浜村通信がぶっちゃける!平成ゲームシーン  vol. 2

Interview

『FFXI』の記事を書いて正体がバレたけど、仲間とつながれた平成中期

『FFXI』の記事を書いて正体がバレたけど、仲間とつながれた平成中期

週刊ファミ通の元編集長・浜村通信こと浜村弘一氏は、平成のゲームシーンをどのように歩んできたのだろうか。そんなテーマで話をうかがってみたいと感じたのは、筆者がライターになったきっかけが浜村氏だったからだけでなく、ゲームとマーケティング、ゲームと人生観、そしてゲームと子育てといった関心事を、身勝手ながら共有していると強く感じていることも大きい。

前回の記事に続き、浜村氏インタビューの第2回をお届けする。平成11年(1999年)から平成20年(2008年)までの多様化していく平成中期のゲームシーンに、浜村氏はどう向き合ってきたのか。氏が個人的にプレイしてきたゲームやその体験談はもちろんのこと、長年ファミ通を率いてきた経験や活動を通して平成のゲームシーンを読み解いていく。

浜村弘一(浜村通信)プロフィール
日本が誇るゲーム総合誌“週刊ファミ通”(旧・ファミコン通信)の創刊時に編集者として携わり、3代目編集長に就任。浜村通信はペンネーム。現在は、カドカワ株式会社 デジタルエンタテインメント担当シニアアドバイザーでファミ通グループ代表兼、日本eスポーツ連合の副会長を務める。ゲーム業界・産業の興りから現在に至るまで幅広く精通し、ゲームの豊富な知識と経験、そして人脈を武器にさまざまな視点からゲームシーンを考察する、ゲームの伝道師。

取材・文・構成 / wodnet、エンタメステーション編集部
撮影 / 曽根田 元


プレイステーションが起こした変化

さぁ、これから平成中期についてお聞きしていこう、と筆者が口火を切るや否や、浜村氏のほうから“あるゲームタイトル”の名前が飛び出した。それは、筆者自身もペンネームを作るきっかけになった思い出深いシリーズタイトルだった。

それでは、平成中期の浜村さんのゲームライフについてお聞きしていきますが……

浜村弘一(浜村通信/以下、浜村) そのまえに、たしかその頃って『メタルギア ソリッド』(KONAMI)が出てますよね。

ええ、平成10年(1998年)発売ですね。

浜村 すごかったよね。それまでのゲーム業界って、活躍しているクリエイターは表舞台にほとんど出てきていたんですよ。堀井雄二さんも、坂口博信さんも、宮本茂さんも、中村光一さんも。ただ、小島秀夫さんだけは、かたくなにMSX(※)から出てこなくて。おそらく当時の方針だったんでしょうけど、PlayStation®が発売されて一気に表現力が上がって、それでようやく小島監督がほかのゲームハードにも出てきてくれた。その初めての作品があの『メタルギア ソリッド』だったのは衝撃的でした。

※注:マイクロソフトとアスキーによって作られたパーソナルコンピュータの共通規格で、おもにゲーム機として使用されることが多かったため、ゲームハードとして認識されている

どんな衝撃を受けましたか?

浜村 映像もすごかったし、ストーリーもすごく練られていて、大人が楽しめる本格的なストーリーがそこにあった。だから僕は小島監督のことを“遅れてきた天才”とよく言うことがあります。PlayStation®には小島監督みたいな現れかたをしたクリエイターがけっこういるんですよ。

ほかにはどんな方が思い浮かびますか?

浜村 人物だとキリがないですけど、たとえばそれまではあまり表に出てこなかった会社も名前をよく聞くようになりました。例を挙げるなら、フロム・ソフトウェアとかですね。こういった現象はPlayStation®のおかげ、という気がします。

と言いますと?

