【80年代名鑑】明菜からYMOまで 80'sからの授かりもの  vol. 131

Column

YMO 『BGM』として聞き流すのは勿体ない。とはいえ正座して聴くのはちと違う。

YMO 『BGM』として聞き流すのは勿体ない。とはいえ正座して聴くのはちと違う。

ライブ盤、企画盤、ベスト盤はあったものの、『ソリッド・ステイト・サヴァイバー』に続くオリジナル・アルバムが『BGM』(1981年3月リリース)。このタイトル、そのまま受取るなら“バック・グラウンド・ミュージック”ってことだけど、音楽シーンの主役になった彼らが、なぜ敢えて、“脇役めいた”タイトルを思いついたのだろう? そこにはきっと、深いワケがあったのだ。

前作と比較をしてみたい。『ソリッド・ステイト・サヴァイバー』にはダンス・ミュージックの屈託なさもあったが、『BGM』はそれに較べて落ち着いてるというか、情熱を内に秘めてるというか、中には通常のポップ・ミュージックの範疇からすると実験的なものも含まれる。一番最後に入っている「来たるべきもの」は、一般的にアンビエント・ミュージックと呼ばれる抽象的な目鼻立ちをもった作品だった。

機材のことを書く。『BGM』のレコーディングでは、リズム・マシーンの名機が登場する。ローランドのTR-808だ。既にライブでは使われていたが、レコーディングでも使われる(通称“やおや”と呼ばれたこの機材は、数多くのアーティストに愛用された)。いま現在の我々の耳で聴くと、ゲームの効果音的な印象でもあるが、温かみのあるニクめない音がする。

次はシーケンサー(プログラムすることで、シンセサイザーの自動演奏を可能にする)。それまではローランドのMC-8だったが、さらにコンパクトで、なおかつ鍵盤での入力が可能なMC-4へと進展した。MC-8の時代は、数値化したデータを入力する専門知識が必要だった。現代音楽の作曲家で電子音楽においても先駆的だったシュトックハウゼンに造詣が深かった坂本龍一が、メンバー内ではこの作業に対する親和性を有していたが、MC-4の登場により、細野晴臣や高橋幸宏にとっても、シーケンサーの操作が身近になっていく。

肝心のシンセサイザーだが、それまでのムーグなどがモノフォニック、つまりムギュュ〜ンみたいな1音しか出せなかったのに対して、プロフェット5という画期的な機種が輸入される。その名の通り、5音を同時に出せるポリフォニックなシンセサイザーで、これさえあれば、シャシャフォファ〜ンとかって華麗な音も、ギョニギョニギョニ〜みたいな攻撃的な音も、より広いイメージで合成し、出せるようになった。坂本龍一は、このことを歓迎し、独自の音色を探求し、愛用するようになる。

こうしたスタジオ環境の変化も、当然、このアルバムの音楽性に影響を与えた。もちろん『BGM』でも人間が演奏しているが、『ソリッド・ステイト・サヴァイバー』と比較すると、断然こちらのほうが“機械の美学”が感じられる。なお細野は『BGM』のことを、“エーテル・サウンド”と表現したこともあった。“エーテル”というコトバは、なかなか一言で説明不可能なのだが…。

話を戻す。なぜこのアルバムは『BGM』というタイトルなのだろうか。今回、本作に関する記事など読んでいたら、ジョン・ケージの「4分33秒」との共通点を指摘しているものもあった。ただ、ケージのあの作品は“BGM”どころか、まったくの“無音”を奏でる作品だ。でもしかし、確かにここに収録された楽曲は、10曲中8曲が4分30秒〜34秒のなかに収まっている。これは偶然にしては出来過ぎだ。明らかな作為も感じる(例外の2曲というのは、すでに坂本がソロで発表していた「千のナイフ」と、そもそも時間の概念がなさそうな造りのアンビエントな「来たるべきもの」で、このふたつは5分台)。

