浜村通信がぶっちゃける!平成ゲームシーン  vol. 1

Interview

ポケモンをひとりで交換……ゲームのエンゲル係数が高かった平成前期

ポケモンをひとりで交換……ゲームのエンゲル係数が高かった平成前期

ゲームの業界や産業に関心があって、浜村通信こと浜村弘一氏の名前を知らない方はいないであろう。週刊ファミ通の編集長を務め、これまでにさまざまなメディアを通してゲームのおもしろさや魅力を全力で伝えてきた人物だ。
本稿は、平成のゲームシーンを振り返る企画の締めくくりとして、時代を歩んできた浜村氏の足跡をインタビュー形式でたどっていく全3回の記事となる。編集者として、父として、ときに鋭く、ときに温かくゲームを見つめてきた浜村氏。彼が触れて楽しんできたゲームや注目するゲーム業界の動向は、週刊ファミ通でどんな特集を組んできたかに直結し、ひいてはそのまま平成のゲーム史を映す鏡にもなる。多少時期が前後する部分があるかもしれないが、第1回では、平成元年(1989年)から平成10年(1999年)までの10年を意識して、浜村氏のゲームとの歩みを大いにぶっちゃけて語っていただいた。

浜村弘一(浜村通信)プロフィール
日本が誇るゲーム総合誌“週刊ファミ通”(旧・ファミコン通信)の創刊時に編集者として携わり、3代目編集長に就任。浜村通信はペンネーム。現在は、カドカワ株式会社 デジタルエンタテインメント担当シニアアドバイザーでファミ通グループ代表兼、日本eスポーツ連合の副会長を務める。ゲーム業界・産業の興りから現在に至るまで幅広く精通し、ゲームの豊富な知識と経験、そして人脈を武器にさまざまな視点からゲームシーンを考察する、ゲームの伝道師。

取材・文・構成 / wodnet、エンタメステーション編集部
撮影 / 曽根田 元


趣味と仕事が一致していた編集者時代

さまざまな角度からゲームシーンに接してきた浜村氏。まずは、ゲームファンの誰もが知る代表的な、“編集者”の顔を意識して、こんな質問をぶつけてみた。

唐突ですけれども、浜村さんがゲームボーイを2台持って『ポケットモンスター赤・緑』(任天堂)をプレイして、ひとりでポケモンの交換を完結させていたと元ファミ通編集部の方からうかがいました。

浜村弘一(浜村通信/以下、浜村) それはもう“ゲームのエンゲル係数”が高かったですからね(笑)

いきなりの名言ですね(笑)

浜村 趣味と仕事が一致しているからね。仕事しながらゴルフにお金をかけるというわけじゃなく、すべてが一体になっていますから。お金はゲームにたっぷり使えて、なおかつ家族の誰からも怒られない。どうしてこのやりかたが成り立ったんだろうって思われても、しかたがないかもしれないですね。

本日は、そんな『ポケモン』が誕生した期間でもある平成元年(1989年)から平成10年(1999年)までのことをうかがっていきます。ゲームボーイが出て、スーパーファミコンの時代がやってきました。平成元年は浜村さん27歳。昭和天皇が崩御なされ、平成に切り替わったときはどうされていましたか?

浜村 もう、会社(アスキー 当時)にいましたね。24時間のうち20時間ぐらい会社にいた時期ですよ。

す、すごいブラックですね。

浜村 松下進先生(※)のところに行って、ファミ通の表紙の打ち合わせをしていたことを思い出します。当時、僕が原稿取りをやっていて。松下先生って仕事自体は早くて締め切りをしっかり守ってくださるんですけど、“あること”をちゃんとしないと原画を渡してくれないんですよ。

※注:ファミ通に登場するネッキーの生みの親であり、ファミ通の顔となる表紙をほぼ毎週のように描いてきたイラストレーター。エンタメステーションでのインタビュー記事はこちら

“あること”ってなんでしょう?