浜村 アタリショックがあった関係で、任天堂はゲームソフトの粗製濫造をやめましょうっていう方針が当時あったので、新しいクリエイターがなかなか出てこられなかったんですよね。ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時/現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)は任天堂よりもあとからゲーム業界に参入しているから、とにかくゲームを作ってくれる人がいなかったので、同社グループが持つハードの力、ミュージシャン(クリエイター)を育てる力、インディーズを育てる力をPlayStation®という舞台で発揮したのだと思います。それによって、新しい開発会社やクリエイターがいっぱい発掘されたのは大きいですよ。それはPlayStation®の功績だと思います。

ネットワークがもたらした号泣

家庭用ゲーム機の表現力向上は平成中期の大きなトピックスだが、もうひとつ“インターネット”の普及もゲームシーンにとって大きな出来事だった。そんなインターネットやネットワークについて浜村氏に聞いてみたところ、話は意外な方向へと展開していく。

この平成中期は、インターネットやネットワークも大きなキーワードになります。浜村さんのゲームライフに、これらは何か影響しましたか?

浜村 ネットワークですぐに思い出すのは、やっぱり『ファイナルファンタジーⅪ』(スクウェア 当時/現スクウェア・エニックス)。本当にずっと遊んでいました。土日に休める日は、必ず朝9時から昼12時まで、リンクシェル(※)の仲間とレベリングに行ったりして。とにかくずーっとプレイしていました。

※注:『ファイナルファンタジーⅪ』のゲーム内にあるチャットルームのことで、プレイヤーキャラクターがおなじ場所にいなくても会話ができる機能

浜村 息子も『ファイナルファンタジーⅪ』を始めたんですけど、ネットゲームって僕のなかで“怖い人がいる”っていうイメージが漠然とあって……。暴言を吐くような人たちがいっぱいいるだろうと思いこんでいて、それで最初は息子をすごい過保護にしていたんですよ。

どれくらい過保護にしていたんですか?

浜村 僕と息子のふたりだけのリンクシェルを作りました。おそらく息子はそんなに長くは続かないだろう、すぐに辞めるだろうって思っていたので、種族はタルタルを勧めて白魔道士を使わせたんです。僕は自分のキャラクターが竜騎士で生き残る確率が高いから、そんなに負担もなくてちょうどいいかなと。

なるほど。それで、どうなりましたか?

浜村 そうしたら、どんどん息子が上手くなっていって。ある日、白魔道士の息子が蘇生魔法のレイズを覚えたのでふたりでクフィム島に行ったら、バトル中に息子の回復が急に遅くなるんですよ。なかなか回復してくれなくて。それでもしかしたら……「あっ、こいつ俺が死ぬのを待ってるんじゃないか?」って気づいたんです(笑)

それはつまり……(笑)

浜村 ええ。そのころに覚えたレイズを使ってみたいから、わざと回復しなかったんですよ(笑)。たしかに息子は、「初めてのレイズはお父さんにするね」って言ってたんです。そのときはもちろん、「ありがとね」って僕も返事していたんですけど、いざそんな場面になったら、白魔道士の本来の役割を忘れて俺を見殺しにするという(笑)

一同 (笑)

浜村 どうしても蘇生してみたかったんでしょうね。あのときの息子の邪悪な一面は、ネットを通して遊んでいたからこそ体験できたことですよね。

ちゃんと蘇生してもらえましたか?

浜村 じつは覚えていないんですけど、もしかしたら別のプレイヤーに辻レイズ(※)はしていたかもしれないですね。クフィム島は強敵がいる場所なので、死んでいるプレイヤーキャラクターがいっぱいいましたから。辻レイズするのって気持ちいいですよね。レイズをかけて助けてあげて、「ありがとう」ってやりとりするのがね。

※注:武士が通行人をいきなり斬りつける辻斬りにたとえて、白魔道士がふと見かけた戦闘不能状態のプレイヤーにいきなりレイズを唱えること

おそらく記事でこの部分を使うとしたら、1回目の記事で話題に出た”死ぬ”って言葉がいっぱい出きてきますが、ゲームを扱う記事として大丈夫ですか?(笑)

