山口洋のSeize the Day/今を生きる  vol. 64

Column

ペンでひかりを描く人 / 音楽ジャーナリスト、長谷川博一さんのこと

ペンでひかりを描く人 / 音楽ジャーナリスト、長谷川博一さんのこと

彼がいなければ、今の山口洋はなかったと言っても過言ではない。
58歳の若さで旅立った音楽ジャーナリスト、長谷川博一。
共に過ごした濃密な時間、彼が開いてくれた新しい扉、彼の言葉によってこの世に生み出されたあの曲、そして、山口を励まし、救ったペンの力。
感じたことのない喪失感の中で、一つひとつ大切な思い出と向き合いながら、彼だけが発したひかりについて、感謝とリスペクトを込めて書き下ろす。

トップ画像・撮影 / 村越 元


いったい何から書き始めればいいんだろう? 仙台に向かう新幹線の中で、感じたことのない喪失感と向き合っている。

でも、彼が遺してくれたものを誰かに手渡しておきたい。

とつぜんの訃報が佐野元春さんからもたらされて、彼に会いに行く。棺の中に眠る長谷川さんは僕が知っていた彼ではなかった。一年に渡る病との共生が大柄な彼を痩身に変え、58歳というには老師のような佇まいで穏やかに眠っていた。

長谷川さん……。

棺にはプロレス・チックにブルース・スプリングスティーンの「The Rising」のTシャツがかけられ、部屋には「The River」のマイナーコードが響いていて、僕には何の現実感もなかった。果たして、これは現実なのか夢なのか……。

彼と初めて会ったのはもう30年近く前のこと。

デビューを機に、僕は福岡から出てきたが、東京には知り合いもいず、悶々と暮らしていた。それまでのすべての屈折と情熱と希望を込めてデビュー・アルバムをリリースしたけれど、反応もセールスも芳しくなかった。

そんなとき、気鋭のライターだった彼が、アルバムを激賞してくれた。とくに「Hey my friend / don’t die young」という曲を自分の口癖を取られたような気がする、と褒めてくれ、1990年のベスト・アルバムに選んでくれたのだった。そんな扱いをしてくれたのは彼ひとりで、僕はひどく励まされた。

彼は最初の著作『ミスター・アウトサイド(わたしがロックをえがく時)』に取り組んでいた。それはアメリカで出版されたビル・フラナガンの名著『ロックの創造者たちー28人のアーティストは語る』にインスパイアされたインタビュー本で、ソングライターが何故曲を書くのか、その根幹に迫る国内初めての本だった。清志郎さん、佐野さん、友部さん。偉大なソングライターの中に若手として宮沢和史くんや僕も加えてもらって、とても嬉しかった。

理解者がいてくれること。どこかで誰かが認めてくれること。どれだけ励まされたことだろう。やりきれなくて、毎晩浴びるほど安酒を飲んでいた僕を救ってくれたのは彼の言葉だった。

『ミスター・アウトサイド』の編集者が同じ年だったこともあって、まぁ、我々は良く飲んだ。なにかにつけて、飲んだ。若さに任せた空酒ってやつだ。なにも食べずに飲む。いわくつきの新宿の飲み屋なんかで。こっちにも九州男児の意地がある。「じゃあね」と、手を振って彼らが視界から消えた瞬間に道端に倒れる、みたいな。若いってことは愚劣さが洋服を着て歩いているみたいなものだった。

次第に僕らは兄弟みたいな感じになっていく。こっちは血気盛んで、とんがっているだけの田舎者。彼は小樽の老舗呉服屋のボンでありながら、青山学院出身のシティーボーイ(死語)。ある意味、夢とヴィジョンが重ならなければ、ほとんど敵と呼んでいいほど水と油。でも、何故か気が合った。

きっと彼は僕が心配で放っておけなかったんだろうし、僕には彼から吸収することが山ほどあった。

音楽のこと、本のこと、クリエイターのこと、愛のこと、映画のこと、世界のこと、東京のこと、不条理のこと、ネイティヴ・アメリカンのこと、円環のこと、永遠のこと、エトセトラ。彼は信じがたいほどの情報通で、僕に必要なことを惜しみなく伝えてくれた。あの本も、この映画も、この言い回しも、あの名盤も、あのフレーズも、それにまつわる裏話も、ほんとうに数えきれないくらい。彼のおかげで、僕は世界で息ができるようになったと言っても過言ではない。

