佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 103

Column

”歌謡曲は私たちの時代のブルースである”と書いた寺山修司が残したメッセージソング「戦争は知らない」

”歌謡曲は私たちの時代のブルースである”と書いた寺山修司が残したメッセージソング「戦争は知らない」

幼くして父を戦争でなくした寺山修司は、終戦を迎えた10歳の頃からいつもひとりぼっちだった。
青森県三沢市にある米軍基地で働いていた母親が家を空けることが多くなり、いつしか自宅で自炊をする生活になったという。

寺山はそのことが表現者への道を用意したのではないかと、後にこんなことを述べている。

「親が側にいなくて兄弟もなく、ひとりでいる時間が多かったから、物を書いたという気がする。現実で満たされていないと、現実以外でもう一つの世界を作って、作ることで満たされようという気になるのではないか」

テレビがまだ家庭に普及していなかった1950年代から60年代にかけて、歌謡曲が果たした役割は現在とは比べものにならないほど大きかった。

空襲による焼け跡から復興していく日々のなかで、戦争によって肉親や親族をなくした子どもたちと、子どもを失った親たちがそれぞれに黙って孤独に耐えていたのだ。

寺山は著書「書を捨てよ、街へ出よう」のなかで、”歌謡曲は私たちの時代のブルースである”と書き記している。

なりふり構わず必死になって生きていた昭和の時代に、余裕のない生活の中でひとときのうるおいを与えたり、乾ききった心を慰めてくれたり、あるいは励ましてくれたのが、どこかから聴こえてくる歌謡曲であった。

ラジオや映画館、商店街の街頭スピーカーなどから流れてくる歌や音楽は、もっとも身近な娯楽になった。

寺山のお気に入りは自分と同世代で、2歳年下の少女スターだった美空ひばりだった。

初期の美空ひばりのヒット曲は、親を亡くして身寄りのない子や、もらわれてきた子どもという設定が多かった。
戦争で多くの人たちが生命を奪われたことを背景にして、大切な家族や友達を亡くした喪失感や哀しみを歌った楽曲が、名もない若者や庶民たちに支持されのである。

また、寺山は歌謡曲の何よりの特質が、“合唱できない歌だ”というところにあると指摘していた。
“合唱できない歌だ“というのは、戦後の歌謡曲の特徴を鋭く言い当てている。

子どもも大人も、お年寄りも、みんな先々が不安で孤独だった。
そんな寄る辺のない人間が哀切な歌を聴いて、ひとりずつ心を慰めるということが、戦後の歌謡曲には役割として求められていたのである。

都会では生命力があって明るく力強い「東京ブギウギ」や「銀座カンカン娘」がヒットしていても、青森県に住む寺山にはどこか遠い世界であった。

だが美空ひばりは、そうした寂しさにも答えてくれたのだ。

「リンゴ追分」や「津軽のふるさと」といったローカル色が強い歌は、復興から取り残されされがちだった地方の人たちから、圧倒的に支持されていった。

そうした歌謡曲のあり方が変わり始めたのは1964年に東京オリンピックが開催されて、その2年後にビートルズが来日公演を行ったことで、若者たちが身近な楽器で好きな楽曲を演奏し、仲間たちと一緒に歌を唄う時代になってからのことだ。

もっとも手軽なフォーク・ギターが人気を集めて普及し、新しい時代の気分を唄う伴奏楽器として広まった。

ハーモニーの豊かさや心地よさ、あるいは一緒に体を動かして音楽を楽しむことの喜びに気づいた人が増えた。

そこから学生たちを中心にフォークのブームが起きて、自作自演で唄うことが特別のことではなくなっていく。

京都の大学生でアマチュアだったザ・フォーク・クルセダーズが、卒業をひかえてグループを解散することになり、その記念コンサートで販売するために自主制作盤のレコードを作って販売したのは1967年の秋だった。

そのアルバムに入っていた「帰って来たヨッパライ」が、神戸の民放局で取り上げられて、ローカル・ラジオ局から火がついて東亰にまで飛び火した。
そして12月25日に東芝レコードから発売されたシングル盤は、またたく間に200万枚を越えるヒットを記録した。

主要メンバーだった北山修と加藤和彦はアマチュアならではの自由な発想から、1年間の期間限定でプロとして活動していくことを決めた。

そして京都のフォーク仲間だった端田宣彦を、正式なメンバーに加えている。
彼らが目ざしていたのは<みんなの音楽>として、多くの若者たちと歌を共有して楽しむことだった。

そんな彼らが発見してレパートリーに加えていた楽曲の中に、寺山修司が最初に作詞した叙情的な歌謡曲の「戦争は知らない」(作曲:加藤ヒロシ)があった。

これは1968年11月10日にライブ・ヴァージョンが、シングル盤のB面で発売された。

もちろん彼らはその曲にハーモニーをつけて、みんなで一緒に唄っていたのである。

加藤和彦と北山修に加えて、はしだのりひこの代わりを務めるアルフィーの坂崎幸之助が参加して、ザ・フォーク・クルセダーズが再々結成されたのは2002年11月だった。

その後に彼らはふたたび解散したのだが、解散記念コンサートで披露された「戦争は知らない」は見事なものだった。

そんなふうにして、この世に生まれた歌のなかでも、ひとたび確かな命が宿った作品は、作者の思いや意図とは関係がないところで、スタンダード曲としてひとり歩きしていくのである。

なお寺山修司が手がけた歌謡曲は多いが、もっとも初期の「戦争は知らない」と、18歳のカルマン・マキに書いてヒットした「時には母のない子のように」が、21世紀になっても歌い継がれている。

イベント情報

https://www.terayamaworld.com/museumnews/

寺山修司の作品はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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