浜村 もう大丈夫じゃないかな(笑)。ホントに死体の山ができていたんだからね。体力がなくなって表示が赤くなってくると、その死にそうなプレイヤーが助かりたくてこっちに寄ってくるんですよ。骨になったアンデッドが生体感知して寄ってくるイメージ。それがもう怖くて怖くて。それまで平気で戦っていたプレイヤーたちが、ピンチになるとダッダッダッって走って向かってくる。彼らを待ち構える側も戦っている最中に体力が減っていくのが見えているから、なんとなくわかるんです。あ、あいつもうすぐ死ぬなって(笑)。それでこっちに向かってきたキャラクターが死ぬタイミングに合わせて辻レイズするんです。

相手のプレイヤーの表情や声は受け取れないわけですが、ある意味、見知らぬプレイヤーとの阿吽の呼吸ですよね。ちなみに息子さんとはいつも並んでプレイしていましたか?

浜村 そうですね。PlayStation®2とモニターを2台ずつ並べていました。リンクシェルのほかのメンバーにはとくに言っていなかったんですけど、あるとき仲間のひとりが僕の書いたファミ通の記事を読んだらしくて、ひょっとしたらこのキャラクターのこのエピソードって、僕のことじゃないかって気づかれてしまって。

どうなりました?

浜村 白状しました(笑)。それからは僕のリンクシェルの仲間たちと息子も交えて、パーティーを組んでプレイしました。『ファイナルファンタジーⅪ』の記事を書いたことによって正体がバレて、息子の存在もバレてしまったけど、考えてみれば仲間たちとつながるきっかけになりましたね。

その仲間のなかには編集部の方もいましたか?

浜村 いましたね。そうやって3人、4人、5人と徐々にいっしょに遊ぶ仲間も増えていきました。

ファミ通編集部の方は、ほとんどが『ファイナルファンタジーⅪ』をプレイしていたんですか?

浜村 けっこうな割合でプレイしていたと思う。でも、僕とかは生還者ですよ。

生還者?

浜村 ヴァナ・ディール(本作の世界の名称)から帰ってこられた人、という意味です(笑)。じつは生還しない人がけっこういたんですよ。

ええと、それは……。

浜村 会社に来なくなっちゃう(笑)

一同 (笑)

浜村 ホントに冗談抜きで、当時の編集部には会社を辞めちゃう人がいたんです。まず会社に出社しなくなって、仕事ができなくなって。なので僕は“生還組”なんて呼ばれてます(笑)

たしかに、よく知る有名人のなかにも帰ってこられない方がいらしたような気がします(笑)

浜村 夢中になって帰ってこられなくなっちゃう。仕事上は当然困るんだけど、どこか憎めないっていうか、しかたないかなって思ってしまうんですよね、『ファイナルファンタジーⅪ』のおもしろさを知っているから。できれば続けさせてあげたいと思っちゃうんだけど、10日間も出社しなくなったら、こりゃ無理だね、みたいな(笑)

仕事は仕事ですものね、困ったことになりますね。

浜村 だからほら、会社に来なかったらゲームのなかで見つけて、「来なきゃダメじゃん」ってメッセージを送ったりするでしょ。「原稿上がった?」とか。ゲームのチャット機能をフル活用して探し出して連絡を取りましたよ。

ゲーム業界ならではの仕事のしかたですね。

浜村 あとはほかでも書いたり話していますけど、チャイナジョイの取材で中国・上海に行ったときにノートパソコンを持っていったんですよ。重いのにわざわざね。もちろん『ファイナルファンタジーⅪ』をプレイするために。それで、仕事先からホテルの部屋に戻ってきて、ちょっとだけ遊んでから寝ようと思って起動したら、ウィンダスっていう街の入口にうちの息子のキャラクターが立っていたんです。

ひと仕事終えて帰られたのなら、もう夜ですよね?

