ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 2

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突然変異のようにリヴァプールから躍り出たFab Four~新しい音楽の歴史を作っていく4人の出会い

突然変異のようにリヴァプールから躍り出たFab Four~新しい音楽の歴史を作っていく4人の出会い

第1部・第1章

英語圏の国でビートルズは、Fab Four(ファブ・フォー)とも呼ばれていた。Fabはfab=fabulous、すなわち素晴らしいという意味である。「伝説の」とか「神話の」とか、「信じられない」という意味もあるという。そしてその言葉の通り、Fab Fourが作った音楽は信じられないほど素晴らしいもので、登場した時からすでに伝説的な存在だった。

音楽を聴くときのマナーがいくつかあるとして、ビートルズを聴くときには、そんな決まりごとは無視してもかまわなかった。ビートルズの歌や演奏に反応し、心と身体が命ずるまま、一人ひとりが自由に振る舞えばいい。大人が決めたルールに従わなくてもいいのだと、ビートルズは身を持って教えてくれた。

彼らが音楽シーンに与えた影響は過去にあった何とも比較することができない。世界の音楽史をたどってみれば、ビートルズが金字塔を打ち立てたことは歴然としている。彼らの音楽は国境や言語、イデオロギーといった障壁を乗り超えて、世界中の若者や子どもたちにメッセージとなって届いた。それは自分たちで好きなように歌ったり、体を動かしたり、叫んだりしてもいいのだという、実にシンプルなメッセージだった。

短期間で世界的な成功を収めた後も、ビートルズはしばしば人前で、悪ガキのように振る舞うことがあった。世間的な常識にも平気で逆らったり、ときには茶化したりしながら、権力やモラルに対抗した。

どうして彼らはそのように生き生きとした若さを振りまいて、自由を感じさせる行動をとることができたのか。

ビートルズのメンバーたちは全員が第二次世界大戦の戦火の中で生まれ育っている。ジョン・レノンとリンゴ・スターキーが1940年、ポール・マッカートニーが1942年、ジョージ・ハリスンが1943年と、いずれも戦時中にこの世に生をうけた。

彼らが生まれた港湾都市のリヴァプールは、たびたびナチスドイツの空襲に遭って、大きな被害を受けてきた。そして戦争が終わった後も、復興は思うようにはかどらず、ロンドンに比べると発展から取り残された。経済的恵まれない期間が、その後も長く続いていった。

そんな時代と地域に生まれ育ったことで、彼らは戦争によってもたらされた不幸と、戦後の大人たちの苦しみを知っている子どもたちだった。戦争で傷ついたり、命を落とした人が、身近なところにいたのである。幼いころに思うようにかまってもらえなくて、親の愛情に飢えている少年たちも少なくなかった。

ジョン・レノンの両親はイギリスの勝利を願って当時の英国首相、ウィンストン・チャーチルの名からジョン=ウィンストン=レノンと名づけた。しかし船乗りであった父親は家庭をほとんど顧みず、育児放棄した母親は経済力のある姉夫婦に息子を預けて、一人暮らしをしていた。

子供の頃から孤独だったジョンは1956年にエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」をラジオで聴いて、そこからロックンロールに目覚めている。そしてギターを手に入れると、ザ・クォリーメンというスキッフル・バンドを結成した。

スキッフルとはギターを中心にして、ドラム代わりの段ボール箱、パーカッション代わりの洗濯板など、ありあわせの楽器を演奏して歌う音楽である。誰にでも演奏できる手軽さが受けて、イギリスでは若者たちの間で人気を集めていた。

同じ頃にジョンは母親のジュリアが近くに住んでいることを知り、会うようになって仲良くなる。だがジュリアはそれから2年後、家の前で自動車に轢かれて死亡してしまう。さらに孤独が深まったのは言うまでもない。

 

ポール・マッカートニーはバンドマンとして活躍したこともある父と、看護師であった母との間に生まれている。乳ガンに罹った母が急に亡くなったのはポールが14歳のときだった。母の死による悲しみをまぎらわすためギターに熱中したポールは、ラジオから流れてくるアメリカのロックンロールを聴いて、それをカヴァーして歌うのに夢中になった。