浜村 ずっと『ファミスタ』(ナムコ 当時/現バンダイナムコエンターテインメント)で対戦し続けるんです(笑)。松下先生の仕事場には20時とか21時くらいから行っているのに、夜中の3時くらいまでふたりで『ファミスタ』をプレイして。松下先生が巨人ガイアンツを使って僕は阪神タイタンズで、イイ試合になるんです。それで、ちゃんと試合して納得いくまで遊ばないと、原画を頂けないという。

かなりの真剣勝負になりますね。ほかにはどんな仕事をされていましたか?

浜村 バリバリ現役で原稿も書いていたし、あの頃は町内会(※)も担当していて、付録も作っていたから……そうだなぁ、雑誌の3分の2を僕が書いたこともありましたね。

※注:週刊ファミ通の誌面にある読者投稿コーナー“ファミ通町内会”のこと

3分の2ですか! かなりの物量ですね。

浜村 当時は完全にスタッフライティング制で、編集部内の人間だけですべての記事を書いていたので、雑誌の半分ぐらいの大きさの付録を64ページとか書いて、定例のページが38ページくらい、合わせて100ページとかを自分で書いていました。もうずっと書いていました。あの頃が一番原稿を書いていたんじゃないかな。

並行してゲームのプレイも?

浜村 ゲームもかなり遊んでいました。ほとんどのタイトルを遊んでいます。それぞれのタイトルに対して“答え”を持っていたかったので。クリエイターと会ったときに「あれどうでした?」って聞かれたとき、「こうでしたよ」ってすぐ言えるようにしておきたくて。クリエイターと会うときは必ずその人と会うまえに、その方のゲームをプレイしておきました。もちろん自分が個人的に遊びたいゲームも遊びながら。

どんなメーカーを担当していたんですか?

浜村 バンダイとか、スクウェア(当時/現スクウェア・エニックス)の担当(※)でした。当時はこれらのメーカーのタイトルはひととおり遊んでいたと思います。スクウェアの作品とかは1本が長いじゃないですか。なのでけっこう時間をかけた気がしますね。

※注:当時のファミ通は編集スタッフが必ず数社の担当を持ち、ゲーム会社全社を網羅。直接会社に訪問したり、定期的に電話をかけて新作情報などを取得して、本誌情報データや記事に反映していた

息子さんと紡ぎ始めたゲームライフ

編集者として駆けずり回っていた一方、浜村氏が息子さんを授かったのもこの平成前期。のちに『ゲームばっかりしてなさい -12歳の息子を育ててくれたゲームたち-』(エンターブレイン刊)の執筆に至るまで、どんなことがあったのだろうか。

お仕事以外では、どんなことがあった平成前期でしたか?

浜村 ちょうど子どもができた頃だと思いますね。息子の相手をしながらゲームをプレイしていた時期でした。

どんなゲームを遊んでいましたか?

浜村 スーパーファミコンの『ファイアーエムブレム 紋章の謎』(任天堂)をプレイしていたときに、ある山を越えるステージで、弓隊の猛攻を受けてペガサスナイトのカチュアがどうしても死んでしまって。そこをなんとかノーデス(誰も死なせず)で切り抜けたくて10回くらいやり直しました。ようやく山を乗り越えたぞって瞬間、息子が積み木をポーンって僕に向かって背後から投げたんですよ。その積み木がリセットボタンにちょうど当たって。

「うわーっ!」ってなりますね、それは。

浜村 プツって消えたんですよね(笑)。10回くらい挑んでやっと乗り換えたのに。ノーデスにこだわらなければふつうにクリアできるステージなんですけど、どうすればカチュアが死なないか、いろいろな方法を試して、こだわってこだわりぬいてようやく乗り越えた瞬間、消えちゃった。でもね、息子はニコニコしながら手を振ってくるんですよ、僕に。だから、「俺が悪かったね、ごめんね」ってあやした覚えがあります。

ショッキングだったから鮮明に覚えているんですね。

浜村 息子が二十歳を迎えたところで『ファイアーエムブレム 紋章の謎』をプレイして、どこまで行けるかをプレイ実況したらしくて。その動画を見かけたときに僕は息子に言ったんですよ。おまえはあのとき、俺の『ファイアーエムブレム』をリセットしたんだよって(笑)。そしたら息子は、「それは本当に申し訳ないことをした」って。本当にごめんなさいって謝られました(笑)。消してしまったものの重みが、ゲーム好きになってわかったんでしょうね。