浜村 時間は23時とかで。小学生は22時には寝なきゃいけないって話していたのに、なんでお前ここにいるんだって聞いたら、「お父さんを待ってた」と。「出張大変だね」って。「そうだね、でも寝なきゃダメじゃん」ってやりとりして。「わかったバイバイ」って息子がいなくなったあと、僕はホテルで号泣しました。

それはうれしいですね。

浜村 仕事が終わるまで待ってたんだなぁ、と。じつは取材のあとに急きょ飲みに行ってしまっていて、それでもずっと約束も何もしていなかったのに息子は僕を待っていてくれた。父親が来るのをずっと待っていたという状況に、思わず泣いてしまいました。

みんなでゲームのために戦った

親子の絆をも育むゲームの存在。こうした感動はきっと多くの家庭で大なり小なり起こっていて、インターネットがゲーム機と融合し始めたこの時期ならではのエピソードであろう。続いては少し話題を変えて、平成中期に我々ゲームファンを大いに混乱させた“あの言葉”をぶつけてみた。

この時期、忘れられないキーワードに“ゲーム脳の恐怖”があります。

浜村 あぁー、みんなで戦いましたねぇ。クリエイターも、ゲームファンも、もちろん僕たちメディアも。

本当ですね。

浜村 僕、実際にゲーム脳を提唱した森昭雄教授のところに行ったからね。

どんな話をされましたか?

浜村 まず単刀直入に、「ゲーム脳ってどういうことですか?」と。それでよくよく聞いていくと、森教授にとってのゲームって昭和後期にあったような単調なゲームで止まっていたんです。単調な動きをずっとくり返していると、前頭葉に光が届かなくなって反射的にゲームをクリアするようになってしまうと。

当時もそれがゲーム脳の定義という感じでしたね。

浜村 それじゃあたとえば、野球の松井秀喜選手やイチロー選手がバットを振るとき、あまりにも練習や試合でたくさん振っていて、結果的にボールが飛んできたら反射的にどんな球でも打てるようになっていくと思うんですけど、前頭葉で考えていたら時間がかかるからそれを短くするために選手たちは反復練習するんじゃないのかって聞いたんですよ。そうしたら、「そうですそうです」と。「そういういいこともあるんです」って教授は言うんです。

わかりやすいたとえですね。

浜村 将棋の羽生善治名人が定石を覚えていくのも、あれもある種のゲーム脳ですねって言ったら、「まあそういう風に言うこともできますね」と。それじゃあれですね、もう大勢のプレイヤーが集まって大乱闘するような、たくさんキャラクターが出てきて戦ったりするようなゲームが出たら、ゲーム脳にはなりませんよね? って尋ねたら、「そうですね、ぜひ作ってください」って言っていました。そのときすでに『ニンテンドーオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ』(任天堂)があったんですけどね。

なるほど、それはまったく話が噛み合いませんね(笑)

浜村 ゲーム脳を訴えている方が、そのとき一番流行っていたゲームすら知らなかったということを、取材で確かめたわけです。いまやゲーム脳なんて学会とかではまったく通用しない話になっているんですけど、それでもいまだに言う人がいるのには驚きです。

どんな方が言っているのでしょう。

浜村 eスポーツのことで地方に話をしにいったときに、eスポーツを行政として応援するという話が出たら、ある議員の方から、「そんなことやったらゲーム脳になっちゃうから、行政から予算なんて取れないんじゃないか」とおっしゃった方がいて……。いまだに亡霊のように出てくるんだなぁと思いました。

それはショックですね。そうしたゲーム脳の恐怖といった風潮にカウンターとして出てきたのが“脳トレ”ブームだったと思います。

浜村 必ずしもカウンターとして出したというわけではなかったですけどね。任天堂は任天堂らしさというところで、遊びというものを真剣に取り扱っていくなかで、ゲーム人口を拡大したいと思っていた時期だった。それで“勉強”という切り口でゲームをプレイしてもいいんじゃないかという提案をした。『脳を鍛える大人のDSトレーニング』(任天堂)って、ゲーム自体はRPGですよね。プレイしていくうちにだんだんと自分のステータスが高まって強くなっていくわけですから。つまり、大人が楽しめそうな遊びをゲームの文法で作った、ということだと思います。それが“タッチ!ジェネレーション”だった。

