佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 108

Column

30周年を迎え、セルフプロデュースという新たな領域に挑んだマルシア

30周年を迎え、セルフプロデュースという新たな領域に挑んだマルシア

1989年1月21日に「ふりむけばヨコハマ」でデビューしたマルシア、今年はデビュー30周年を迎えた。
その節目になるコンサートが2月にビルボードライブ東京で、2回に分けて歌謡曲とミュージカルソングという、まったく異なる内容で行われた。
その時にマルシアが統一テーマに設定したのは、「Kick Off Live~私はどうしてここに?~」というもので、言葉のとおりに彼女の正直な疑問だった。

私はどうして日本に来たのか、もう一度、自分を初心に戻すという意味もありました。歌手としてスカウトされて、ブラジルからやって来たわけですが、ここがゴールではありません。これからも「私は歌手です」と胸を張れるような、前を向いた歩み方をしたいんです。

撮影 / コスガ聰一

この30周年イベントをきっかけにして、マルシアは自分の音楽のルーツをあらためてたどりながら、これまでの歌謡曲に限らず、日本の音楽文化を学び始めた。
そこから始まった新しい挑戦は、自分の歌いたい楽曲を作るところに、自分自身が関わっていくということだった。

日本とブラジルの架け橋になれたらいいな、それが音楽で実現できたらいいなと思っています。それが私の喜びです。

そうした流れの中で、最新ミニアルバム「真夜中のささやき」に収められた新曲のタイトルは「ALEGRIA(アレグリア)」となった。ポルトガル語で「喜び」という意味である。

ブラジルに生まれ育ったマルシアは、移民した日本人をルーツに持つ日系3世だ。
日常的に話す言葉はブラジルの国語であるポルトガル語で、基本的に日本語は全く話せなかった。
しかしブラジルにいたときには毎日の食事で、祖父母や両親とともに「いただきます」と「ごちそうさまでした」を口にしていたという。

知らず知らずのうちに、伝統的な日本の文化にも触れていたのだ。
母は歌手の美空ひばりが大好きで、1970年のコンサートでは、1番前で見ていたというエピソードが残っている。

だから私が生まれたときに、ひばりさんの本名からお借りして、私のセカンドネームを「かずえ」と名付けてくれたほどです。

歌が好きだった母が参加していた楽団の練習会があったので、マルシアは小さい頃から毎週一緒に通って、「しゃぼん玉」などの童謡を覚えていった。

その後のマルシアの生き方が決まっていったのも、歌謡曲という日本文化の影響だった。
ブラジルにカラオケブームがやってきたのは1980年代のことで、各地でカラオケ大会が開催されるようになった。
バスで10時間とか12時間かけて、マルシアは母に作ってもらった衣装とともに、各地の大会に行って参加して唄った。

その頃には日本から輸入された芸能雑誌の「平凡」や「明星」が買えるお店もできて、日系人のためのビデオレンタル屋もあった。
そこで日本の音楽テープを買って聴いたり、好きになった松田聖子のビデオを観たりしていた。

「8時だョ!全員集合」も観ていました。日本語の意味はわからないのに、面白さは伝わってくるんですよ。

テレビでは日本のいろんな歌番組が、日系人のために放送されていた。「夜のヒットスタジオ」「レッツゴーヤング」、久米宏と黒柳徹子が司会する「ザ・ベストテン」…。

NHKの紅白歌合戦も生放送で観ていました。リアルタイムの日本と触れ合える貴重な時間でしたね。

マルシアが高校生の時に出演したTBS歌謡選手権は、同じ町の代表が体調不良になって、本番の3日前にキャンセルしたために、急遽、彼女にバトンが渡ってきたものだった。 そんな偶然が、その後の運命を決めることになったのである。

練習も何もしておらず軽いノリで出たのに、それがなんと準優勝をいただけたんです。でもその時、感じたのは嬉しさよりも、悔しさでした。あともう少しで優勝だったのにと、人生初の悔しさを味わいました。