20年越しの謝罪ですね(笑)

浜村 長い年月を経て親子で共感できたんだなぁと思いましたね。

いまは親子でも直接コミュニケーションが取れるゲームが多いですが、こうしたエピソードがたくさん生まれた時期かもしれませんね。

浜村 『星のカービィ3』(任天堂)もおそらくこのあたりの時期だと思うんですけど、グーイっていうキャラクターがいて2人同時に遊べるんですよ。危なくなるとカービィがグーイを食べて、口のなかに入れて守るわけです。息子はグーイで、僕がカービィを使って協力プレイしているから、危なくなると息子が「食べて食べて食べて」って言ってくる。まだ小学校低学年とかだからわがままで、動かしたくなったら「(口から)出して出して!」と、またすぐに「食べて食べて食べて!」って矢継ぎ早に。そんな風にいっしょにクリアしていくんですよね。

父と子のやりとりが目に浮かぶようです(笑)

浜村 初めてしっかり遊んだゲームが『星のカービィ』だったからか、息子はカービィが大好きで。先日のファミ通アワードでカービィがキャラクター賞を取ったときには、自分のことのようによろこんでいました。ようやく認められたと。おそらく初恋の相手なんですよね、彼にとっては『星のカービィ』が。僕にとっては『ウィザードリィ』ですけどね。なので、ピンボールだろうと何だろうと『カービィ』だったら息子は何でも買っていますね。

最新作の『大乱闘スマッシュブラザーズSPECIAL』(任天堂)もですね。

浜村 『スマブラ』も当然買っていますね。ただズル賢いことに、対戦するときはカービィは使わないんですよ。もっと勝てるキャラクターを選ぶんです(笑)

一同 (笑)

浜村 今回の最新作はカービィがスタートキャラクターだからすごいよろこんでいました。でも、勝ち進みたいときは別のキャラを使うっていう。

マップ生成に影響を与えたゲームの3D化

父と子の心温まるエピソードをずっと聞いていたい気もしたが、ここであらためて、ゲーム業界を眺めてきた編集者としての浜村氏に、この平成前期を代表するゲームシーンの変化について尋ねてみた。

平成の前期には、映像表現が2Dから3Dへ徐々に移行していく気配もありました。浜村さんのゲームライフにも変化はありましたか?

浜村 ゲームの表現に3Dが加わったからといって、遊びかたが大きく変わったということはなかったと思いますけど、仕事でゲームのマップを作るのはちょっと大変になりました。

RPGなどであると便利なあのマップですね。

浜村 そうです。昔のゲームのマップって、動いては画面を撮影し、動いては画面を撮影し……をくり返して作っていて、当時のライバル誌では、掲載されているマップのなかに必ずキャラクターが表示されていたんですよ。あと、撮影するたびに輝度が違うから、隣り合わせにしたマップの輝度が合わない。緑の濃いところと薄いところがある、みたいな。それで、ファミ通ではそれをやるのがかっこ悪いという判断で、早い段階から“マップ生成ツール”を作って使ってたんです。画像を切り貼りしてマップを作り上げるという作業は変わらないですけど、マップの全体像や大きさがわかったうえでマップを起こす作業ができました。すごい手間がかかるけど、マップ作りが好きなヤツが編集部にいて。頑張ってくれてましたね。

イチ読者としてファミ通でマップを見てきましたけど、どうやって作っているんだろう? って気づいた瞬間はありました。とくにマップ制作が難しかったタイトルはありますか?

浜村 『女神転生』(アトラス)は難しかったですね。デバッグモードが使えなかったので、何度もプレイして作りました。もちろんファミ通でも最初のうちは、別のプレイヤーの画面とちょっとずらして撮影したものを切り取って、無理して持ってきたりしてたんですよね。だんだんかっこ悪いよねってなっていって、ひとりの画面を使って撮影していくようになりました。色味がいっしょになるだけでもいいんですよね。だからよくライバル誌から、ファミ通はズルしてメーカーからデータをもらっているんじゃないかと言われたこともあったんですけど、じつは手作りの職人芸だったんです。

3Dのマップは難しいですよね。

浜村 いまもそうですけど、俯瞰からのマップを作ったりしていますよね。いろいろな手法を試しました。

ゲームハード・ソフトに囲まれた生活

編集者として黙々と経験を積み、ゲーム業界に寄り添ってきた浜村氏。物理的な意味でもゲームと接し続けてきたであろう浜村氏に、今度はこんな質問を投げかけてみた。

平成4年(1992年)にファミ通の編集長になられ、最初の10年はゲーム機(ハード)ラッシュだったと思いますが、あらゆるハードを持っていましたか?