ほかにもさまざまな課題が出てきた平成中期でした。CEROがZ指定を作ったのもこの時期でしたね。

浜村 ゲーム脳もCEROのレーティングも、本当にゲームに関わる人たちみんなでいっしょに戦っていましたね。ちょうど『グランド・セフト・オートIII』が販売されるかどうかという時期ですよね。

そうですね。

浜村 そういえば、民主党の議員に呼ばれて、カプコンの辻本憲三会長といっしょに討論会に出席したことがありました。ゲーム脳の恐怖なんてことは起こらないし、そういった風潮の話だけでなく、日本は海外に比べて表現の規制が厳しすぎる、という話もしました。まず政治家にわかってもらわないといけないですからね。

神奈川県が率先して有害図書にゲームソフトを指定した出来事もありました。

浜村 ゲーム業界って、これだけ自分たちで自主規制をしているのに、そんな有害図書に指定をされるなんてありえない。表現の自由もあるし、勝手に止められたくなかったですからね。そういう話を丁寧にしていかないと、よくわかっていない議員が問答無用で規制をかけちゃうんですよ。なので、知ってもらう努力をすごくしました。

ファミ通が浮き彫りにする私たちのゲームライフ

日本のゲームシーンをメディアの力で支える存在として、臆することなく前線に出て戦ってきた浜村氏。偏見や価値観とも戦ってきたその歴史は、ファミ通の誌面にも刻まれていった。そんなファミ通の誌面を飾った平成中期の話題として、最後にこんなキーワードを投げかけた。

平成中期のゲームシーンは、ゲーム機が“家電”に近づいていった時期でもありました。

浜村 PlayStation®が登場してから、CDショップにゲームが並ぶようになったのは大きかったですよね。それまではゲームは玩具屋に並んでいたのが常識だった。じつは、ソニー・コンピュータエンタテインメントはなかなか玩具屋のスペースを確保できなかった事情があったんですよね。でも、そのおかげでゲームの客層が変わりました。コンビニでゲームを販売するようになったのも大きい。そういう意味では、対任天堂の流通対策で挑戦したのでしょうけど、新しい流通の仕組みがうまく回ったのもこの頃の特徴ですね。

なるほど。

浜村 ファミコンがスーパーファミコンになって、ゲームの価格が4,800円から9,500円とかになって、なかには11,200円みたいなのもあって。ものすごく高かったので、これは「つぎのハードになったら、いったいいくらになるんだ?」と誰もが心配していたと思いますけど、そんななかPlayStation®が5,400円とかまでゲームソフトの価格を下げてくれた。これもCDにしたおかげですよね。これによって、それまでのゲームの流通の常識は破壊されました。そして、PlayStation®が一気にゲーム市場を制圧していった。

PlayStation®2が発売されたときに浜村さんが、「このハードで『マトリックス』のDVDが観られるんだぞ!」と編集会議で熱くおっしゃっていたようですね。

浜村 PlayStation®2のときに、まさにゲーム機は家電になったなと感じます。こんなに安くDVDが視聴できちゃうんだって。それがPlayStation®2の当時の売上にもしっかり表れていますよね。くり返しになるけど、PlayStation®の登場でまずゲームの流通が変わって、PlayStation®2でいよいよゲームは家電的な売れかたをし始めた。さらにこれ以降もPlayStation®はインターネットにつながっていくなかでサービスを拡張して、HuluとかNetflixとかも観られるようになって、PlayStation®3の発表の頃にはもうゲームタイトルの発表のほかに、サービスが増えることも同軸で語られていきました。

