佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 105

Column

わずか50部だけ限定発行された「鈴木健士遺稿集」を 読んで、これは紹介したいと思ったエピソードです。

わずか50部だけ限定発行された「鈴木健士遺稿集」を 読んで、これは紹介したいと思ったエピソードです。

NPO法人ミュージックソムリエ協会 理事長で音楽プロデューサーの鈴木健士氏が亡くなったのは2015年8月2日だった。享年54。

田辺音楽出版を皮切りに音楽人としてのキャリアをスタートさせた鈴木さんは、とくにCM音楽制作の分野で活躍し、手がけた作品は3000以上にのぼるという。

そんな中でとくに忘れられないのが、タイマーズが日本語で歌った「デイ・ドリーム・ビリーバー」だと、生前に語ってくれたことがある。

1968年に大ヒットしたモンキーズの「デイ・ドリーム」をカヴァーしたこの歌は、新商品だった「エースコック スーパーカップ」のために1989年に制作された。そしてテレビのCMで使われて有名になってからも、コンビニエンスストアのイメージソングに今も使用されるなど、国民的といえるほどに親しまれている。

「鈴木健士遺稿集」には「デイ・ドリーム・ビリーバー」の誕生と、その後に起こる思いも寄らなかった事件に関して、当事者にしか知り得ない事実が書いてあった。 少し長くなるかもしれないが、貴重な話なのでこの機会に紹介したい。

これはある日、当社のスタッフが忌野清志郎さんのライブに行って、日本語訳で歌われたこの曲を聴いたのが発端である。ぼくはその話を聞いて早速、レコードメーカーの東芝EMIに電話をした。そしてこの時のライブ音源を取り寄せてもらった。
一聴して鳥肌が立った。
「♪デイドリームビリーバー そんで 彼女はクイーン」
Andの部分を「そんで」に訳した清志郎さん、日本語の感覚はほんとうに凄いと思った。
「………(この曲は大ヒットする)………」そう確信したので、すかさず大阪に行った。

エースコックは本社が大阪で、広告代理店も大阪だったので、まずプランナーに聴かせた。
「この曲で行きましょう!! 必ず大ヒットするでしょう!! 」広告代理店のスタッフたちも即決だった。

すぐにプレゼンの用意を整え、翌朝、エースコックに赴いてプレゼンを実施した。3社競合だったが、結果はわがチームの勝利だった。
しかし、勝つには勝ったが、この仕事を完成させるまでにはいくつもの障壁があった。
タイマーズではなく、忌野清志郎名義ではだめなのか?
確かに忌野清志郎さん、もしくはRCサクセションの名前が世の中には浸透している。
だが今回はユニットなので、あくまでもザ・タイマーズだからと説明すると、「大麻を連想させる」と言われた。
まあ、清志郎さんもその辺は狙ってるのだろうから、言い返す言葉に力がない。
しかしエースコックは当時、日清の後じんを拝していたので、この商品には相当に思い切った広告戦略が必要だと考えていた。

そして最後は社長のご子息、当時の常務の大英断で決定した。

こうして企画にGOが出て、録音はロンドンのアビー・ロード・スタジオで行われた。

忌野清志郎は前年にカヴァー・アルバム『COVERS』が発売中止になる騒ぎに巻き込まれたばかりだった。
その企画の延長ともいえる内容だったが、日本語詞のはまりの良さは圧倒的に際立っていた。

CMに出演していたサーファーギャルが発したアドリブの台詞、「グラッチェグラッチェ」はその年の流行語にもなった。

もちろんCMだけでなく曲も順調にヒットしたのだが、そこから思いもよらぬ展開になって、鈴木さんは天国から地獄に突き落とされるという憂き目にあった。

ふたたび当事者の言葉を引用したい。

さて、大問題が勃発するのはここからである。
商品のスーパーカップは大ヒットになった。他メーカーも次々に大型カップラーメンを市場に投入した。今に至るもこの分野では、エースコックが独り勝ちである。CM制作者としてこんなに嬉しい事はない。スポンサーも大喜びである。
問屋さんに配る為にと、何百枚ものCDをお買い上げ頂いた。常務も手放しで喜んでくださった。すべてがうまく進んでいた………筈だった。
「本日、タイマーズが夜のヒットスタジオに初登場!! 」

CXでは番宣を流していた。その日の目玉はタイマーズ。歌う曲は勿論「デイ・ドリーム・ビリーバー 」である。
スポンサーは全社員、全問屋、お得意先に大号令を掛けた。
「本日の夜のヒットスタジオを是非ご覧下さい!! 」。

フジテレビ(JOCX)の『夜のヒットスタジオ』は「生放送」であった。音楽番組で生放送ほど緊張するものはない。どんなアクシデントが起こるかは、番組が始まってみないとわからないのである。

(料理が得意だった鈴木さん)

鈴木さんはオンエアの日、仕事が早く済んだので本番が始まる前には家に着いた。そしてイカのリングをつまみにしてビールを飲み、ご飯を食べながら番組開始の10時を待つことにした。
番組は予定通りに始まったが、タイマーズの出番は後半である。

