【80年代名鑑】明菜からYMOまで 80'sからの授かりもの  vol. 132

Column

YMO 『テクノデリック』 アルファの1階のお店は、スタジオの“喫茶室”でもあった

YMO 『テクノデリック』 アルファの1階のお店は、スタジオの“喫茶室”でもあった

今回は、名作の誉れ高い『テクノデリック』(81年11月)である。しかしこのアルバム、「私の人生を変えました!」というくらい感動したヒトも居たが、正直なところ、「ちょっと難しくて、よく分かんなかった」というヒトも居た。なので出だしは、当時、そう思ってたヒトも意識しつつ、書くことにしたい。

YMOには、他のJ-POPのアーティストにはない個性がある。実験音楽といわれる領域も、理解したうえで取り入れていたことだ(これは主に、坂本龍一によってもたらされた)。なので『テクノデリック』の“この部分”が耳に作用し過ぎると、「よく分かんなかった!!」になりかねないのだ。特にこのアルバムは…。

そんな時は、耳の角度を変えてみるといい。普通のポップスに較べたら、展開がなく同じ感じが続くなぁ、という時は、むしろその“同じ感じ”の内側へ意識を滑り込ませてみる。するとどうだろう。突如、辺りの景色がめくるめくものに感じられたりもする。さらに意外にも(というと3人に失礼かもしれないが)、このアルバムは“ボーカル・パートの充実作”でもあり、この側面からだけ言えば、実にポップで聴き易くもある。

しかし悲しい話も書いておく。『テクノデリック』は、すごく売れたわけではなかった。『ソリッド・ステイト・サヴァイバー』はミリオンを越える大ヒットとなったけど、それに較べたら、セールスは低かった。つまり商業的には失敗だった。

ただ、このアルバムに薫陶を受け、自らの作品づくりの刺激としたアーティストや、音楽は志さなかったものの、別分野のクリエイターとなった人達が、大勢いるわけだ。そういう作品こそ伝説となり、語り継がれるのである(いま、僕自身も語り継いでいる真っ最中です)。

誤解のないように書き添える。“彼ら自身”が1981年当時、商業的に“失敗”していたわけではない。むしろ逆だ。全面協力した矢野顕子の「春咲小紅」は大ヒットしていたし、細野プロデュースのイモ欽トリオ(世界初のエア・バンド?)の「ハイスクール・ララバイ」も大ヒット。あの曲は、お茶の間の畳の下にまで深く染み込んだ日本初の“テクノ”であった。

テクノ? そういえば、YMOがこの言葉を初めてタイトルに使ったのが『テクノデリック』である。実際のところ、彼らの音楽が名実ともにそうなったのが、このアルバムである。

詳しいことは研究本に任せ、簡単に説明する。この時のレコーディングで大活躍するのが、サンプラーという機材だ。それにより、アナログの音をサンプリングという技術でデジタルとして取り込むことが可能となる。そうなれば、こっちのものだ。その音源をシーケンサーという司令部でコントロールすれば、シンセサイザー同様、どんな音も自動演奏が可能となったのである。

それまでのYMOは、ことドラムに関しては、名手・高橋幸宏の実際の演奏に頼る部分が多かった。でもサンプラーの登場により、彼のスネアならスネアの音をサンプリングすることで、それをもとに自動演奏が可能となる。人力に頼らずとも、総てをテクノロジーで賄なえる……ということは? これぞまさに“テクノの完成”と言える出来事だったのだ。

このことを踏まえ、改めて『テクノデリック』を聴いてみよう。これまで音楽として意識しなかった音が、音楽として聞こえてくるのがエキサイティングだ。記録によると、サンプリングされたのは鉄工所の音とかボーリング場の音とか、(変わったところでは)凹ませた掌を体にあて、空気を逃して“クワッ”と鳴らした音とか(笑)、ありとあらゆるものだったようだ。

