【80年代名鑑】明菜からYMOまで 80'sからの授かりもの  vol. 127

Column

YMO 細野晴臣が咄嗟に言ったひとことから始まった、類い希なる“オーケストラ”。

YMO 細野晴臣が咄嗟に言ったひとことから始まった、類い希なる“オーケストラ”。

YMOを語る場合、細野晴臣を中心にも語れるし、高橋幸宏を中心にも語れるし、坂本龍一を中心にも語れるだろう。YMOという、日本の音楽史上の“最高峰”には三つの登山口があり、それぞれの景色は微妙に違う。

ところで彼らはバンドなのか、グループなのか、はたまたユニットなのだろうか? 合体すれば類い希なる機能を発揮する一方、個々において独立したものを有する(要するに、ソロでも活躍できる)点から言えば、ユニットと呼ぶに相応しい。実際のところ、YMOとして活躍していた期間にも、3人は事実上、合体と解体を繰り返しているのだ(いま現在も)。

ファースト・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』が出たのは1978年の11月である。同年4月には、細野のソロ・アルバム『はらいそ』が出た。さらに高橋幸宏の『サラヴァ!(Saravah!)』が6月に、坂本の『千のナイフ』が10月に出ている。これらはすべて、音楽史に残る傑作だ。普通の“新人バンド”なら、デビューの準備に忙しく、こんな1年間を過ごせるハズはない。

さて、勢いからこのような書き出しになってしまったが、もちろんYMOの創始者、プロデューサーは細野晴臣であり、彼がいなかったらYMOも存在しなかった。なのでしばし、この“登山口”からの眺めを味わおう。

彼らはなぜこの世に誕生し、我々が知るところとなったのだろうか。それは細野が、アルファ・レコードと「プロデューサー契約」を結んだことがキッカケだ。手始め彼は、アメリカでのオーディションを経てリンダ・キャリエールというボーカリストをプロデュースしようとしたが、残念ながら上手く行かず、さて次は何をしよう…、という時、レコード会社のパーティに出掛けることになる。

その際、プロデューサーという立場で何か話すよう求められ、登壇する。その時、咄嗟に「イエロー・マジック・オーケストラってバンドをやります!」と宣言したのである。この時点で、確固たるヴィジョンがあったわけではない。唯一あったのは、頭のなかの“イエロー・マジック”という概念だけだった。

それはいったいどんなマジックなのか? 『HOSONO BOX 1969-2000』のライナーで、ご本人はこう語る。

当時、サンタナの曲に「ブラック・マジック・ウーマン」というのがあったけど、“ブラック・マジック”っていう言葉だけ、聴き慣れないので気になっていた。その頃、魔術は好きだったの(笑)。しかし、“黒と白”という西洋の分け方に日本人は入れない、と思ったわけ(注・白魔術というのも存在した)。(中略)じゃあ、自分はどこなのか、と悩んだな。すると、子供のときのいろんなことが思い出されてきたんだ。(中略)杉浦茂の西遊記のマンガも蘇ってきた。西遊記には黄魔大王というのも出てきたなぁ、なんてこと思い返して、黄色いイメージが頭に浮かんだ。黄魔術。タオイズム的な、西遊記的な感じ。「そうだ。イエロー・マジック!」だとね。

黄魔大王というのは黄風大王のことなのかもしれないが、いやはや引用が長くなってしまった。しかしこれは大切な部分である。ちなみにタオとは生命の超越的な領域としての「空(くう)」を目指すことだが、興味ある方は、さらに各自、学んで欲しい。

彼が宣言したのは「バンドをやります!」だった。さっそく人選に移り、“イエロー・マジック”の具現化においては様々な試みもあったが、最終的に集合したのは高橋幸宏と坂本龍一である。ちなみに、当時の彼らは短いモミアゲが特徴の、あの有名な“テクノ・カット”などではなかった。特に細野の風貌は真逆であり、肩からさらに伸びるくらいの長髪に、髭を蓄えていた。

高橋幸宏はジャパニーズ・ロックの開祖といえるサディスティック・ミカ・バンドのドラマーだったが、解散に伴い、バンドの仲間とサディスティックス(当時、日本で最もテクニックも華もあるバンド)として活動を続け、しかしそれも解散した直後であった(ちなみにこの人は、昔から服飾への関心が高く、お洒落)。

坂本龍一は気鋭のミュージシャン/アレンジャーとして注目されていて、彼がレコーディングやステージに参加したアーティストも数多かった。坂本に声が掛かったのは、当時の細野のマネージャーからの推挙もあったようで、そのあたりは『ニッポン・ポップス・クロニクル1969-1989』(牧村憲一・著)のなかに生々しく回想されている。

実質的な“デビュー音源”とも言えそうなのは、先ほども紹介した細野の『はらいそ』のなかの1曲、「ファム・ファタール〜妖婦」である。ここで3人が顔を合せ、細野はこのセッションで、音楽的な相性の良さも感じたのだろう(ただこの演奏自体はテクノ・ポップではなく、生演奏主体のエキゾチック・ミュージックである)。

細野はあくまで、YMOにはプロデューサーの立場で加わろうと思っていたそうだ。なので当初は、自分がベースを弾くことにも躊躇いがあったらしい。とはいえ『はらいそ』から7か月後、デビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』はリリースされた。

世の中に登場した“真に画期的なもの”は、その時点では分類不可能である。仕方なく、既存ジャンルに収容される。『イエロー・マジック・オ−ケストラ』もそうだった。当初はフュージョン・ミュージックとかディスコのように思われ、いきなり大注目とはいかなかった。

潮目が変わったのはライブ活動においてである。YMOといえばスタジオで緻密に音を構築するイメージもあるければ、もともとは腕利きで引っ張りだこだった“ミュージシャン3人衆”でもある。さらに、様々な幸運も舞い込む。

彼らがデビューしたアルファ・レコードは、この時期、アメリカのA&Mレコードと業務提携を果たしていた。つまり日本からも、世界へ羽ばたくチャンスがあった。12月に新宿で行われた「フュージョン・フェスティバル」と題されたショーケース・ライヴに、YMOは参加する。その時、来日していた同社の名プロデューサー、トミー・リピューマは彼らの演奏に触れて、3人のアメリカ進出の可能性を確信するのだった。

デビュー・アルバムには、ロサンゼルスで国内とは別のミックス・ダウンが施された。一部、ボーカル・パートのダビングなどもして、さらにジャケット・デザインも一新。かくして“もう1枚のデビュー・アルバム”が生まれた。全米に向け、リリースされたのだった。真のYMO伝説は、ここから始まっていく。 

文 / 小貫信昭

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