そしてCM後、口元に大きなマスクをし、ヘルメットを被った怪しい四人組のバンドが画面に映った。

司会の古館伊知郎が「それでは初登場、タイマーズでデイ・ドリーム・ビリーバーお聴きください」と紹介すると、生ギター刻みのイントロから曲が始まった。

そして、間奏になった。俯いてギターを弾いていた清志郎さんが、いきなり顔を上げマイクに近づいた。そして清志郎さんは怒鳴った。
「おめえら!!カップラーメンばっか喰ってると頭悪くなるぞー!! 」
「………えっ」

箸が右手から落ちた。次に茶碗が左手から滑り落ちた。最後に口からイカのリング揚げがぽろりと落ちて膝に乗った。頭が真っ白になるという表現は使い古された表現だけど、この時の状態はまさにそれだった。

「………(清志郎さん、今回のタイアップを喜んでくれなかったのか?)………」

翌朝、鈴木さんは一番の飛行機で大阪に飛んだ。
広告代理店からは非常召集がかけられていて、大会議室には専務を中心にエースコックのCMに関わる全てのスタッフが揃っていた。
鋭い視線を集めて攻撃にさらされたのは、鈴木さんただ一人だった。

当社がマネージメントしているわけでもないのに、その会議でボクは罵倒された。とにかく下請けに責任を押し付けたいのが一般企業である。
その後、エースコックに行ったが、ほとんど土下座だ。
でもね、常務の一言が胸に刺さった。

「この商品を開発するのに、社内は皆不眠不休でした。一食のカップラーメンで、お腹いっぱいになるようにと、お客さんに喜んで頂ける商品を作ったのです。忌野さんに私たちの気持ちが伝わらなかったのでしょうか………!! 」

ただただ頭を垂れたまま、常務の言葉を聞いていた鈴木さんは、トンボ帰りで東京に戻ると、東芝EMIに直行した。担当ディレクターは逃げてしまって、会社にいなかった。
当時の責任者で制作本部長だったのは、その後にユニバーサルミュージックの社長とワーナーミュージックの会長を歴任した石坂敬一氏だが、軽くかわされてしまった。

石坂さんはデスクの後ろから、貰い物のサントリーロイヤルを取り上げ、ボクに渡してこう言った。
「鈴木くん、なんとかしてね、よろしく!! 」
モアイのような顔を振りながら、石坂さんも部屋を出て行った。

タイマーズのライブが翌日、横浜国大で行われることを知った鈴木さんは、「とにかく清志郎さん本人と話がしたい」と思って、横浜国大に一人で乗り込んだ。
しかし楽屋口に行くと、東芝EMIのスタッフが大挙して並んでいて阻止された。

おそらく、鈴木さんが乗り込んでくることを社内の誰かから聞いていたのだろう。

受付に来意を告げると、当時の宣伝担当だったKがやって来た。その場で立ったまま、話が始まった。
「東芝としてはこの問題をどうクリアするつもりですか?!! 」
「いや、我々にも予想外だったから……… 」
「とにかく、清志郎さんから詫びのひとつでも頂けなけりゃ。小僧の使いじゃないんだし、俺も収まりつかないんですよ。会わせて下さい、清志郎さんに!! 」
「いや、そう言われても。今、清志郎さんに会わせる訳にはいきません!! 」

その言葉を聞いてボクは楽屋に届けとばかり、声を張り上げて叫んだ。「清志郎さん!!! 鈴木です!!!! エースコックの人たちは本当に 真剣に今回の企画を喜んでいたんです!! 何十年もインスタントラーメン一筋で頑張って来た たくさんの人たちが清志郎さんの一言で悲しんでいます。怒ってるんじゃありません。なんで? という気持ちなのです。どうか気持ちを汲んで下さい……………!! 」

東芝EMIのスタッフに取り押さえられた鈴木さんは、傘を振り回しながら、それでも楽屋の窓に向かってこう叫んでいたという。

「みんな清志郎さんのことが好きなんです。みんな、全社員が清志郎さんのテレビ出演を楽しみにしていたんですよー! !! 」
そこまででボクは当時の東芝EMI社員に、羽交い締めにされて表に放り出された。

この日のコンサートは立ち見が出る程、大盛況であった。鈴木さんは関係者のふりをして会場に紛れ込んだ。
するとコンサートの中盤で「デイ・ドリーム・ビリーバー!! 」が始まると、忌野清志郎がこう叫んだのだ。

イントロがはじまった。その時だ。
「エースコックの人たち!! それからスズキー!!!! ごめんよー!! 」

これで気持ちが救われた鈴木さんは、その後も忌野清志郎との仕事を続けている。

甘いかもしれない。だが、ボクはこの一言に感動してしまった。涙が出て来た。苦労してやってきた仕事で、事件まで起こってしまったが、やって良かったと心から思った。

鈴木さんは翌日、「ごめんよー」と叫んだライブの記録用ビデオを持って、大阪のエースコックに行った。常務にはその場で、「不問に付す」と言ってもらえたという。

発行部数がわずかに50部という「鈴木健士遺稿集」には、信じがたい徒弟制度が生きていた時代の古色蒼然たる芸能界や、テレビ界隈で働いていた頃の、ちょっと怖くなるようなエピソードがいっぱいだ。

とくに海外録音にまつわる話などは噂には聞いていたが、事実はこうだったのかと妙に納得がいった。

しかし自分の体験談ばかりだったので、どれも人間的で笑いがふくまれていて実に面白く、かつほろ苦かった。

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
「マイ・ラスト・ソング」では構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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著者:佐藤剛
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ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。

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