浜村 もちろん。自腹で買っていました。

編集部には設備としてあり、それとは別に自宅にも全部あったと。

浜村 それはね、編集長として「じつは持ってないハードがあって……」なんて言うわけにいかないですからね(笑)

たくさんあるハードやゲームタイトルのなかから、これを遊ぼうって決めるのはたいへんそうですね。

浜村 編集を担当したタイトルは、メーカーから頂くこともあるので遊ぶきっかけになることが多いですけど、自分でちゃんと買って遊んでいるゲームのほうがじつは多いですね。『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』(エニックス 当時/現スクウェア・エニックス)なんかは無我夢中で遊んでいました。

さきほどお話の出た『ポケットモンスター赤・緑』は平成8年にリリースですね。

浜村 必死で遊びましたねぇ。ゲームボーイを2台買って。ソフトも両方買ってケーブルで繋がないと進化しないモンスターがいたので、ありとあらゆる情報を使ってコンプリートしようとしていました。おなじタイトルでちょっと内容の違ったものを発売するというのは、これが先駆けだったんじゃないかと思いますね。衝撃的でした。友だちどうしでつながってほしいという任天堂のコンセプトが表れていますよね。それまでのゲームは、ひとりで遊んでいる人がいっぱいいたからね。

お子さんは2歳頃ですね。

浜村 大きくなってから『ポケモン』はいっしょに遊んだりしましたね。

ところで浜村さんは、本棚とゲーム棚を埋めていくのを楽しんでいるとうかがいました。

浜村 それぐらいしか趣味がないとも言えますね(笑)

ちなみにいまその棚はどうなっていますか?

浜村 家族の共用スペースに棚が置いてあるので、ひとりですべては使えない棚なんですけど、本棚にもしていて、残りのスペースをゲームハードとソフトで分けて並べている感じです。

どんなものがどんな風に並んでいるのか見てみたいです。

▲ご自宅のログハウスの一角を撮影してご提供いただいた。向かって左の棚にはゲームソフトがびっしり。右の棚には限定版やハードが置かれているようだ

浜村 このあいだ見たときに思い出したんですけど、阪神タイガース優勝記念モデルのゲームキューブがあったんですよ。僕が阪神ファンだっていうのを聞いて、送ってくれた方がいて。

そのゲームキューブで遊ばれましたか?

浜村 開けていないですね。価値が下がっちゃうから通電していないです(笑)。こういう限定版は、ありがたいことにけっこう頂けたんですけど、すぐに棚に並べて開けないですね。ひとつのハードを何種類も持っていますから。

地元の小学生にソフトコレクションやハード、マンガの蔵書を開放したら大変な騒ぎになりそうですね。

浜村 昔ね、息子の友だちがゲームソフトを借りていったらしくて、ポツポツと棚に隙間が空いていたことがあったんです。それが小学校のクラスで問題になっちゃって。浜村くんの家からゲームを勝手に持っていっちゃいけないっていうクラス問題に発展しちゃって。あとで謝りに来てくれました。

ゲームの課題にも向き合い始めた平成前期10年

ゲーム業界が盛り上がっていくなか、決して明るいニュースだけではなかった平成前期。ここで浜村氏にうかがったのは、当時のゲームシーンの裏側に迫る課題や問題点についてだ。

いろいろなハードやソフトが登場してゲームシーンが盛り上がった平成前期ですが、同時に中古販売や、ゲーム表現の問題が見え始めた時期だと思います。こういったゲーム業界の課題に対して、浜村さんはどんなアクションを起こしていましたか?