これとは別に、エリック・サティの“家具の音楽”を意識しての“BGM”、という推測もできる。ある日、サティが画家のレジェとレストランにいたら、専属楽団の演奏が喧しすぎて、客が次々に帰ってしまい、サティはその時、周囲に程良く溶け込み、客のナイフやフォークの音を目立たなくして、なおかつ会話に生じる沈黙も押しつけがましくなく埋めてくれるような音楽(=“家具の音楽”)の必要性を感じたという。現在、お店で流れているバック・グラウンド・ミュージックの起源となる考え方だ。YMOがこのアルバムで目指したのも、それに似たものだったのかもしれない。

ならば、実際にその機能を果たすかどうか実験してみた。他のことやりながら聴いてみた。このアルバムは、“その役割”を果たすだろうか。シャツにアイロンをかけつつ聴いてみた(お皿を洗いながらだと、水の音が邪魔するので)。すると…。確かに頭の片隅のみで音楽が鳴り、心地良く聞き流せる瞬間もあるものの、自分の耳が、熱心に音楽を追い掛けることも多かった。

理由としては、このアルバムが“ボーカル・アルバム”でもあるからだ。人間は本能的に、コトバが聞こえれば意味を知ろうと脳を働かせる。しかもこの場合、歌詞が英語で、聴き取れる単語とそうじゃないものが混ざるので、なおさら耳が引っ張られたのだ(僕の場合…)。

これはYMOの、“コトバの主張”に満ち溢れた他ジャンルで言えば“フォーク・ソング”みたいなアルバムなのかもしれない。歌詞に注目だ。

ただし、お断りしておきたいのは、ここに聴かれるのは、本人達が書いた詞を、ピーター・バラカンが英訳したものだということだ。それを再び日本語にすると、本人達の当初のニュアンスからはズレが生じる可能性がある。でも仕方ない。

まずはシングル・カットもされた人気曲「キュー」である。作者は細野晴臣と高橋幸宏だ。“私にキッカケ(CUE)をください”という歌い出しだが、ラブ・ソングに受け取れなくはない。また、“袋小路(cul-de-sac)から抜け出す手だてを”という表現もあり、歌の主人公の心情として、ある種の閉塞状態も滲ませている。このヒトが音楽家だとするなら、“サウンド・オブ・ミュージック”と“エコー・オブ・ザ・アース”という表現が並ぶあたりは、[音楽]と自然界の音との境界線は何処に…、みたいな想いも受け取れて、このあたりはアルバム・タイトルの『BGM』とも、遠からず繋がっている部分でもありそうだ。また、高橋幸宏の「カムフラージュ」も、このタイトルのコトバが重要な役割をする歌詞だし、それが“表だったものじゃない”のなら、『BGM』に相通じるものを感じる。

歌詞といえば、坂本龍一の「音楽の計画」も印象深い。全体としては、音楽創作の苦難についての心情吐露と受け取れるが、出だしのイメージの広がりには、その時の気持ちをオートマティック・ライティングしたようなリアルさである。そのまま直訳すればの話だけど、“音楽を創ること”と“音楽を壊すこと”という、このふたつが交互に表われもする。ここでの“計画”(=PLANS)というのが、己から自然に沸立つ“楽想”というものと、商業音楽のリリース計画のような現実的なものとの狭間で揺れる表現とも受け取れるだろう。他にも坂本は、「千のナイフ」をYMOとして再演してて、これはコトバではないけど、シンセサイザーのアグレッシヴなソロで“何かを言おう”としている。

「キュー」にしろ「カムフラージュ」にしろ「音楽の計画」にしろ、ひとつ言えるとしたら、“BGM”として聞き流すには勿体ない、真摯なテーマが歌われていることだ。

そして8か月後には、早くも次の作品『テクノデリック』がリリースされる。ここでも更なる技術革新が行われ、彼らの生み出す音楽が、再び趣きを変える。『テクノデリック』は凄い。このアルバムのリリースは、単なる人気グループの新作発表に留まらなかった。世界の音楽シーンに衝撃をあたえた「事件」でもあった。次週へ続けよ(朝ドラ『なつぞら』内村光良のナレーション風)。

文 / 小貫信昭

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