鉄工所とかボーリング場は、彼らがレコーディングしていたアルファのスタジオがあった田町駅付近に存在しており、つまりご近所のものが活用されたというわけである。アルバムの最後に組曲っぽく展開される「前奏」と「後奏」が、そのあたりを活かした音作りだ。この作品にはミニマル・ミュージックの手法が使われている(ミニマルとは、音楽の多様性や偶然性を突き詰めた音楽家が、その先にあるものとして音響そのものを最小限に切り詰め制御しつつ反復させることで表現の未来を目指した手法のことだが、こういうことに興味がある方は、ラ・モンテ・ヤングとかが試みたことを調べてみて欲しい)。

なお、当時のサンプラーは1秒ちょっとの時間のみサンプリング可能だったので、自然とパーカッシヴな活用が多くなっている。声をサンプリングしてドラムのように聴かせてたりもしているが、それを今の耳で聴くと、口にマイクを近づけドラムを声で真似する“ボイパ”に近い感覚に聞こえるかもしれない。

サンプリングしたのは周辺の生活音だけでなく、インドネシアの民族音楽であるガムランやケチャも使われている。「新舞踏」や「京城音楽」には、ハッキリとそれが活かされている。もともとサンプリングという言葉はデジタル技術にもとづくが、こうやって、世界中の音楽からサンプルを求め、自分達の楽想のなかで再構築する喜びも、このアルバムには息づいている。こうしたチャンプルー感覚は、そもそも細野晴臣の指向性として、以前からあったものだった。

実は僕は、このアルバムが作られていた時期に、アルファのスタジオを訪ねている。その時のことを最後に書きたい。残念ながら、細野さんも高橋さんも坂本さんも居なかった(彼らに会えたのは、その少しあとのことだった)。その代わり、待っていたのはゴツいオルガンみたいな「イミュレーター」というサンプラーだった。実は取材というのは、コイツに関するものだったのだ。当初、彼らがレコーディングで活用したのは日本の技術者が考案した手作りのサンプラーだったが、後半はアメリカから、この機材が輸入された(すんごく高価だったらしい)

データのやりとりは、8インチのフロッピー・ディスク(ドクター中松が発明したと言われているアレである)で行われたようで、スタジオに入っていくと、フロッピーも無造作に置かれていた。それを同行したカメラマンが、写真の見栄えのため、扇型に置き直した途端、1枚がカッタ〜ンと床に落ち、転がった(その時、スタジオに響いた音は、今も覚えている)。肝を冷やした。もしディスクにエラーでも生じたら、我々は天下のYMOのレコーディングを妨害したことになってしまうからだ(幸い、そんなことはなかったようだが…)。データによると、「イミュレーター」は「階段」で使用されているとのことなので、我々が訪ねたのは、その曲の作業中だったのかもしれない。

アルファのスタジオが出たついでに、1曲目の「ジャム」の話もしよう。この曲は、レコーディング中によくメンバーが軽食やお茶で利用した、スタジオのあったビルの1階の喫茶店に由来する。そこのジャムを塗ったパンが、やけに厚切りでメンバーに不評だったことが、歌詞に反映されているのだ。

喫茶店のことは覚えている。ここで何度も打ち合わせをした。路面店なので、もちろん近所で働く人達などが普通に利用していたが、上階のレコード会社から内側のドアから入っていくことが出来た。いわば“アルファの喫茶室”っぽい存在でもあったわけだ。

パンが厚切りというのは、想像するに、ピザ・トースト用だったのではなかろうか。それにジャムを塗ってメンバーに供したのがいけなかったのだろう。メンバーが所望したのは薄くてカリッと焼けた、トーストの優等生のようなパンだったかもしれない。それならジャムの柔らかさとパンの固さが絶妙な食感を生む。厚切りだと、ジャムもパンも食感は柔らかく、どうもいけない。この喫茶店は利用したが、残念ながらジャムのパンを食べた記憶はないので、あくまで想像だが。しかしこの一件が契機となり、あの名曲が生まれたのだと思えば、「厚切り君、キミのお陰さー!!」と叫びたくなる。

文 / 小貫信昭

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