佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 110

Column

深田太郎氏の「「歌だけが残る」とあなたは言った わが父・阿久悠」を読了し、明治大学の阿久悠記念館に行ってきた

深田太郎氏の「「歌だけが残る」とあなたは言った わが父・阿久悠」を読了し、明治大学の阿久悠記念館に行ってきた

無骨で不器用だったロックバンド「モップス」のリーダーで、20代後半から俳優や司会として活躍した鈴木ヒロミツが、癌のために逝去したのは2007年の3月14日だった。享年60。

その訃報を知った阿久悠もまた、当時は癌との闘病で入院中の身だったので、通夜にも葬儀にも行くことが叶わなかった。
そのことが自分の中では悔いになったのだとして、こんな文章を書き残している。

その昔を知らない人のためにぼくは断言する。鈴木ヒロミツはロック歌手だったのだ。
(阿久悠「昭和と歌謡曲と日本人」河出書房新社)
 

阿久悠がプロの作詞家として正式に頼まれた最初の仕事は、モップスのデビュー曲になった「朝まで待てない」をふくむ、3枚のシングル用に書いた6曲であった。
それらのオリジナルが収録されたファースト・アルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』は、アニマルズなどの洋楽をカバーした6曲とともに、1968年4月に発売された。

そのアルバムを赤ちゃんの時に子守唄のように聴いて育ったのが、長男だった深田太郎氏である。
1965年生まれなので、2歳から3歳にかけての記憶ということになる。

そのことが7月に上梓された深田氏の著書「「歌だけが残る」とあなたは言った わが父・阿久悠」のなかで、このように書かれてあった。

子守唄というのは少々オーバーだが、この体験が私の一番古い音楽の記憶であることは間違いない。たしかLPレコードではなくオープンリール・デッキで聴いていた気がする。まだレコード発売前だったのだろう。
父曰く、私はこのアルバムの中の「孤独の叫び」というアニマルズのカバー曲をよく真似して大声で歌っていたらしい。ボーカルの鈴木ヒロミツ氏の声は、幼い私には獣の咆哮のように聞こえていたのではないだろうか。
(深田太郎「「歌だけが残る」とあなたは言った  わが父・阿久悠」河出書房新社)
 

阿久悠は1955年の春に生まれ故郷の淡路島から上京し、明治大学文学部に入学した。

その頃に出会ったのが、アメリカで猛威を奮っていたロックンロールだった。

東京という都会に出てきて最初に出会った流行が、ロックンロールだったことの意味は大きかったという。
そこから受けた影響について、阿久悠は以下のように文章化している。

僕より二、三歳上の人たちと話すと、ロックンロールの登場それほど大きな転換期だとは解釈していない人が多いようだ。僕自身、ロックンロールが流行ったからといって、決して演奏する側に行こうとは思わなかったが、それでも出会いの衝撃がその後の道に少なからぬ影響与えたことは確かだった。毎年毎年何かが起こる。その何かを突き抜ける風と受けとめるか、突き刺さるナイフと感じるか、それは世代の感性なのだ。
(深田太郎「「歌だけが残る」とあなたは言った  わが父・阿久悠」河出書房新社)
 

阿久悠にとってのロックンロールは、大人社会の決まりごとに反抗し、古くからの権威や慣習を叩くというイメージと重なっていた。

それから10年後、モップスのために作詞の仕事を頼まれたときに意識したのは、「若者はいつも拒絶される」という思いだったという。
孤独な若者が世間という大きな力に立ち向かおうとする気持ちを、阿久悠は世代の感性として歌詞に落とし込もうとした。

「朝まで待てない」

作詞:阿久悠 作曲:村井邦彦
あきらめ 捨てた筈なのに
恋は眠りを 忘れさせる
闇に向って お前の名を呼ぶ
今すぐ逢いたい  朝まで待てない

あきらめ 捨てた筈なのに
胸がつぶれて ひとりの辛さ
かみしめながら お前の名を呼ぶ
今すぐ逢いたい 朝まで待てない

モップスのデビュー曲になった「朝まで待てない」について、深田氏が著書のなかで亡き父に代わって、こんなふう述べているところがぼくには強く印象に残った。

私は、父の作詞家デビューがグループ・サウンズのザ・モップスであることを誇りに思っている。父もそうであったに違いない。父は必ずしもロックそのものに興味があった人ではなかったが、一九六七年という時代の、若者の切迫感をちりばめた「朝まで待てない」は充分にヒリヒリとするロックであった。ここには反逆がある。拒絶がある。焦燥がある。飢えもある。そして「俺はここにいる」という父の孤独の叫びが今でも痛いほどに聞こえてくるのだ。
(深田太郎「「歌だけが残る」とあなたは言った  わが父・阿久悠」河出書房新社)
 

反逆、拒絶、焦燥、そして「俺はここにいる」という孤独の叫びこそ、阿久悠にとっての作詞の原点だったことが、文章からはっきり伝わってきた。

ちなみに1966年4月15日にリリースしされた『ザ・スパイダース・アルバムNo.1』は、彼らの記念すべきファースト・アルバムである。
これは日本で最初のロック・アルバムだと、近年になって評価されるようになってきた。
そこに収録された全12曲の中にはシングル「フリフリ」のB面曲で、放送作家だった頃に書いた「モンキー・ダンス」が「ミスター・モンキー」と改題されて、「ロビー・ロビー」の2曲とともに阿久悠による作詞としてとしてクレジットされている。

だが本人はプロの作詞家として書いたのは、「朝まで待てない」であったと明言していた。

ロックを必要とする時代に若者たちの思いをバンドの歌詞に託したという意味で、阿久悠こそは日本で最初のロック詩人であったとも言えるのではないか。
ぼくは若い頃の父を思って書いた深田氏の著書を読んで、日本の音楽史における新たな発見をした気持ちになった。

そこで久しぶりに東京の駿河台にある明治大学に常設の、「阿久悠記念館」に足を運んで直筆原稿などを見てきたが、いつ訪ねても心が落ち着く空間であったことに安心した。

「歌だけが残る」と、あなたは言った――わが父、阿久悠

深田太郎(著) / 河出書房新社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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