友人からクォリーメンの出演するパーティに誘われたポールは、ジョンと出会ってバンドのメンバーに加わることになった。ともに思春期に母を失くしたジョンとポールは、一緒にギターを奏でながら歌うことで、無意識のうちに生きている証を確かめていたのかもしれない。だから彼らの歌声と演奏は自然と弾けるものになり、強い生命力を放つようになっていった。

ポールの相棒的な存在だったジョージ・ハリソンをギタリストに加えて、クォリーメンは1958年からリヴァプールのクラブなどで活動し始めた。クォリーメンはバンド・メンバーの離合集散を経て、1960年4月にステュアート・サトクリフがベースで参加、「シルヴァー・ビートルズ」と名乗った。6月にバンド名は「ザ・ビートルズ」となり、8月上旬にはドラマーとしてピート・ベストが加入する。そして5人のメンバーでドイツのハンブルクに遠征したのだった。 

そこでは2つのクラブと長期契約して3ヶ月間以上、毎晩8時間から10時間にもおよぶステージをこなす仕事が待っていた。しかし音楽ではなく酒を飲みにクラブへ来る客、つかの間の享楽を求めて歓楽街へ繰り出した連中を相手にパフォーマンスを重ねたおかげで、バンドとしての演奏力と持久力を高めていった。ハンブルクにおけるさまざまな出会いは、彼らを表現者としても成長させていくことになった。 

ジョン・レノンが「俺たちを育ててくれたのはリヴァプールじゃなくて、ハンブルグなんだ」と言ったように、ハンブルクは単に無名時代の活動の場ではなく、ビートルズが名実ともに誕生した場所となったのだ。彼らのトレードマークとなる「モップ・トップ」と呼ばれるヘアスタイルは、カメラマンの友人のアイデアだった。後にドラムを担当するリンゴ・スターと対バンになって、セッションを行ったりもしている。

最初の遠征でサトクリフはハンブルクに残り、アートの道へと進むことを選んだ。そこでリヴァプールに戻った後からは、ポールがベースを担当することになる。ビートルズは1961年に再びハンブルクに行き、今度は「トップテン・クラブ(Top Ten Club)」に出演した。そしてトニー・シェリダンのレコーディングに呼ばれて、「ビート・ボーイズ」の名前でバックを務めるまでになった。それがシングル盤「マイ・ボニー」として発売になったのである。

ビートルズは1962年の春にも3度目のハンブルク遠征で「スタークラブ(Star Club)」に出演し、残るは自作曲でのレコード・デビューだけとなった。そしてリヴァプールに戻る直前に、EMIのパーロフォン・レーベルからデビューが決まりそうだとういう電報を、マネージャーのブライアンから受け取ったのである。

6月6日にはロンドンのEMIスタジオで、デモ・テープ録りのためにレコーディングが行われた。だがパーロフォンの責任者だったプロデューサーのジョージ・マーティンは、ドラムのピート・ベストの技量について、ブライアンに危惧していることを伝えた。それをきっかけにビートルズの3人とブライアンは、ピートを外して新しいドラマーを迎え入れることを決める。

そこで白羽の矢が立ったのが、旧知の仲間だったリンゴ・スターである。ジョンと同じ1940年生まれのリンゴは、リヴァプールでも最も貧しい地区で生まれ育った。幼い頃に両親が離婚したので、母と継父に育てられたが体が弱くて入院生活が長かった。小学校にもほとんど通えなかったほどだったというが、継父にドラムセットを買い与えられたことで急に世界が開けて。先天的な才能を発揮してリヴァプールではトップの腕前を持つドラマーになった。

その年の2月、体調が悪くてピートがステージに立てなかった日、ジョンはリンゴに連絡を入れて代役でドラムを叩いてもらった。ビートルズの3人はそこでセッションした経験から、リンゴが加わることによってバンドに表現の可能性が大きく広がると考えたのだ。 

これでFab Four(ファブ・フォー)、素晴らしい4人が揃うことになる。そして新しい音楽の歴史が始まっていくのである。

(注)ビートルズを辞めてハンブルクに残ったステュアート・サトクリフは、1962年の春に21歳という若さで脳出血のために亡くなった。

→次回は11月3日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

The Beatles

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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