佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 93

Column

いつも革新を目指していたパンク詩人の遠藤ミチロウさんについて

いつも革新を目指していたパンク詩人の遠藤ミチロウさんについて

5月1日に遠藤ミチロウ氏の訃報を聞いて以来、ソロになって弾き語りで活動し始めてからの地道な軌跡や、東日本大震災によって立ちあがった『PROJECT FUKUSHIMA 』への真剣な取り組みについて、ほとんど何も知らないでいることが気になって、落ち着かない数日を過ごした。

彼が率いるTHE STALIN(ザ・スターリン)が日本にパンクのムーブメント起こした1982年から84年にかけてだったが、ぼくは甲斐バンドのアルバム制作にかかりっきりになっていた。

後に“ニューヨーク3部作”といわれる『TORIKO~虜~』『GOLD/黄金』、『ラヴ・マイナス・ゼロ』の3枚だ。

だから変革を求めて胎動しつつあった当時の音楽シーンに対して、何らかの関心を向けるだけの精神的なゆとりを、まったくといっていいくらい持っていなかった。

ザ・スターリンのことは過激なバンドとして耳に入ってきていたが、レコードを聴いてみるとか、ライブを見に行くといった行動をとるまでに至らなかった。

その時からミチロウさんが福島の出身で、大学も山形だったことが、同じ東北人として気になっていたので、それは今になっても残念だったと思っている。

初めてミチロウさんの表現にライブで触れたのは2014年4月14日、リクオとバンバンバザールを中心に開催されているイベントのスペシャル版『HOBO CONNECTION 2014 ~HOBO SPECIAL~』が、渋谷のクラブクアトロでおこなわれたときのことだ。

バンバンバザール、奇妙礼太郎、曽我部恵一という順に始まったライブは、中盤にさしかかると、リクオがピアノを弾きながら語るように唄う「同じ月を見ている」、そして「ソウル」と続いたところで、ミチロウさんが登場した。
その年の2月20日に緊急入院したミチロウさんは、心膜炎と診断され手術を受けたばかりだった。

「2月に倒れた時はみんな心配しましたよ」と言ったリクオに、「まさかYahoo! のトップニュースになるとは?」とミチロウさんが笑って返したところで、会場のなかにホッとした和やかな空気が流れたのを憶えている。

1曲目はアコースティックギターを弾きながらソロで唄ったのだが、そこで初めて聴いた名も知らぬ歌に、ぼくは強く惹きつけられた。

ボクは今日 ふたのついた ビンの中で泳ぐ
玉虫色の光をキラリキラリさせながら
腹を出し 尾っぽを流して 泳ぐ赤い金魚
フラリ フラリ フラリ フラリ

泳ぐことは頭をぶつけることだ
見ているあなたに痛さはわからないだろう
ボクは上へも下へも行かないところで
まるであなたの知らないところで泳ぐ赤い金魚
フラリ フラリ フラリ フラリ

七色に懐れた光の中では
冷たい水と硬いガラスの優しさに恥しくなって
こんなに真っ赤になって泳いでいるのです
フラリ フラリ フラリ フラリ

それは「カノン」という初期の頃に作った曲だということは、後になってから知ったのだったが、パンクの魂を持った詩人は渾身の力を込めて唄っていた。

自らを金魚に例えた内容が、わかりやすくて切なかった。

言葉のイメージによるパンクバンドという先入観、自分勝手な想像を裏切られたぼくは、ヒリヒリする内容にもかかわらず、どこか心地よいミチロウさんの歌の世界に漂っていた。

そして後日になって歌詞を調べてみたところ、実に奥が深い内容だったことにも、あらためて衝撃を受けたのだ。

柔いふくらんだ 腹の中には
黒づんだ 緑のフンが所狭しとつめられて
一日に数センチの悲しさ しぼり出し
この透き通った水を汚し汚し泳ぐのです
フラリ フラリ フラリ フラリ

