佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 92

Column

木村充揮のアルバムを聴いて、放送禁止になった憂歌団の「おそうじオバチャン」のことを考えてみた

木村充揮のアルバムを聴いて、放送禁止になった憂歌団の「おそうじオバチャン」のことを考えてみた

木村充揮は大阪を拠点に活動するブルース・バンド、憂歌団のヴォーカル&ギターとして、1975年の秋にアルバム『憂歌団』でデビューした。

ぼくが彼らのことを知ったのはそのひと月前、10月1日にシングル・カットされた「おそうじオバチャン」を、発売元のトリオレコードから渡されたからだった。

そのジャケットが発していた不気味なインパクトに驚き、レコードを聴き終わったときには、特別な歌声とユニークな楽曲の両方にすっかり惹きつけられていた。

彼が唄っていたのは日本語によるブルースだと思ったが、そこには大阪という町が持つディープな生活の匂いが漂っていて、得も言われぬリアリティが感じられた。

このユニークな歌がラジオから流れれば、おそらくある程度はヒットするだろうと思った。
その年の前半に大ヒットしたダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン’ブギ」に続いて、庶民的で生活臭のするワークソングに火がつきそうな予感がしたのだ。
実際に放送局などの評判もよく、発売直後から有線放送でもリクエストが入り始めていたという。

わたしゃビルの おそうじオバチャン
わたしゃビルの おそうじオバチャン
モップ使って仕事する
朝・昼・晩と便所をみがく
朝・昼・晩と便所をみがく
ウチの便所はもうイヤヨ
1日働いて、2.000円!
今日も働いて、2.000円!
明日も働いて、2.000円!
クソにまみれて、2.000円!
わたしゃビルのおそうじオバチャン

ところが発売から1週間が過ぎたところで、民放連の「要注意歌謡曲指定Aランク」になったことを知らされた。
そのために「おそうじオバチャン」は放送禁止歌として、民放のラジオやテレビから完全に締め出されてしまったのである。

全員が働きながらバンド活動を行っていた憂歌団というグループにとって、今になって思えばこの放送禁止こそが、運命の分かれ道だったのかもしれない。
木村充揮が当時のことを、こう振り返っていたのが印象的だった。

レコードだしてからも、オレは家で仕事やっとった。残業しとって、晩メシ食うて、もう人仕事しようかな思てたら、かけていたラジオからオレたちの「オバチャン」が出てきて嬉しかった。

けど、「オバチャン」1週間ですぐ放送禁止になってしもてシュン。
あれ、放送禁止になってぇへんかったら、あの時のノリでグッと人気も出たん違うかなぁ。
それが放送禁止になってしもて……。
やっぱり、オバチャンのこと、茶化すいうのは今でも悪いことやと思てる部分あるけど……それは、そういうのを借りてオレの気持ちを聞いて欲しいだけや。
別に何でもエエやん、乞食でも社長でも……オレら大衆いうか、身近な感じで歌てたんやから……

1970年代の前半からなかばまでは、若者文化のムーブメントはラジオから発信されていた。
そこでデビュー・シングルが放送禁止歌として抹殺されたことによって、ヒット曲誕生への勢いは削がれてしまった。彼らの音楽は一般の音楽ファンにまでは、ほとんど伝わらずに終わったのである。

このときにNHK-FMの「若いこだま」という番組だけは、心ある制作者たちによって自粛したりせず、しばらくオンエアしてくれた。だが当時はFMもそれほど普及していなかったので、人気のある民放AM局から閉め出されたのは致命的だった。

もしもラジオで評判になって話題が広がり、テレビの音楽番組やニュース番組に取り上げられたりしたら、木村充揮の特異な歌声や素朴かつ庶民的な言動、内田勘太郎のギターの圧倒的なテクニックが評判になった可能性は十分にあったはずだと、ぼくは今でも思うことがある。

憂歌団のメンバーはみんな21~22歳の若さだったのだから、なんとももったいなかったと思わざるを得ない。

だが現実はラジオから閉め出されたことで、ライブを通じてしか彼らの魅力を伝えることができなくなった。
働きながら地元の関西で音楽活動をしてきたバンドにとっては、ライブを全国各地で行うことは難しかった。