彼は逗子の小洒落た空間に棲んでいて、文化人を集めてサロンのようなことをやっていた。考古学者、雑誌編集者、デザイナー、キャビン・アテンダント、エトセトラ、エトセトラ。僕は帰りの電車代を引き算して飲まなければならないような立場で、文化人の華やかさにひどく気後れしていたけれど。彼らの自信に満ちた話をBGM代わりに、いつも長谷川家の冷蔵庫やレンジの掃除をしていた。いろんな価値観を吸収したのだと思う。”勝ち組”と呼ばれる人たちの態度も合わせて。

『ミスター・アウトサイド』が出版され、僕が2枚目のアルバムをリリースしても、根本的な息苦しさはなにも変わらなかった。とかく窒息しそうな気分が僕に音楽を創らせていただけで。

その時代の僕の音楽を、彼は「高潔、それにも増してフール」と評してくれた。高潔だったかどうかはわからないけれど、十分にフールな日々だった。あのまま暮らしを続けていたなら、この世界の住人ではいられなかっただろう。

見かねた彼がNYに誘ってくれた。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを筆頭として、僕の人生を音楽で形作ってくれた街。どうやって、その費用を捻出したのかもう記憶にないけれど、イタリア在住の建築家と長谷川氏と3人で、NYに渡った。

それは強力な体験だった。

何故かこの街では自分が自分でいることができる。おまえはおまえ、俺は俺。その価値観は居心地がよかった。息をすることができる。僕はひとりで、マンハッタンを隅から隅まで歩き回った。4,5日かけて、ほぼすべての道を歩き尽くして、ついに足の痛みで歩けなくなった。

どうしてバスや地下鉄に乗らないんだと長谷川さんに怒られて、「俺は俺のやり方で生きるんだ」と言い返した。旅はひとりでするものだと学んだのも彼から。2回目からは常にひとり。NYで居候先も見つけて、年の半分は日本にいない生活が始まった。世界じゅうを旅するきっかけを作ってくれたのも彼だった。

1991年、NYマンハッタンにて。中央に座っているのが山口

長谷川さんは僕の「アイ・オープナー」。そして夢先案内人。たくさんの扉を開けてくれた。感謝しかない。

2枚目のアルバムのレコーディング。一口坂スタジオ。彼が激励にやってきてくれたとき、僕は「灯り」という曲を歌っていた。どうしてもうまく表現できず、ボツにしようかと悩んでいるところだった。SSLのコンソールの上に散乱していた歌詞を手にとって、彼はこう言った。

「これは素晴らしい曲だから、ボツにしちゃダメだよ」。プライベートだけどパブリック。プライパブリックな名曲だから。

その一言に励まされて収録を決めた。あのとき、彼がスタジオに現れなければ、確実にあの曲を葬っていたと思う。歌は多くの人に愛された。これも彼のおかげ。

ほんとうに書き出したら、キリがない。佐野元春さんをはじめ、デザイナーの駿東宏さんを紹介してくれたのも彼。そこから拡がった縁は果てしない。

亡くなったあと、駿東さんからメールが来た。彼はほんとうに佐野元春と山口洋と格闘技を愛していた、と。いや、ほんとうに愛していたのは奥さんだと思うけど。

なんだか兄弟というものも超えていたような、ウサギとカメのような(もちろん僕がカメ)おかしな関係だった。ようやく僕が追いついたなら、彼がジャンプして勝手に逝ってしまった。そんな感じだ。

僕らは「死」についてもしょっちゅう語っていて、記録も残っていたりする。いわく、「ぼくならば、今。死よりも重要と感じられる幸福感が欲しい。寿命より早く、今ここで朽ち果ててもいいと思わせてくれる興奮が欲しい」、と。

僕らはずっと永遠の円環を目指してきた。始まりも終わりもない世界。ロックンロールにはそれがあると信じてきた。果たして彼はそれを手にしたのか? 空に問いかけてみたい。

撮影 / 村越 元

彼の文章はほんとうに素晴らしかった。ウィットに富んで、比喩がみずみずしくて。ユーモアもシティーボーイ(死語)ならではのもの。いつも筋が通っているようでいて、どこかに一抹のチャラさというか脇の甘さもある。それがまた独特の魅力を醸しだす。

