シミルボンの本棚  vol. 6

Column

【『映画 聲の形』を観て(1)】涙が映しだす世界

【『映画 聲の形』を観て(1)】涙が映しだす世界

要約

山田尚子監督のアニメ『映画 聲の形』は、二時間の尺で原作七巻分のエッセンスをほぼ損なうことなく表現することに成功している奇跡的な作品である。エピソードやシーンの入れ替えが繊細なバランスでおこなわれているが、ここでは将也が流す涙に注目してみよう。それはひとつのモチーフではあるが、ほかのイメージと響きあって、作品全体をひときわ鮮やかに引きたたせる。

原作を活かしながらアニメとしての表現に

『映画 聲の形』は、大今良時のマンガ全七巻を二時間のアニメにまとめている。


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聲の形 1卷

大今 良時(著)
講談社
週刊少年マガジン



ストーリーをダイジェストしたり、シーンを無機的に切り落とすのではなく、原作が内包するものをみごとに映像表現に乗せているのが驚きだ。エピソードのつながりを組み替えたり、あるエピソードのなかのシーンを別なエピソードへと移動させたり、大胆に手を加えているのだが、作品全体を通して観ると原作どおりの印象を受ける。
 私自身にとってなじみやすい喩えでいえば、誠意と超絶技巧に基づく翻訳のようなものだ。小説作品をある言語から別な言語へと翻訳するとき、単語が並んでいる順番をそのまま移し替えることはない。とくに英語と日本語のように文法構造が異なる場合は、思いきった入れ替えをしないと自然な言葉にならない。名翻訳家ともなると、ときには文章単位どころか、センテンス単位、あるいはセンテンスをまたがって単語の位置を変えたり、原文が一語で担っていた意味を文脈で表現したり、自在なテクニックを用いる。作品全体として同じ内容、同じ印象が伝われば良いのだ。『映画 聲の形』もそれに似ている。
 原作はあくまで素材にすぎず、アニメは自分の好きなようにつくるというクリエーターもいるが、山田尚子監督はそうではない。原作の持ち味を損なわないように繊細な心遣いをする。それでいて、まちがいなく山田尚子ならではの作品に仕上がっているのが素晴らしい。
 彼女がこれまでにつくったすべての作品の根底にあるのは、現在と生を肯定するたおやかな姿勢だ。顔をあげてみれば、世界は美しく、人生は輝いている。山田尚子はそれはメッセージや思想としてではなく、ありありとした実感として伝えてくれる。

将也と硝子――互いを対照する存在

『聲の形』は、高校三年生の石田将也がかつての同級生、西宮硝子に会いにいくところから幕を開ける。将也は小学六年のとき、聴覚障碍を持つ硝子に度を越した仕打ちを繰り返し、それが原因で彼自身がクラスのつまはじき者になってしまった。それ以降、将也は心を閉ざして友人もつくらぬまますごしてきた。彼が硝子に会いに行ったのは、自分の人生に幕を引くためのステップ――いわば過去の清算――だった。しかし、硝子に会ったことで将也の運命が変わる。自罰的な気持ちはそのままだが、硝子のために尽そうと考えるようになったのだ。
 原作でもアニメでも後半にさしかかるまではほぼ将也の視点で物語が進むので、硝子がどう考えているかははっきりとわからない。読者も将也と同様、彼女の反応からその内面を推測するしかないのだが、しだいに硝子も硝子なりの事情で自罰的な思いを抱えていることが明らかになる。
 外形的なところばかりを見て、扱われているのが障碍やいじめの問題だと捉えてしまうと、この作品の特質を見失う。じつは私がいまさら指摘するまでもなく、原作者の大今さんが「人と人が互いに気持ちを伝えることの難しさ」を描こうとしたと証言している(『聲の形 公式ファンブック』)。すなわち、より普遍的で、私たちひとりひとりにとって切実なテーマだ。山田監督も、原作者のこの意図を深く汲みとったうえでアニメ化に臨んでいる。


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聲の形 公式ファンブック

大今 良時(著)
講談社
週刊少年マガジン



作品の動きに沿って観れば、硝子と将也はいじめの元被害者と元加害者の関係ではなく、対照的・並行的な存在である。ともに、解消しようにも解消しきれない同型の問題を抱えている。アニメ版では、高校生になった将也が硝子に二度目に会ったとき、手話で「友だちの意味を考えていた」と伝えると、硝子が「私も同じことを考えていた。おかしいね」と返事をする。このような場面が、原作でもアニメでも何度か描かれている。
 物語のクライマックスで、硝子は将也によって命を救われる。
 そして、将也もまた、硝子に命を救われているのだ。彼女に再会する前は死ぬつもりだった将也は、彼女の対応によって(あるいは彼女という存在そのものによって)思いとどまるのだから。