その結果、ブルース好きなマニアックなファンを中心に、玄人好みというか、渋いといわれるポジションに収まっていくことになった。

ぼくは彼らが上京してライブを行うときには、可能な限り足を運んで生歌を聴きに行った。
最初は1975年11月12日の銀座ヤマハホールにおける東京初ライブであったが、そこには同じトリオからデビューした久保田麻琴と夕焼け楽団がゲストで参加していた。
彼らはコンサートやイベントを通じて、それから様々なミュージシャンと出会っていくことになる。

憂歌団は同じ関西を拠点にしていた上田正樹とサウス・トゥ・サウスや、有山じゅんじと東京でよく共演していたのを憶えている。
ぼくも追いかけるようにして、両方のライブを見て回った時期があった。

上田正樹と有山淳司が連名で出したアルバム『ぼちぼちいこか』について、デビュー当時の木村はこんなことを語っていた。

ラグタイムミュージックに大阪弁がうまく乗せられていて、当時は“へぇー!こんなことができるんや!”と驚いた。あれは日本のブルース史に残る名盤だと思う。キー坊があの頃、僕の歌の先生だったことは確かだ。

その後、木村充揮は“天使のダミ声”と称されるようになり、アクが強い独特のヴォーカルで知る人ぞ知る存在として、これまで45年も活動してきたのである。

1988年に憂歌団の活動が止まった後も、彼は自らのペースでライブを行い続けてきた。

現在はソロ活動を中心にオリジナル曲のみならず、スタンダードから歌謡曲、民俗音楽にいたるまで、カテゴリーを越えて気に入った楽曲を唄い、ときにはオリジナルも発表している。

2013年に憂歌団を再結成したときは、ぼくも日比谷の野外音楽堂で開催されたライブを観に行った。

そんな風にしてずっと聴き続けてきた木村充揮の歌を、ソロ・ライブとしてたっぷり収録した2枚組CD『ザ・ライブ!』が4月24日に発表された。

このアルバムは2018年4月、東京の下北沢にある小さな会場で行われたシリーズ公演から、4日分のライブ音源をもとに選ばれた22曲によって構成されたものだ。

初日は亜無亜危異(アナーキー)の藤沼伸一をフューチャーし、ブルージーなカヴァー曲を交え、ソロの名曲「野良犬」「寂しがりやのダンサー」を披露。
2日目は三宅伸治、梅津和時をゲストに迎えて、憂歌団の「嘘は罪」、RCサクセションの「いいことばかりがありゃしない」が演奏されている。
3日目は完全のソロの弾き語りで、スタンダードの「ジョージア・オン・マイ・マインド」や「テネシー・ワルツ」をじっくり聴かせてくれる。
最終日は、ともに大阪を拠点とする盟友の有山淳司と息が合ったコンビで、新曲の「いい感じ」のほか、代表曲の「シカゴ・バウンド」「嫌んなった」までを続けて堪能できる。

それにしても初めて聴いた「いい感じ」の歌詞の底に流れる感覚は、おそらく「おそうじオバチャン」の頃と同じくストレートなものだった。
木村充揮が見て、感じて、思ったことを素直に唄う気持ちの根本は、何も変わりはしないのである。

「おそうじオバチャン」が放送禁止になってヒットしなかったことが、良くも悪くも木村充揮を決定づけたが、そこからそのまま「いい感じ」の歌になってこんな歌詞で唄われている。

ひまわり オマワリ ひと回り
しずかな町に花が咲く
いつのまにやら花が咲く
ボロ ボロ ボロ ボロ ほろ酔い いい感じ
ホロ ホロ ホロ ホロ ほろ酔い いい感じ
アホ ボケ ボケ カス 粕汁 いい感じ
アホ ボケ ボケ カス なんだか いい感じ

普通に生きている日常の言葉で、思ったことを唄ってきたブルースマンは今も健在だ。

木村充揮の楽曲はこちらから
憂歌団の楽曲はこちらから

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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