シミルボンの本棚  vol. 7

Column

【『映画 聲の形』を観て(2)】イメージの共鳴

【『映画 聲の形』を観て(2)】イメージの共鳴

要約

『映画 聲の形』は、独特な映像的想像力の作品である。美しい世界のふたつの領域「川」と「空」、また両者を結びつける“映りこみ”と運動性について、作品のディテールを注目しながら観てみよう。作品を貫いて泳ぐ「鯉」、将也と硝子の関係の節目にひっそりとおかれた「飛行体」というモチーフにもふれる。


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小説 映画 聲の形

川崎 美羽/吉田 玲子(著)
講談社



はじまりの「再会」とクライマックスの「邂逅」の呼応

 前回の記事で〔イメージを置いていく巧さも山田尚子作品の大きな特長だ〕と述べた。『映画 聲の形』でそれがどうおこなわれているか具体的にあげていくと、それだけで本を一冊書かなければならない。こんかいの記事は、その準備運動といったところです。
 この作品のクライマックスでは、意識を取り戻した将也がもつれる足で病院を抜けだし、「いつもの橋」の上でうずくまっている硝子を見つける。硝子は耳が聞こえないが、将也が欄干に手をついたその振動を感じ、顔をあげる。
 このシーンは、将也が硝子と再会した序盤シーンと響きあう。将也が手話教室をはじめて訪ねたとき、逃げだした硝子は廊下にうずくまってしまう。追いついた将也が手すりに強く手をふれ、その響きを感じて硝子が顔をあげる。これと同じシチュエーションが、この作品のクライマックスである橋の上の邂逅で再現されているのだ。
 また、将也が硝子にはじめて示した手話は「忘れもの」だった(筆談用ノートを渡したシーン)。いっぽう、クライマックスでは自分の気持ちを伝えようとした将也がつい硝子の手を握ってしまい、そのあとハッと我に返って「ああ、キモイことやっちゃったな、忘れて」と言っていう。もちろん、これは反復などではないので、文芸批評的な深読みをしてもしかたがない。たんに「忘れる」という言葉が同じだけだ(しかも前者はlost、後者はforgetで意味内容は異なる)。しかし、将也と硝子の関わりあいにおいて登り口と到達点に立った「標識」のようである。

豊かな「川」と澄みきった「空」

 こうしたイメージの置きかたが効果的なのは、小手先のテクニックではなく、まず作品世界がきわめて精緻であり、その全体のなかに個々のイメージがしっくりとなじんでいるからだ。
『聲の形』は、原作者の大今良時さんが暮らしていた大垣市を舞台としている。アニメ化にあたって山田尚子監督はこの町を何度も取材し、湧き水と水草の美しさに魅せられたそうだ。京都アニメーションの制作陣は、それを豊かに鮮やかに描きだすことに成功した。


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聲の形 1卷

大今 良時(著)
講談社
週刊少年マガジン



 ヒロインの硝子は、毎週火曜日に水門(すいもん)橋の上から鯉に餌(パン)をあげている。この橋は大垣市内に実在する美登鯉(みどり)橋がモデルだ。将也は硝子に会うためしばしばそこへ行くし、やがてほかの仲間もやってくるようになる。この「いつもの橋」橋は、その下に流れる川も含めて、物語のメイン舞台といってよかろう。
 ストーリーの背景だけにとどまらず、『映画 聲の形』では水の流れや波紋、揺れる水草、泳ぐ鯉のイメージが随所に用いられている。そうした表現は原作にも認められるが、アニメでは場面が転換するときにブリッジ的にインサートされるなど、いっそう効果的に扱われている。
 『映画 聲の形』で、川のイメージと並んで特筆すべきは、美しい空の描写である(※1)。たとえば冒頭、まだ硝子に会う前、将也が歩いているシークエンス、さらに硝子と再会したのちに友達の意味を考えつづけ迷っているあいだ。彼の背景にあるのは、澄みきって透明感のある青空だ。
 アニメ公開に先立ってテレビ放映された特別番組『映画「聲の形」ができるまで』によれば、もともと背景には雲が描かれていたが、山田尚子監督の判断で取りさった。山田さんは「将也は自分で自分を閉じこめてしまっているが、それを取りまく世界にまで塞ぎこんでみえるのはイヤだった」と語っている(※2)。登場人物たちが悩んでいるときでも世界はあくまで美しい。それが、生きゆく現在を肯定する作品をつくりつづけている山田監督の考えかたである。