あーもう嫌だと思うことだけが
まだこうしていれる力なのです
だからボクを愛してると言うのなら
このビンを手に取って
あの硬いコンクリートの壁にたたきつけて下さい
フラリ フラリ フラリ フラリ
フラリ フラリ フラリ フラリ
ボクは今日 ふたのついた ビンの中で泳ぐ金魚

内省的であると同時に、原発事故の寓話とも受けとめられる「カノン」に続いて、遠藤ミチロウはバンド・スタイルで「Just Like a Boy」と、ボブ・ディランの日本語カヴァー「天国への扉(Heven’s Door)」を披露した。

ここでも「天国の扉」のなかでときおり挟みこまれる叫び声には、パンクの古典となっているクラッシュの「ロンドン・コーリング」を彷彿させるものがあったことに、初めて気づかされた。

「そうか、ジョー・ストラマーとも通じているんだ」と、嬉しくなったのだ。


ミチロウさんが唄ったのはわずか3曲だったが、どの歌も身近で、言葉がリアルで、発見の連続だった。

そして弾き語りでもバンドでも、パンク・ロックの精神が脈々と流れていると確信した。

終演後の楽屋でお目にかかったが、その控えめで静かな佇まいからして、「ああ、東北人なんだ」と思えるところがあり、理屈ではなく妙に納得したのだった。
ぼくも岩手県に生まれて宮城県で育った東北人だったし、福島にも少なからず縁があったことから、ことさらそう感じたのかもしれない。

だからだろうか、映画評論家の町山智浩氏がミチロウさんを追悼するラジオ番組で、東北の詩人について先ごろ、こんな卓見を語っているのを聞いていて、楽屋で感じた東北人だという印象が蘇ってきた。

もともと、東北の詩人っていうのは歴史的にパンク詩人がすごく多いんですよ。だからいちばん有名なのは石川啄木ですよね。石川啄木の詩や短歌っていうのは破壊的なんですよ。暴力的で殺意がこもっていて。はっきり言うと田舎から出てきて都会で苦労して……っていうところで、田舎に対するものすごい憎しみと懐かしさと、都会に対するものすごい憎しみと憧れとがもうグチャグチャになって「全部ぶっ殺す!」みたいな短歌をいっぱい作っていて。
「砂山の砂を掘っていたらピストルが出てきた(いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の砂を指もて掘りてありしに)」とかね。そういう、非常に殺意のこもった歌もいっぱい作っている人なんですけど、そういうのと同時に朴訥さみたいなものがあって。田舎に対する懐かしさ。そういうものを東北の人たちはすごく持っている人が多くて。宮沢賢治もそうですよね。宮沢賢治もメルヘンの人として知られているけど、実は書いている童話は非常に破壊的な、殺伐とした憎しみに満ちたものもすごく多いんですよ。あの人自身。

自分自身に照らし合わせてもなるほどと納得できたが、そういえばミチロウさんが「ぼくの細道」というブログの旅日記で、啄木・賢治青春館に行ったと記していたのを思い出した。
小中学生の頃のぼくには一人で時間をつぶせるデパートや映画館と並んで、今の岩手公園(当時の不来方城と呼んでいた)が遊び場のひとつだった。

当時は啄木・賢治青春館はなかったが、その歴史ある建物もその頃から知っていた。

ミチロウさんは2007年11月17日に盛岡の「九十九草」というダイニング・バーでライブを行った翌日、次の公演地である水沢に直行しないで、ホテルをチェックアウトしてから、城跡のある岩手公園に足を運んでいた。

そぞろ歩きで岩手公園へ。
城跡は紅葉で真っ赤っか。古い石垣が 照れてる。
公園を出て中津川を渡って宮沢賢治・石川啄木青春記念館に。二人は青春時代を盛岡で過ごした、同じ学校に学んだ先輩後輩の間柄なんだ。
宮沢賢治は大先輩の石川啄木を尊敬して多大な影響を受けている。
大正時代や戦前昭和の写真が面白かった。モダンなんだな。空襲にあわなかった盛岡には古いモダンな建物があちこちに残ってる。

ぼくはこれからもういちど、ミチロウさんの作品に向き合いたいと思っている。

トップ画像・撮影 / 三浦麻旅子

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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