ラストシーンに集約された涙

先ほどアニメは二時間の尺にもかかわらず原作七巻とほぼ同じ印象を与えることに成功していると述べたが、もちろんエピソード単位でみれば省略はある。たとえば、将也が高校ではじめてできた友人の永束とつまらないことで喧嘩をしてしまうくだり。ふたりがこづきあいになったところを硝子がとめる。身体ごと割って入ってきた彼女に、将也と永束は思わず手をとめる。硝子はまず永束に向きあい、それから将也の顔を見つめてふたりをたしなめる。その表情が、どんな言葉よりも深く彼女の気持ちを伝える。この作品で、ぼくが大好きな場面のひとつだ。
 将也も永束もわだかまりは残っているのだが、もうそれ以上、硝子を悲しませたくはないので、お互いに矛を収める。そのうちほかの仲間が集まってきて永束が撮っている映画の作業がはじまり、将也も自然な流れでその輪に入ってしまう。ふだんどおりの日常風景に、将也は「すげーくだらないことでケンカしたのかも」と思い、自分でも気づかぬうちに涙を流す。それを指摘されて、「くだらないことでケンカ出来る相手がいるのが嬉しかったのかもしれない」と独白する。
 些細なことだが、小学校を卒業して以来ずっと心を閉ざしていた将也にとって、これは画期的な涙だった。
 アニメ版では、この喧嘩のエピソードはまるごとなくなったが(そもそも永束の映画制作がない)、将也が涙を流すシーンは物語のしめくくりに活かされている。
 そればかりではない。原作では将也が涙を流すところがたびたびあるのだが、アニメではそのすべてがラストシーンに集約されているのだ。アニメの将也は小学校で孤立して以来ずっと泣けないままでいた。細かくいえば、アニメで将也が涙を流すのはストーリーの時系列の最初期、まだガキ大将だった将也が退屈のあくびをしたときと、ラストでそれまで閉ざしていた気持ちを解放し、周囲の音に耳を傾け、顔をあげて世界を眺めたとき感極まって泣きじゃくったとき、このふたつの場面のみである。
 いっぽう、アニメの硝子は原作以上に涙を流す。たとえば、再会した将也に手話で「俺と西宮、友だちになれるかな」と伝えられ、涙を浮かべている。ふたりの再会シーンは原作にもあるが、このタイミングでの涙はアニメにしかない(※1)。それに見た将也が「泣かないでよ、西宮」と言う。これはアニメ版におけるひとつのキーワードとなっている。
 将也は、自分が硝子の幸せだったはずの小学生時代を奪ってしまったと後悔しつづけている。子どもだった当時のふたりのかかわりにおいて最大の山場はとっくみあいの喧嘩だが、そのシークエンスのはじまりに、将也が声をかけて硝子が振り返るシーンがある。実際には硝子はただこちらへ顔を向けるだけだが、のちに描かれる将也の回想ではこのとき硝子は涙を浮かべている。『映画 聲の形』の本予告にも使われているシーンである(開始から43秒、「きみに生きるのを手伝ってほしい」の台詞の部分)。将也は意識のなかで、硝子を泣かせたのは自分だと思いつづけているのだ(※2)。  硝子に再会したあとの将也は、そうした過去を償おうとあがきつづける。硝子が泣くようなはめにならないように、できるかぎりの努力を傾ける。将也はほんらい他人に対して優しい人間だ(それは彼の家族や仲間たちへの対応をみればわかる)。しかし、硝子を気づかうあまり、また自分を責めるあまり、硝子が抱えこんでいる気持ちにふれることができない。そして自分たちが抜けだせずにいる問題をありかがわからない。
 将也にとって必要なのは、硝子を泣かせないために努力することではなく、彼自身を過去の桎梏から解くことだった。ずっと心を閉ざし泣くことすら忘れていた彼が、世界にむかって自分を開いていく。それが山田監督がラストシーンに涙を集約した意味だろう。

 ※1 原作でも硝子は涙ぐむがそれは将也のメッセージにではなく、彼によって届けられた古いノート[それにまつわる記憶]に対してだ。
 ※2 両シーンは「映画『聲の形』ロングPV」で比較できる。

 ○実際にあった場面は、開始から2分10秒
 ○将也が回想する情景は、開始から2分15秒
そして将也が涙を流すラストシーンもこの「ロングPV」で確認できる(開始から2分22秒)。ただし、ここの映っているのはシーンのはじまりにすぎない。
なお、ロングPVも本予告も、そのほかのプロモーション映像とともに、公式サイトのこのページ(http://koenokatachi-movie.com/trailer/)にまとめられている。

イメージの置きかた、水滴に映った世界

ラストシーンの涙に照応するかのように、アニメの要所要所で雨粒や水面に広がる波紋が印象的に描かれている。イメージを置いていく巧さも山田尚子作品の大きな特長だ。これみよがしの意味性や、読解を要求するような強い象徴ではなく、作品の流に沿うような自然さで観る者の印象にさりげなく染みていく。それはいちいち意識しないでもかまわない。記憶のバックグラウンドとなって、作品全体の印象を引きたたせる。
 それを承知であえていえば、アニメの最初と最後にあらわれる光の粒は、雨/涙の形象かもしれない。アニメに実写的手法を巧みに取りいれ、ご本人が写真撮影もおこなう山田監督にとって、この点光源(a spot of the light)のイメージが、すんなりと脳裏に浮かんだのだろう。また、偶然か意図的かはわからないが、アニメの主題歌である「恋をしたのは」(作詞・作曲:AIKO)にも〔落ちる雨に映る二人〕という一節がある。
 水滴に映るのは、彼自身と硝子。そして美しい世界のすべて。

(牧眞司)

©大今良時/講談社

 

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