佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 109

Column

16歳の山口百恵が歌った「朝日のあたる家」から聴こえてきたのは、ロックンロールとブルースのスピリットだった

16歳の山口百恵が歌った「朝日のあたる家」から聴こえてきたのは、ロックンロールとブルースのスピリットだった

1975年8月28日から31日まで、新宿コマ劇場で「第1回百恵ちゃん祭り」が開催された。
その模様は『百恵ライブ -百恵ちゃん祭りより-』として、その年の10月1日に2枚組のアルバムで発売になっている。

これが初めてのワンマンショーだということだったが、そのCDをようやく手に入れて聴いてみて、ぼくはその鮮烈さに驚かされてしまった。

第1部の『ブラック・エンジェル(黒い天使)』という舞台は、オールディーズとロックンロールによるミニ・ミュージカルだった。
オープニングの「ルシア」は黒人ロックンローラーのリトル・リチャードが1957年にヒットさせた「Lucille(ルシール)」で、強烈なロック・ビートが特徴である。

当日の曲順を列記すると、第1部は以下のようになっていた。

01. ルシア
02. 黒い天使のテーマ
03. バケーション
04. ロコモーション
05. 太陽の彼方に
06. ビキニスタイルのお嬢さん
07. スモーキン・ブギ/カッコマン・ブギ
08. 恋の片道切符
09. ルイジアナ・ママ
10. ダイアナ
11. ビーナス
12. 青春なんて
13. 思い出のグリーン・グラス
14. 朝日のあたる家
15. ハイウェイ・スター
16. 黒い天使のテーマ
17. 幸福はどこに

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのヒット曲「スモーキン・ブギ/カッコマン・ブギ」以外は、すべて洋楽のカヴァーである。
少女らしい弾けたポップスも多いが、なかには死刑囚のことを取り上げた「思い出のグリーン・グラス」も混じっている。
そして最も強烈な印象だったのが、娼婦に堕ちてしまった女性の悲哀を唄った「朝日のあたる家」だった。

1964年にイギリスのアニマルズがロック・ヴァ―ジョンでカヴァーし、全米1位の大ヒットとなって世界中に広まった「朝日のあたる家」の原曲は、詠み人知らずのアメリカ民謡である。

ブルース・シンガーの浅川マキは1971年に発売したアルバム『MAKIⅡ』で、原曲のニュアンスを生かした日本語詩のライブ・ヴァージョンを発表した。
それをきっかけとして本来の歌詞が、日本でも音楽ファンの間に少しずつだが浸透していった。

「朝日のあたる家(朝日楼)」
 作詩:浅川マキ 作曲:アメリカ民謡

私が着いたのは ニューオーリンズの
朝日楼という名の 女郎屋だった
愛した男が 帰らなかった
あの時 私は 故郷(くに)を出たのさ

誰か言っとくれ 妹に
こんなになったら おしまいだってね
私が着いたのは ニューオーリンズの
朝日楼という名の 女郎屋だった

さすがに『ブラック・エンジェル(黒い天使)』という舞台で、16歳の山口百恵がこの歌詞をそのまま唄うのは無理だったのだろう。
だが、物語の流れに合わせて訳詞された歌のニュアンスは、原曲に依拠していたと思う。

その歌からはまだ幼さが残る声ではあっても、ロック・スピリットに支えられたかのように、力強いヴォーカルが伝わってきた。
上手な歌ではないし声も幼いのだが、凡庸な歌手とは明らかにものが違う。

ほんとうの表現者ならではの訴える力が、痛いほどに突き刺さってきたのである。

ライバルと目されていた桜田淳子が天使のイメージで、ファンタジーの世界を生きていた時、山口百恵はリアルな現実を唄って実力を蓄えていたのだ。

ちなみに「黒い天使」というテーマにしても、タイトルに「天使」という言葉をたびたび使っていた桜田淳子を意識したスタッフたちが、反語的に思いついた発想だったらしい。

どこかちょっと影があって、明るい個性ではないところを、逆に打ち出していこうとしたのだから、本人も同意の上だったのだろう。

山口百恵はデビュー曲でつまずいたあと、セカンド・シングルの「青い果実」がヒットして軌道に乗った。
これはCBSソニーのプロデューサーだった酒井政利の判断で、大胆な売出し作戦の変更が功を奏したからだ。

最初に与えられた純情な楽曲の「としごろ」が売れなかったことによって、山口百恵は過激な“青い性典” 路線にシフトして、そこから個性が発揮されるようになったのだ。

「性」をテーマにした内容の歌を中学生に唄わせることは、その当時の一般社会においては禁忌(タブー)である。
常識的に考えれば「青い果実」のような歌を、義務教育の中学生が唄うことがあってはならないことだった。

だが酒井は確信犯としてタブーを破り、山口百恵にあえて挑戦させることにした。

彼女が引退後に発表した自伝には、そのときの心の動きが描かれていた。

「こんな詩、歌うんですか」
言ったか言わなかったかは、さだかではないが、口に出さないまでも、気持ちは完全に拒否していた。

皆と違うように見られたら――-幼い恐怖心と防御本能が私をためらわせた。

そうはいっても私の躊躇など、ビジネスのシステムの中では何の意味も持たず、結局スタジオへ連れて行かれ、ひとりきりの世界へ閉じ込められてしまった。ヘッドフォンから流れてくるその歌のカラオケ、それに合わせて仕方なく歌った――つもりだったが、何故だかメロディーに乗せて歌ったとたん、さっきまでのためらいはすっかり消えていた。こんな歌――と思い悩んだ時から数時間しか経過していないというのに、私はその歌がとても好きになっていた。
(山口百恵・著 残間里江子・編「蒼い時」集英社)

歌謡曲という誰にも開かれた場において、「性」にまつわる不安や期待をテーマにした楽曲を投入し、それを中学生に唄わせた例はそれまでなかった。

だから、これは日本の音楽史における最初の試みとなった。

過激ともいえる楽曲に挑戦するしかなかった14歳の山口百恵は、大人たちに反発する気持ちを忘れて、楽曲のイメージのまま唄って表現することに徹した。

そして「青い果実」をレコーディングしたことによって、それまで知ることのなかった自分の心の深部を、初めて発見したという。

まわりの大人たちたちに与えられた試練から逃げなかったことで、個性的なヒット曲が誕生し、彼女をとりまく状況が大きく変わっていく。

しかも意外なことに同世代の女の子たちからも、静かな共感を得ることができたのだった。
そう考えると歌と音楽と表現者の間には、不思議な関係が生じていたことがわかってくる。

彼女はこれを契機にして、異性をファンの対象にしてきた女性アイドル歌手にはない、「性」を超えた存在として注目されることになった。

そのようにして表現者の道を歩み始めた山口百恵が、ロックンロールとブルースに取り組んだのが、『ブラック・エンジェル(黒い天使)』だった。

とにかく隠すことが多すぎる芸能界のなかで、山口百恵はいつも自分というものを隠さなかったし、またマスコミに媚びたりもしなかった。

芸能人らしくないといわれたその真摯な態度の原点には、音楽としてのロックンロールとブルースのスピリットが息づいていたのだろう。

なお、ここでカヴァーした日本語のブギーを書いた宇崎竜童との出会いが、数カ月後にレコーディングする代表曲の「横須賀ストーリー」にまで、そのままつながっていることも見逃せない。

山口百恵にはジャンルにとらわれず、音楽を受容する力があったのだ。

山口百恵の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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