 

※1 さらに『映画 聲の形』では季節ごとの草木も美しく、印象的に描かれている。
 ※2 『映画「聲の形」ができるまで』開始から10分08秒。

「空」を映しこむ「川」

 「川」も「空」も美しいが、『映画 聲の形』で両者はいくぶん違った扱いをされているように思う。「川」は橋の上から俯瞰されたり水中の情景だったり、あるいは流れや光の反射、波紋や泡なども含めて多彩な表情があり、そのイメージに多義性を内包している。
 いっぽう、「空」はつねに世界のうえに大きく広がっており、そのイメージはむしろ意味づけなど不要な絶対性だ。
 にもかかわらず、「川」と「空」は隔たった別個の領域ではない。
 観念論・象徴論的に見立てれば、下方にある「川」は過去=無意識であり、上方にある「空」は未来=理想だと捉えることも可能だ。そうした尺度による解釈もまったくの無駄ではない。しかし、最終的にそうした二分的な図式に収まらないのが、『映画 聲の形』の想像力であり山田尚子というクリエーターの感性である。
 この作品では、しばしば「川」は「空」を取りこむ。水面は空の色を映し、川底から水面方向を見あげるように撮ったシーンはまるで気相のようだ。「空」を映す「川」と相即的に、作中のさまざまな局面に“映りこむ”描写がひっそりと、しかしアクセントをもってなされている。たとえば、机の表面に映った筆入れとシャーペン、磨かれた廊下に反射した人影。

落下する身体と上昇する花火

 “映りこみ”に加えて、「川」と「空」をダイナミックに結びつける運動がこの作品を貫いている。
 『映画 聲の形』の冒頭、点光源(a spot of the light)、波紋、泳ぐ鯉のイメージにつづき、美しい春の情景のなかを歩いて行く将也の姿が映しだされる。彼は硝子に会いに行くところで、それを区切りとして自分の人生に幕を引くつもりなのだ。高い鉄橋をわたりかけたところでしばし立ちどまり、手すりの上から静かに身を投げる自分を想像する。その想像をかき消したのは、橋の下方の川原から打ちあげられた花火だった。
 花火はそこらで売っている玩具花火で音もたいしたことがなく、昼間なので光もさほど目立たない。しかし、将也の想像が静寂のなかにあったため、彼はいっきょに現実へ引き戻される。
 身を投げる将也は垂直に落ち、打ちあげられた花火は垂直に昇る。落下と上昇。このシーンでは動きが交叉する。カメラのアングルは、空をバックにした将也、川縁からあがる花火と、それぞれ「高さ」を強調している。
 そして、落ちる身体と上がる花火の対照は、映画の後半において、硝子の投身というかたちでより強烈に再現される。
 将也も硝子も自分が消えるべきだと考えていて、その気持ちに沿ってみれば彼らの行為の先にあるのは死だろう。いっぽう、上がる花火は美しい輝きである。冒頭の将也は、花火によって自分が死ぬ空想から現実へと引き戻された。後半の硝子は、花火がつぎつぎと打ち上がる、いわば美しい生命のさなかにあって、なお死を選択しようとしている。
 とはいえ、落下の場面での映像は、かならずしも死を表現していない。むしろイメージは生の充実であり、新生する世界である。落ちる身体と上がる花火は正反対のものではなく、「空」と「川」を結びつける運動として同等なのだ。

少年たちの度胸試し、硝子の躊躇なき飛びこみ

 この作品のオープニングでは、少年時代の将也たちが度胸試しでおこなっている橋からの飛びこみが映る。まさに祝祭的な生の喜びであり、この場面で流れるザ・フーの「My Generation」と相まって、観る者の印象に焼きつく。  少年たちの飛びこみと、将也が覚悟していた投身、硝子が思いつめておこなう投身とでは、動機はまったく違うけれど、映像の想像力のなかで和音のように響きあうのだ。
 将也と硝子が仲間たちと遊園地へ行くエピソードでは、ローラーコースターに乗った佐原みよこが将也に「怖いかどうか乗ってから決める」と告げる台詞が印象的だ。最高点から猛スピードで下降するコースターもまた、生の充実としての落下である。
 また、落ちた筆談用ノートを追って硝子が川に飛びこむ場面は、この作品の前半部の山場といってよかろう。原作でも同様の場面があるが、そちらの硝子は母親が投げ捨たノートに手を伸ばし、はからずも柵を超えて落ちてしまう。しかし、アニメの硝子は、自分の意志で欄干によじ登り、飛びこんでいる。まったく躊躇をしない。
 硝子役を演じた声優の早見沙織さんは、硝子について「生きているのを強く感じるキャラクター」「内側に激情的な何かを持っている」とコメントしているが(特別番組『映画「聲の形」ができるまで』)、この場面には、その硝子の個性が如実にあらわれている。作画もたんに丁寧というだけではなく、生きている硝子の量感や体重がありありと伝わってくる。実写とは異なる、アニメならではのリアリティだ。

