佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 96

Column

マイケル・ジャクソンの自伝「ムーンウォーク」から伝わってくるのは、音楽に対して真摯でひたむきに生きた人間の美しさである

マイケル・ジャクソンの自伝「ムーンウォーク」から伝わってくるのは、音楽に対して真摯でひたむきに生きた人間の美しさである

1983年3月25日、カリフォルニア州のパサデナ・シビック・オーディトリアムでは、特別番組『モータウン25周年コンサート』の収録が、満員の観客を前にして行われていた。

マイケルはそこでジャクソン5のメンバーとともに、モータウン時代のヒット曲をメドレーで歌って、古巣のレーベルが迎えた25周年に華を添えたのだった。

そして最後に、モータウンを離れた後でソロとして成功を収めていた中で、全米1位で大ヒット中だった「ビリージーン」を披露した。

モータウンの創始者だったベリー・ゴーディーは、それを間近で目撃した体験をこのように述べている。

マイケルがソロとしてステージに立った時、あの歴史的パフォーマンスが生まれたのだ。「ビリージーン」のイントロ第一ビートが鳴り、マイケルが帽子を投げ飛ばすようすを食い入るように見つめていた私だったが、衝撃が走ったのはマイケルがあの、”ムーンウォーク”を披露した瞬間だ。まるで魔法だった。彼は滑るように衛生の軌道に乗り、そのまま宇宙の彼方へ滑空していった……ように見えたのだ。
(『ムーンウォーク/マイケル・ジャクソン自伝』より)

「ビリージーン」が終わった瞬間、観客は総立ちになり、スタンディングオベーションの大喝采がマイケルに送られた。
こうして公の場で初となるムーンウォークは、テレビの特別番組を通して大変な話題になっていったのである。

だがステージを降りた直後、マイケルにはかすかな心残りがあったという。
ムーンウォークに続いてスピンしたあとに、つま先だけで立って静止するはずが、失敗して静止できなかったからだ。

常に完璧を求めてきたマイケルにとって、それは致命的なミスに思えた。

だから出番が終わってジャクソン・ファミリーやスタッフから称賛を受けても、どこかで心の片隅では悔やんでいたのだ。
そんなマイケルがバック・ステージで、見知らぬ少年に話しかけられた話が、自伝にはこう記されている。

彼は十歳くらいで、タキシードを着ていました。彼は目を輝かせながら僕を見上げ、凍りついたように立ち尽くし、こう言ったのです。
「ねえ、一体誰があんなダンスを教えてくれたの?」
僕はちょっと笑ってから、言いました。「練習さ、多分ね」。その少年は僕を見つめ、畏怖の念に打たれたようでした。僕は歩きだすと、その晩初めて、その夜に成し得たことに、本当の満足を感じたのです。僕は、きっとすごくうまくやったんだな、子供は正直だもの、と自分に言い聞かせました。
(『ムーンウォーク/マイケル・ジャクソン自伝』より)

そこで出会った少年とはおそらく、1968年に10歳でジャクソン5のメンバーとして、地元のマイナーレーベルからデビューし、その翌年にモータウンと契約してスターになる直前の自分自身であったに違いない。

マイケル・ジャクソンが書き下ろした自伝がアメリカで発売になると騒がれたのは、確か1988年の初頭だったと思う。
そのときにどういうわけか日本の版元だったCBSソニー出版のT氏が、翻訳者としてふさわしい人は誰かとぼくに相談してくれた。

ぼくはその頃、出版のプロデュースを仕事にしていきたいと考えていたので、渡りに船とばかり協力を申し出た。
そして話を進めていくうちに、音楽ファンに限らず沢山の人達に読んでもらいたいので、版元としては自分の文体を持っている実績のある文学者を希望しているということを理解した。

そこでぼくの頭のなかにひらめいたのが、まだ若手作家の田中康夫さんだった。

一橋大学在学中だった1980年に『なんとなく、クリスタル』で文藝賞を受賞した田中さんは、新しい世代の作家として常に注目される存在だった。
しかも世間的にはどちらかといえば軟派のように見られていたが、こと表現者という意味においては実に芯が通った論者で、周囲には同調しない一匹狼という印象があった。

さらに適任だと思ったのは、音楽への造詣の深さである。
AOR、すなわち“アルバム・オリエンテッド・ロック”の研究家として、ぼくは以前からひそかに一目置いていた。

田中さんはアルバム単位でじっくり聴かせる大人向けのアーティストによる音楽を集めていて、当時は7000枚ものレコードをコレクションしていた。

そのなかから厳選した100枚のアルバムを取り上げて、都会の風景や男女の物語にからめるようにして、1枚ずつ紹介していく単行本「たまらなく、アーベイン」には、音楽の専門家とはまったく異なる文章の肌触りがあって、ぼくはそれをとても新鮮に感じていたのである。

そこで知り合いの編集者の伝(つて)をたどって紹介してもらい、初対面ながら翻訳を依頼したところ、幸いにもその場で快諾していただくことができた。

おかげさまで1988年の11月に発行された単行本は、目標だった10万部をすぐに突破して、版元が十分に満足のいく売上を記録することができたし、ぼくも責任を果たせた。

世界のスーパースターになっていたマイケル・ジャクソンが、ロサンゼルスにて急死したのは2009年6月25日のことだった。享年50歳。

それを期に『ムーンウォーク/マイケル・ジャクソン自伝』の復刊を望む声が高まって、日本でもその年の11月に新しい版元として名乗り出た河出書房新社から、ふたたび新版が発行されることになった。

その新版のまえがきにはベリー・ゴーディーが、こんな素晴らしい文章を寄稿している。

彼は技術の習得に貪欲で、最高のパフォーマンスをするために自分の限界に挑むこともしょっちゅうだった。完璧を求めて学ぶ姿勢を崩さず、偉大なアーティストたちを手本にして乗り越え、自ら高く掲げた目標ラインも乗り越えていった。マイケルの才能と創造力は、彼だけでなく、エンターテイメント界そのもののレベルをはるか大気圏の彼方にまで高く押し上げたと言っていい。

これは最高の賛辞であったが、それが事実なのであり、真実だということを、ぼくは数年ぶりに『ムーンウォーク/マイケル・ジャクソン自伝』を再読して、あらためて痛感することになった。
特にベリー・ゴーディーの以下の言葉が、いつまでも心に残ったのである。

ここに、マイケルの素顔や人となりは存分に語られているものの、アーティストとしての偉大性を深く理解するには、さらに行間を読み取る努力が必要かもしれない。ステージを降りればシャイで物腰が柔らかく、子供っぽさも併せ持つ人間。しかしいったんステージに出て観衆の絶叫を浴びると、厳しいステージマスター、非情なショーマンに変身する。彼にとってステージは殺すか殺されるか、命をかけた戦場だった。

まもなくマイケルの没後10年の日がやってくるが、常に読み返すべき本の一冊として、しばらくは机上に置いていたいと思っている。

マイケル・ジャクソンの楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
ボイジャー

ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。

vol.95
vol.96
vol.97