たしかにPlayStation®の展開を見ると、ゲーム機の枠を超えていくのを感じます。

浜村 任天堂はゲームの遊びをとことん追求する。ソニー・コンピュータエンタテインメントは家電として映像表現を追求していく。これは平成中期のゲームシーンのやはりターニングポイントだったんじゃないかなと思います。任天堂はむしろ映像表現だけじゃダメだとさえ思っていて、もっと遊びを強調しなきゃと原点回帰をするためにWiiを出していますよね。言ってみれば任天堂は京都の千年変わらない魂みたいなところで、遊びの原点につねに還りながらゲームを追求していますね。

そうですね。対称的に、ゲームの新たな概念を掘り起こしているのがソニー・コンピュータエンタテインメントだった、という印象です。

浜村 どちらも必要だし、どちらもあっていいし、どちらも正解なんですよね。なのでファミ通としては両方とも均等に賞賛していました。

それは、平成の30年間を通しても変わらないスタンスでしたか?

浜村 元々ファミ通が週刊化したときに、ほかの雑誌がゲーム媒体ごとに展開していたなかで、ファミ通だけは一冊にすべての媒体をまとめて、サイクルを短くしていたんですよね。あれはもう自分たちの“ゲームライフ”を考えたときに、任天堂のハードとソニー・コンピュータエンタテインメントのハードをどっちかに絞って買うのか、という話ですよ。

なるほど。

浜村 任天堂のハードがあれば何でも遊べるわけではなかったですし、昭和のタイトルですけど、たとえば『ファンタジーゾーン』(セガ 当時/現セガゲームス)がおもしろいからセガ・マークⅢも遊ぼうってなるわけで、そういうゲームファンの気持ちを素直に考えたときに、ゲーム機に合わせて記事媒体を分けず、まとめたほうがいいと思いました。

ちなみにファミ通の週刊化が平成3年(1991年)で、エンターブレインの設立が平成12年(2000年)です。各ゲーム機の情報を一冊にまとめる難しさもあったのではないですか?

浜村 毎週ゲーム雑誌を買ってくれる方を考えたら、いろいろなハードを持っている方のほうが多いと思ったわけですからね。むしろ分けてしまうほうが変だな、という感触がありました。

真剣な攻略記事があれば紹介記事もあり、レビューがあってコラムがあってお笑いまであって……よく考えると不思議な雑誌ですよね。

浜村 どうかしてるよね(笑)

一同 (笑)

浜村 そうは言いながらも、専門誌も別でしっかり出しましたからね。


ゲームを通じて育んだ親子の絆、ゲームを偏見や歪んだ価値観から守りたいという率直な思いと行動力、そしてゲーム業界の動向を見据える確かな目。本インタビューの言葉の端々に浜村氏のこだわりが垣間見える。プレイヤーのゲームライフに想像を巡らせながら、真面目に、真摯にゲームと向き合う浜村氏が時折見せるユーモラスな一面も含めて、まるで週刊ファミ通の在りかたそのものだ。
ゲームの遊びや表現力が進化し、インターネットとの融合でゲームがコミュニケーションの一部ともなっていった平成中期の10年間。平成19年(2007年)から約4年間、エンターブレイン主催のefigo(エフィーゴ)というSNSがクリエイターとファンと編集者を一堂に会する試みを意欲的に行ったように、浜村氏とファミ通はゲームの情報を私たちに届けるだけでなく、ゲームファンひとりひとりの好みや意見もすくい上げ、イチ早くインタラクティブな取り組みを実現させ、クリエイターとユーザーの橋渡しにもなっていた。

最後に公開する後編では、平成21年(2009年)から平成31年(2019年)4月までの平成後期と併せて、約30年間の平成のゲームシーンを浜村氏の言葉で語り尽くしていただく。新たな“令和のゲームシーン”へとつながる氏のビジョンも、余すことなくお伝えしていきたい。

vol.1
vol.2
vol.3