。1989年のドラフトでは、史上最多となる8球団が競合。この記録は現在においても破られていない。抽選の結果、近鉄バファローズと契約を結んだ野茂だが、契約の条件として野茂のトレードマークでもある「トルネード投法」のフォーム改造を行わないという異例の条件もつけられていたという。

プロ入り後は、ルーキーイヤーから大活躍。新人王はもちろんのこと、最多勝利・最多奪三振・最高勝率・最優秀防御率の投手部門四冠を総ナメ。さらには、ベストナイン・沢村賞・MVPにも輝くなど、1年目にして圧巻の成績を残した。わずか5年の在籍ながら、78勝を上げるセンセーショナルな活躍ぶりをみせた。

1994年のシーズン終了後、近鉄との契約交渉が不調に終わると、「任意引退選手」という異例の形でロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。この強行突破ともいえるメジャー挑戦が、その後の日本人選手メジャー挑戦のきっかけとなったのだ。メジャーでは、“ジャーニーマン”として複数の球団を渡り歩きながら、2度のノーヒットノーランを達成。2008年の現役引退まで、MLBで活躍した。

サッカー界のパイオニア 中田英寿

近年、日本人選手の海外移籍が活発なサッカー界。この流れを作ったのは、誰もが認めるレジェンド中田英寿だ。プロ入り前から各年代の日本代表に選出されるなど、将来を渇望される存在だった中田。1995年にベルマーレ平塚に入団してプロとしてのキャリアをスタートさせると、1996年にはアトランタ五輪の代表に選出され、ブラジル代表を撃破する“マイアミの奇跡”に貢献した。

その後、フル代表に選出されるとすぐさまレギュラーに定着。日本代表を初めてのワールドカップ出場に導いた。1998年のフランス・ワールドカップでは3戦全敗となってしまったが、中田のプレーは世界のクラブから評価され、ワールドカップ終了後にはイタリア・セリエAのペルージャへと移籍。開幕戦では、当時ジダンが在籍していた強豪ユベントスから2ゴールをマークするなど、衝撃的なデビューを飾り“NAKATA”の名をヨーロッパ中に知らしめた。その後ASローマ、パルマ、ボローニャ、フィオレンティーナ、ボルトンと複数のクラブを渡り歩いている。

2006年、自身3度目となるドイツワールドカップを最後に現役を退いた中田。敗戦後に、センターサークルで仰向けになっている姿は、多くのサッカーファンの心に残っている平成の名場面と言えるだろう。

テニス界のパイオニア 伊達公子

平成最後の年に、大坂なおみが日本人として初めて世界ランク1位の座に輝いたことで、1つの変革期を迎えつつある日本のテニス界。日本人選手が本格的に世界へ進出する足がかりとなったのは、伊達公子の活躍によるところが大きいだろう。

伊達は1989年にプロ転向を果たすと、その年のうちに4大大会デビュー。翌年には全豪オープンで4回戦進出を果たすなど、徐々に頭角を現し始める。1991年に「バージニア・スリムズ・オブ・ロサンゼルス(LA女子テニス選手権)」で予選出場ながら本戦を勝ち上がり、当時の世界ランカー達を倒す活躍で一気に注目を浴びると、その後もグランドスラムベスト4入を果たす快進撃を続け、1995年には世界ランキング4位を記録するなど名実ともにトッププレイヤーの仲間入りを果たした。

しかし、世界ランキング4位になった翌年に突如引退を表明。まだ25歳という若さでの突然の引退宣言は世界中に衝撃を与えた。その後はエキシビションなどでコートに立つのみだったが、2008年37歳にして現役復帰を決意。約12年ぶりにプロテニスプレーヤーとして、世界ツアーに参戦することになった。復帰初年度、伊達は全日本女子シングルス選手権で見事優勝を果たすなど、長年のブランクを感じさせないプレーで完全復活を印象づけたのだ。その後は、ケガに悩まされながらも現役を続行し、2017年に2度目の引退を宣言。若手選手に大きな刺激を与え続けた、“新たなる挑戦”に幕を閉じた。

バスケットボール界のパイオニア 田臥勇太

身長が大きなハンデとなり得るため、日本人選手がNBAで活躍するのは至難の技だと言われてきた。しかしながら、メンフィス・グリズリーズと2-way契約を交わした渡邉雄太や、今季のドラフトでNBA入りが確実視されている八村塁など、平成の終わりに日本バスケットボール界には次世代のビッグスターが続々と登場した。彼らがNBAで活躍する礎を築いたのが、日本人初のNBAプレーヤー田臥勇太だ。

バスケットボールの強豪校・秋田県立能代工業高では、1年生からレギュラーとして定着。今や伝説となっている、夏の高校総体、秋の国体、冬の全国高校選抜の主要3大タイトルを3年間に渡って独占する“9冠”を達成したのだ。高校卒業後、日本の実業団を選ばず単身渡米。ブリガムヤング大学ハワイ校に留学しNBAを目指すものの、怪我の影響もあり満足いくプレーができないまま中退。当時のスーパーリーグ、トヨタアルバルクに入団することとなった。

しかし、田臥はわずか1年でトヨタを退団。NBAサマーリーグやプレシーズン戦に参加しながら再びNBAを目指したのだ。そして2004年、フェニックス・サンズと契約を交わし、ついに日本人初のNBAプレーヤーとなった。わずか4試合の出場後、解雇されてしまったものの、渡邉雄太が現れるまでの14年ほどの期間日本人選手がNBAでプレーしていなかった状況をみれば、当時の田臥がどれほどまでに優れたプレーヤーだったかがわかるだろう。

今年、日本代表はワールドカップへの参加を決めた。少しずつではあるが、確実に世界レベルへと近づいている、日本のバスケットボール。世界への足掛かりをつかんだ「平成」が終わる今、「令和」ではどのような飛躍が待っているのか、楽しみでならない。

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