僕は彼の字が好きだった。一見して彼のものとわかる独特の字体。「あの字」で描かれると、文章は説得力を増す。聡明さと、思慮深さ、そしてウィットとチャラさ(褒めてます)をたたえて。長谷川さんの字は彼の美学そのものを表していた。

そして、彼のペンにはひかりがあった。いや、彼のペンはひかりを描いた、の方が正しいか。基本的に快楽主義者でありながら、社会にその目を向けたときも、まなざしはいつも弱者に優しく、フェアな表現をこころがけていた。人を傷つけるような表現を常に嫌っていた。

社会や政権を風刺するときも、決して攻撃的ではなく、美学は貫かれた。どこかにユーモアという救いがある。

ひかりは読者だけでなく、我々アーティストの闇も照らしてくれた。彼のインタビューによって、僕は何度も自分を「発見」したし、彼の評論によって、自分の音楽の良さを教えられた。強力なサポーターでもあった。

彼の著作を本棚ではなく、机の上に置いていたというアーティストの話も聞いたことがある。僕も一時期、そうしていた。鏡で、そしてひかりなのだ。

彼との会話は「中空に議題のボールを投げて、その行き先をふたりで追う」ような感じだった。つまり着地していないといえば、そうなのだけれど、いつも夢というヴィジョンを二人で追いかけていた。男の子チックにいえば、いつまでもドリーマーで居られる間柄だった。

病になったあと、僕とは代替療法のメールを何度か交わしていた。奥さんによると、終末期にも関わらず、本人にその自覚はなく、治る気満々だったのだと。そういうところに、僕も救われている。

日々、横になって眠れないほど苦しかったらしいのに。手術で声を失ってしまい、電話もままならなかったという状況があったにせよ、会いに行かなかった後悔は募る。若い頃、あんなに助けてもらったのに……。

今年に入って、まったく仕事ができないような体調だったにも関わらず、仕事に復帰しようと意欲を燃やしていたのだと。

震える字の走り書きを見せてもらった。

華美な葬式を望まないこと。たいせつな友人たちだけに知らせてほしいこと。そして関東あたりの海に散骨してほしいこと。奥さんへの愛に溢れた文章だった。

とっても長谷川さんだった。

長谷川さん。あなたがいなくなって、ほんとうに寂しい。でも、生きていかなきゃいけない。だから、あなたの無念も込めて、ていねいに、全力で、生きます。それが僕にできるすべてだから。そしてあなたが僕に伝えてくれたこと、音楽というひかりに変えて、世界に伝えていきます。

『ミスター・アウトサイド(わたしがロックをえがく時)』、『きれいな歌に会いにゆく』。ぜひ手にとって読んでください。音楽ジャーナリスト、ペンでひかりを描く人、長谷川博一のすべてがそこにあります。

長谷川博一さん、あなたに伝えたい言葉はたったひとつ。

ありがとう!

感謝を込めて、今を生きる。

Special thanks / Gen Murakoshi


写真提供 / 古書ほうろう

長谷川博一
1961年、北海道小樽市生まれ。青山学院大学卒業後、出版社や音楽プロダクションを経て、90年代よりフリーランスの活動を開始。以来、多くのミュージシャンのインタビュー記事や評論を手掛ける。幅広い知識と深い考察に裏打ちされた軽妙洒脱な筆致、独自の審美眼と取材対象への真摯な眼差しで、優れた音楽、ミュージシャンの人物像を伝えてきた。中でも、佐野元春やブルース・スプリングスティーンの多くの仕事で知られ、残した功績は計り知れない。山口洋との出会いは1990年。その年のベスト・アルバムの筆頭にHEATWAVEのメジャー・デビュー・アルバム『柱』を挙げている。以降、多くのインタビュー記事や評論、アルバムのライナーノーツも手掛ける。1991年には『Mr.OUTSIDE―わたしがロックをえがく時』(大栄出版)で山口洋を含む9人のミュージシャンのインタビュー集を出版。1993年には『きれいな歌に会いにゆく―SONGWRITING INTERVIEWS』(大栄出版)で7人のミュージシャンにインタビュー。音楽評論の傍ら、90年代終盤からは格闘技についての執筆、取材を開始している。1999年『チャンピオン:三沢光晴外伝』(主婦の友社)、2009年『三沢光晴外伝:完結編』(主婦の友社)、2015年『新日本プロレスV字回復の秘密』(KADOKAWA)など、プロレス関連の著作も多い。2011年以降は、エネルギー問題など社会問題にも取り組んだ。2019年7月8日逝去。