川を泳ぐ鯉、空を行く飛行体

『聲の形』は原作でもアニメでも、川を泳ぐ鯉がさまざまなシチュエーションで描かれる。原作者の大今さんはインタビューで、「『鯉』は読者に向けたメッセージというよりも、私にとっての『まじない』みたいな存在です」「『まじない』というのは、それぞれの場面で何かを象徴する存在であるんですけれど、『呪い』ではなく、『幸運』を象徴するものでもなく、この場合は中立の存在です」と語っている(『聲の形 公式ファンブック』)。アニメでもそれが踏襲されているように思える。


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聲の形 公式ファンブック

大今 良時(著)
講談社
週刊少年マガジン



 先述したように、山田尚子監督は、将也の気持ちにかかわらず澄みきって美しい「空」を描いた。「鯉」もまた人間の思惑と関係なくそこに存在している。ただ、それを眺める人間しだいでさまざまな意味を帯びるのだ。  「川」に棲む「鯉」のように何度も繰り返して登場するわけではないが、『映画 聲の形』では「空」にも印象的な「中立の存在」が描かれていた。
 将也と硝子が再会したあとのシークエンスで、将也が周囲に心を閉ざし高校のクラスで孤立しているさまが描かれる。そのとき、教室の窓の外、高い上空に飛行船が飛んでいる。クラスメイトたちは窓辺に集まり、飛行船を指さしてさかんに言葉を交わしているのだが、将也はうつむいてその輪に入ろうともしない。
 そのシーンを注意深く見ると、ひとりの男子生徒が何やら将也に話しかけているのだ。飛行船を見つけて「おい、あそこ、珍しいなあ」みたいなことを言っているのかもしれない。つまり、将也が自意識過剰気味に一方的に心を閉ざしているだけで、クラスメイトは彼を仲間はずれにしているわけでもなんでもないのだ。それはその後、何回か描かれるクラスの様子からも察しがつく。
 飛行船そのものに特別な意味はない。ただ、このとき将也は顔をあげさえすればクラスメイトとも話せたし、広い世界を眺めることができたのだ。そんな「しるし」として飛行船はあって、ゆっくりと空を行く姿が観る者の心に残る。
 そのイメージと響きあうのが、クライマックスで病院を抜けだした将也がいつもの橋のうえで硝子を見つけ、それまで言えずにいたことを告げるシーンだ。その頭上、高い夜空にライトを点滅させながら飛行機が飛んでいる。将也は飛行機に気づいた様子もない。また、飛行機はなにかの隠喩ではない。ただ彼はこのとき、本当の意味で硝子と話すこと、顔をあげて世界を見ることができた。彼自身の「忘れもの」を取り戻したともいえるだろう。飛行機はその「しるし」のように星空を横切っていく。
 序盤におかれた飛行船と、クライマックスで描かれる飛行機は、ストーリー上はなんの因果関係もなく、強い象徴性で結びついているのでもない。イメージが淡く響きあうだけだ。気づかずに観てもなんら問題はない。しかし、こうしたディテールが作品世界を豊かにしている。観る者がいちいち意識せずとも、印象に少しずつ刷りこまれていくのだ。
 どこまで制作側が意図的にしているかはわからないし、意図的であっても偶然であっても結局は同じことだと思うのだが、優れた作品にはこれみよがしの演出ではない、こうしたディテールの共鳴が起こる。ストーリーは直線的に進むが、イメージの結びつきや広がりは立体的であり、ひとつの作品を繰り返して観ることでその世界がより鮮やかに立ちあがる。

(牧眞司)

©大今良時/講談社

 

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