浜村 まず中古に関しては賛否があったんですよね。当時の任天堂ゲームソフトは価格が高いものもあって、中古があって還流するのはある程度しかたがないと思っていましたよね。一方のソフトハウスからしてみれば、それは機会損失になるという意見も多かった。当時はROMを作るのに2ヶ月くらいかかっていたので、この問題が大きかったんですよね。最初にドカンと作って余らせちゃうと在庫問題になる。かといって少しずつ作っているとつぎのロットが2ヶ月後とかになるので、売れ行き好調な時期に在庫が無いと機会損失が大きくなる。ユーザーからしたら中古がないと高くて買えない、遊べないという意見もあって。ただ、ファミ通としては一貫して中立だったと思います。

中立的な立場として静観していたわけではないですよね。

浜村 どっちがいいとかは書かないですけど、たとえば、中古があったとしてもクリエイターに何らかの形で還流される仕組みがないと、つぎの作品につながらないよねっていうことは言っていました。それはみんなが困るよねっていう主張はしていたと思います。

ゲーム表現についてはどうでしょう。

浜村 表現って難しい問題があって。とくにPlayStation®ですよね。リアルな表現ができるようになって、残酷なシーンも作れるようになりましたからね。

メディアで扱うときに慎重になりましたか?

浜村 どちらかというと、CEROに対してそれはいかがなものかなっていうのはありました。ゲームってどうしても戦い続けてきたメディアですから。CEROの基準がじつは映画よりも厳しかったんですよね。映画で15歳以上対象の作品が、ゲームだと18歳以上対象だったりして。それはすごく変だなと思ったので、記事に書きました。たとえば『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』(任天堂)で登場人物が十字架に磔にされるシーンがあるんですけど、12歳以上対象に制限されてしまったんです。『ゼルダ』みたいな王道作品が全年齢対象じゃないって、ありえないでしょ、と。ちょっと時期的に先取りになってしまうけど、『大神』(カプコン)もこの話題になると思い出しますね。

どんな部分でしょう。

浜村 ヤマタノオロチの首を落とすことが部位欠損だという話になるんです。それで映像を変えなきゃいけないと。それはいかがなものか、という主旨のコラムは書いたような気がしますね。ゲームはたしかにご両親に理解していただけない部分が多いかもしれないけど、ちょっと厳しすぎるんじゃないか。表現の自由を奪うことになるんじゃないか、と。ちゃんと議論してほしいということは書いたと思います。

そういえば、あるゲームメーカーさんから戦闘不能状態を“死ぬ”って表現で書くのはやめてほしいというオーダーがあったとうかがいました。でも、浜村さんにコラムをお願いすると、必ず“死ぬ”っていう言葉を混ぜて原稿が返ってくると(笑)

一同 (笑)

浜村 それで編集担当がメーカーの矢面に立たされるんだよね(笑)。でも実際にゲームのなかで死んでいるわけだからさ。みんなも死んだって言っているわけで。それで蘇生をしたりもして、生き返るとも表現されているんですよ。戦闘不能に対して蘇生はしないでしょ。あえてそういうポリシーをもってコラムを書いていた、というのは正直ありますね。編集者に迷惑をかけながらも、問題意識を持って表現に挑戦していくっていうことはメディアとしてやっていたと思います。


全方位、あらゆるところに“ゲーム”の存在が顔を出す浜村氏の生活は、まさにゲーム三昧といった言葉が当てはまる。ゲームが当たり前のようにそばにあるというライフスタイルを、率先して体現してきたとも換言できるだろう。だが、その中身をじっくり眺めてみると、ただゲームのおもしろさを追求しているだけではなかった。イラストレーター・松下進氏との交渉アイテムであったり、息子さんとの関係性を育むものであったりと、ゲームの存在が浜村氏の生きかたやポリシーにも影響を与えていったように感じられる。それは、ファミ通という大きな媒体を背負って主張や意見を発信していくことも然りであろう。
激動のハードラッシュとなった平成前期の10年間。多くのゲームソフトもリリースされ、さまざまな視点と角度からゲームアナリストとしての浜村氏が鍛え上げられていったことは想像に難くない。明日公開予定の中編では、平成11年から平成20年の平成中期を中心に、ファミ通とともに歩みを進めた浜村氏とゲームシーンの連関をさらに色濃くお伝えしていきたい。

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