『Mr.OUTSIDE―わたしがロックをえがく時』
大栄出版、1991年

気鋭のロック・ミュージシャンによる、ソングライティング・インタビュー集。泉谷しげる、忌野清志郎、小山卓治、佐野元春、知久寿焼、友部正人、中川敬、宮沢和史、山口洋が自身の曲作りについて語っている。「表現すること、それ自体ブルースだ」(忌野清志郎)、「僕のソングライティングは、パイの作り方に似てる」(佐野元春)など、それぞれの価値観やスタイルが詰まった名言を引き出している。‬‬

『きれいな歌に会いにゆく―SONGWRITING INTERVIEWS』
大栄出版、1993年

主に歌詞をテーマにした7人のミュージシャンへのロングインタビュー集。当時のヒット・チャートでは味わえない、独自の美学に貫かれた完成度の高い本物の歌、ミュージシャンだけに焦点を当てた。矢野顕子、桑田佳祐、吉田美奈子、小田和正、浅川マキ、近田春夫、渡辺美里ら豪華な顔ぶれに挑んでいる。


著者プロフィール:山口洋(HEATWAVE)

1963年福岡県生まれ。1979年にHEATWAVEを結成。1990年、アルバム『柱』でメジャー・デビュー。1995年発表のアルバム『1995』に収録された「満月の夕」は阪神・淡路大震災後に作られた楽曲で、多くのミュージシャン、幅広い世代に現在も歌い継がれている。バンド結成40周年となる今年、アルバム発表に向けて現在レコーディングの真っ最中。6月28日には2011年東日本大震災後から続けている“MY LIFE IS MY MESSAGE”を横浜サムズアップで開催した。7月21日からは“山口洋(HEATWAVE)the boy 40 tour”後半戦がスタート。8月には2つの野外イベント、“オハラ☆ブレイク’19夏”、“RISING SUN ROCK FESTIVAL 2019 in EZO”に出演する(powered by ARABAKI ROCK FEST.)。8月25日には国道拡張のため一旦閉店を余儀なくされた金沢メロメロポッチのファイナルライヴに出演。9月には“HEATWAVE SESSIONS 2019 “the boy 40””を東京・渋谷 duo MUSIC EXCHANGEで開催することが決まった。2018年ツアーのライヴCD『日本のあちこちにYOUR SONGSを届けにいく』、2018年12月22日HEATWAVEライヴを収めた『The First Trinity』がライヴ会場をはじめHEATWAVE OFFICIAL SHOPにて発売中。

オフィシャルサイト

ライブ情報

山口洋(HEATWAVE)the boy 40 tour
7月21日(日)水戸 Jazz Bar BlueMoods *SOLD OUT
7月26日(金)佐賀 Restaurant & Cafe 浪漫座
7月28日(日)福岡ROOMS
8月30日(金)岩国 himaar(ヒマール)*ヒマールスペシャル企画「山口洋とギターを弾いてみよう」
8月31日(土)岩国 himaar(ヒマール)*特別公演
9月1日(日)愛媛 松山 スタジオOWL
詳細はこちら

オハラ☆ブレイク’19夏
SATURDAY NIGHT SESSION 北のまほろばを行く-猪苗代湖畔編- powered by ARABAKI ROCK FEST.

8月10日(土)猪苗代湖畔 天神浜オートキャンプ場
BAND:山口洋(G)・細海魚(key)・辻コースケ(Ds)
GUEST:仲井戸”CHABO”麗市・TOSHI-LOW・藤原さくら・Rei
詳細はこちら

RISING SUN ROCK FESTIVAL 2019 in EZO
FRIDAY NIGHT SESSION 北のまほろばを行く-石狩編- powered by ARABAKI ROCK FEST.

8月16日(金)石狩湾新港樽川ふ頭横野外特設ステージ(BOHEMIAN GARDEN)
BAND:山口洋(G)・細海魚(key)・辻コースケ(Per)
GUEST:仲井戸”CHABO”麗市 and more
詳細はこちら

MEROMEROPOCHI FINAL LIVE「grateful thanks so much !」
8月25日(日)金沢 メロメロポッチ
出演:山口洋・杉野清隆
詳細はこちら

HEATWAVE SESSIONS 2019 “the boy 40”
9月23日(月・祝)東京 duo MUSIC EXCHANGE
詳細はこちら

vol.63
vol.64
vol.65