佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 100

Column

映画の夢を語り、その夢を形にしてきた大スターの生涯を通じて、日活撮影所の光と影を描いた傑作『石原裕次郎 昭和太陽伝』

映画の夢を語り、その夢を形にしてきた大スターの生涯を通じて、日活撮影所の光と影を描いた傑作『石原裕次郎 昭和太陽伝』

7月17日は石原裕次郎の三十三回忌にあたるが、それに合わせて出版される書籍「石原裕次郎 昭和太陽伝」を読了した。

上下二段組で480ページ、原稿用紙850枚もの大著を執筆したのは、娯楽映画研究の第一人者で、歌謡曲にも造詣が深い佐藤利明である。

本書によれば石原裕次郎が生涯に出演した映画は104作、発表したシングルレコードは237タイトルにもおよんでいる。

それらすべての映画と歌、そしてテレビ映画を年代順にたどって、佐藤は内容を詳細に解説しながら、昭和という時代を照らして生きた大スターの軌跡を克明に綴っていく。

映画スターという存在が憧れの対象であり、遠く手の届かない存在だった1956年に『太陽の季節』でデビューを飾った石原裕次郎だが、その屈託のない笑顔には「となりの家の青年」のような親しみやすさがあった。

そのことについて、佐藤はこのように述べている。

誰もが「裕ちゃん」と親しみを込めて呼んだ。長身痩躯のカッコよさと、人懐っこい笑顔、人柄が感じられる物腰の優しさ、そして不良性感度……。裕次郎の魅力は、その全身から感じられる「人柄の良さ」に他ならない。誰かが仕立て上げたものでもなく、彼自身が放つ「太陽」のチカラともいうべき魅力なのである。

しかし、昭和という時代を明るく照らしていった「太陽」は、自分で考えて行動する聡明な一人の若者でもあった。

したがってスターとしてチヤホされることについて、テレビのインタビューのなかでは忌憚なく、こんな本音を語っていたのである。

《今の、例えば、一応スターダムにのし上がってね。とやかく、チヤホヤやられていることが、大変僕には迷惑なんですよね。それがね、一番、二十三歳の若さでね。自分のペースに持っていくってのは、これは大変なことなんですよ。 自分ではそういう風に意識して、自分のペースを守っているつもりなんだけども、だんだんだんだんスポイルされているんですよね。映画というものに。自分でヒシヒシと分かるんですよ。そのつらさってのは大変ですよ。》

23歳の若さで最も人気があり、劇場に観客を呼べるスターになった石原裕次郎は、映画にも自分の将来にも大いに不安を感じずにはいられなかったのだろう。
そうした苦悩が浮かび上がってくるエピソードを、佐藤は抑えた筆致でこんなふうに伝えていく。

ある日、女優で振付師の漆沢政子が食堂に行くと、窓際のいつもの席で裕次郎がポツンと一人、ビールを飲んでいる。 「ちょっと納得がいかなくてね」。セットを抜け出してきたというのだ。現場では監督やスタッフに対して、不満を一切漏らさず、激することもない裕次郎は、お互いをクールダウンさせるため、時折、こんな風な行動に出ていた。フラストレーションが溜まっていたのである。

こうしてなんとか自分に折り合いをつけながら、石原裕次郎はまたたく間に時代の寵児となっていったのだ。

やがて「俳優は男子一生の仕事にあらず」と公言し、映画製作の夢を抱いて27歳のときに石原プロモーションを立ち上げている。

スタッフを抱えて一国一城の主になり、新しい才能を世に送り出すことに挑戦したのは、旧態依然として閉鎖的な映画会社の姿勢に強く不満を感じていたからだろう。

石原プロの第1作に選んだ映画『太平洋ひとりぼっち』は、小型ヨットで94日間をかけ西宮〜サンフランシスコ間の単独太平洋横断を成功させた、24歳の堀江健一青年の手記を映画化した意欲的な作品だった。

1956(昭和31)年、太陽族の申し子のように日活撮影所に現れた石原裕次郎は、映画界の因習や風習を意に介さず、誰にでもオープンに接する好青年であったという。
現場のスタッフに対しても、一番若い助手の名前まで覚えて、気安く声をかける。その場で困っている人がいると、「どうした?」と優しく言葉をかけた。

撮影所にやってくるときも、付き人もつけずに一人きりだった。
だから誰もが親しく、「裕ちゃん」と声をかけることができた。

そんな石原裕次郎を中心にした日活撮影所は、上も下もない、みんな仲間のような意識と連帯感で結ばれてきたという。

《他の撮影所のことは分からないのですが、日活は俳優も スタッフも、仲間意識と連帯感があって、まるで学校の同窓生みたいで、わけへだてなく、仲が良かったんです。それはやはり裕次郎さんが、そういう方だったんですね。スターだから主演だからと偉ぶらずに、スタッフの助手さんにも優しく声をかけて、仲間として皆と付き合う。それが日活の良さであり、撮影所の空気を作っていたと思います。》(山本陽子インタビュー・二〇一八年三月六日)

そんな素晴らしい自由な空気が流れていた撮影所が、映画界全体の斜陽という現実を前にして、どうなっていったのか?
自由を愛する若者たちの心が作ったリベラルな「日活学校」の時代が、なぜにあっけなく終わりを告げねばならなかったのか?

映画の夢を語り、その夢を形にしてきた日活撮影所の崩壊は、昭和のエンターテインメント史の核にあたる部分である。

1960年代を迎えて石原裕次郎はパターン化されて、なんのヒネリもない映画の企画に辟易していた。

しかし自分からこれぞとという企画を提案しても、プロデューサーや会社は取り合わない。

そこで俳優にも作品を選ぶ権利があるとストライキをすべく、撮影のローテーションに迷惑をかけない範囲で、しばらく失踪するという実力行使に出たこともあった。  
その時の心境を裕次郎はあとで、こう語っている。

《前々から恐しかったんですけど、自分がスポイルされた 生活とそうはされまいとする意識、虚像と実像の相剋……ま、キザに言うとそんなことですね。

既に僕の出演料は百五十万くらいになっていたんですから、恐ろしいですよ。このまま行っちゃったら俺はどうなるんだろうというジレンマがあったんでしょうね。学校つまんないから辞めちゃおうって言ったもののエライことしたなみたいなね、そういう壁にぶつかっていた。》

それでも目先の利益にしか関心を持たず、その後も意欲的な企画にさえ立ちはだかる会社の壁にぶつかって、純粋な夢を追い続けるには厳しい現実のなかで、石原裕次郎はさまざまな局面で、古色蒼然とした映画界の体質と戦わねばならなかった。

それがどれだけのストレスだったのかは、本人にしかわからないだろう。

本書は石原裕次郎の全作品と生涯を通じて、日活撮影所の光と影を見事なまでに描ききっている。

昭和のエンターテインメントの歴史を知る上で、欠かすことのできない歴史書であると思う。

石原裕次郎の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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