TBS歌謡選手権の優勝者には日本旅行が約束されていたが、マルシアはあと一歩で日本に行けなかった。

マルシアにはそこで初めて、「日本に行ってみたい」という気持ちが、強く芽生えてきたという。

そして翌年、今度はテレビ東京の外国人歌謡大賞のブラジル予選が開催され、見事優勝。

ブラジル代表として日本への切符を手にし、祖父とともに初めて日本の土を踏んだマルシアは、決勝大会で大好きな松田聖子の「チェリーブラッサム」を歌い、フレンドシップ賞に輝く。

これでもう自分の夢は叶った、と帰国したマルシアだったが、ここで奇跡的なことが起こった。

審査委員長としてブラジルに来た作曲家の猪俣公章が、マルシアを歌手として日本に連れて行きたいと、わざわざもう一度、ブラジルまでやって来たのだ。

今はわりと簡単に世界の情報が入る時代で、地球が小さく感じられますが、80年代当時はすべてが遠い。まして地球の反対側のブラジルから日本に行って暮らすなんて、考えもしませんでした。 でも逆にとらえれば、想像もできないほどの大チャンス。だからスカウトされたとき、思わず「はい」と答えました。

もちろん、移民としてブラジルに渡った祖父たちは、違う国に行って生きることがどれほど大変か、心配して反対した。
しかしマルシアは「私の人生だから、行かずに後悔するより、行って後悔したい」と説得し、日本にやって来たのだ。

当時17歳で若かったこともあり、怖いもの知らずで、夢にあふれていましたね。「弟子」という日本語の意味さえ知らないのに、猪俣先生のところに弟子入りしました(笑)。

それからは犬の散歩やお掃除、お料理をして、日本の礼儀作法をおぼえる毎日だった。
日本語がまったく話せなかったので、そうした生活のなかで日本語を叩き込んでいった。
師匠の猪俣公章は躾には厳しいが、具体的な歌のレッスンはしない人だった。
マルシアが内弟子生活に入る前にデビューした姉弟子の坂本冬美も、つきっきりで運転手をしながら修行していた。

人間として一人前にさえなれば、歌はもともと上手なのだから、あえて教える必要はないという考え方だった。

マルシアもノートに覚えたての日本語で歌詞を書きながら、日本語と歌を懸命に勉強していった。

日本でプロの歌手にするためにわざわざ自費で来日させて、自宅に住まわせいたのだから、猪俣公章の期待は大きかったはずだ。

猪俣先生がテレサ・テンさんを勉強しろとよくおっしゃっていたから、テレサさんの曲もノートに書いていて、それがきっかけで歌謡曲の世界に入っていきました。

外国から来て日本で最も成功している歌手の代表、それがテレサ・テンだった。

彼女も歌が上手だから不自然さはそれほど感じないが、日本語は話すこともあまりできなかった。
それから30年以上の歳月が過ぎて、マルシアは新しい一歩を踏み出したのだ。

曲を提供した宮沢和史は、2011年10月14日に沖縄コンベンション劇場てで催された「NIPPONIA~世界に響むニッポンのうた、ウチナーのうた」を主宰した際に、体調不良で休業していたマルシアに対して、歌手活動を再開するきっかけを作ってくれた恩人だ。

作詞した東京スカパラダイスオーケストラの谷中敦は、2016年のリオ・デ・ジャネイロ・オリンピックを盛り上げるために国際交流基金が主催したコンサートに、マルシアと共演して意気投合した仲だった。

どちらも音楽活動を通じて知り合ったソングライターで、アーティストである。
彼らを選んだのも、交渉して細部を詰めたのも、マルシア自身で、セルフ・プロデュースのかたちになったのも必然であったと思う。

この「ALEGRIA(アレグリア)」は、世界中の人にも歌ってほしい、という願いを込めて、マルシアがポルトガル語で作詞したヴァージョンもミニアルバムに収められている。

マルシアの楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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