ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 3

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27歳でビートルズを発見した青年、ブライアン・エプスタイン~Fab Fourと名づけた広報担当のトニー・バーロウ

27歳でビートルズを発見した青年、ブライアン・エプスタイン~Fab Fourと名づけた広報担当のトニー・バーロウ

第1部・第2章

いくら天賦の才能に恵まれたアーティストであっても、それが人に認められなければ歴史に残る作品は生まれないし、後世に伝わっていくこともない。そして作品が生まれるには人と人との出会いがあり、いくつもの偶然や必然が織りなす物語が存在する。ビートルズが2度目のハンブルク長期修行から帰国した1962年、マネージャーとなるブライアン・エプスタインによって発見されたのも、一枚のレコードが用意した偶然の所産だった。

リヴァプールで大きな家具店を経営するユダヤ人の一家に生まれたブライアンは、演劇に興味を持つインテリ青年だった。だがホモ・セクシャル(同性愛者)だったことから、周囲には溶け込めずに孤独で暗い青春を送っていた。21世紀の現在と違って同性愛は違法行為であったために、そのことを秘密にしなければならなかった。

しかし家具屋とともに経営していたレコード部門、ノース・エンド・ミュージック・ストア(NEMS:ネムズ)を両親から任せられると、ブライアンは短期間でイングランド北部における最大級のレコード店にまで成長させた。”どんなレコードも手に入る”ことをうたい文句にして、客の信頼を得ていったのである。そんなNEMS二号店に1961年10月、ビートルズの「マイ・ボニー」がほしいという10代の若者がやって来た。

ビートルズも「マイ・ボニー」も知らなかったブライアンは、ドイツのポリドール・レコードが出したトニー・シェリダンのシングル盤、「マイ・ボニー」で演奏を担当しているビート・ボーイズが、実はビートルズであることを調べあげた。彼らがリヴァプールのグループだということ、NEMS二号店の近くにあるクラブ、「キャヴァーン」に頻繁に出演していることもわかった。

クラシックが趣味のブライアンだったが、なぜかキャヴァーンをのぞいてみる気になった。そして11月3日に初めて体験したビートルズの歌声と演奏に魅了されたのだ。そこには怒りや悲しみといった感情をひっくるめて、抑えきれない若者たちの魂が躍動していた。彼らの歌や演奏から伝わってきたのは青春の瑞々しさであり、生きていることの素晴らしさだった。

ブライアンは彼らのくったくのない笑顔、ときおり垣間見せるシニカルな表情、皮肉っぽいユーモアのセンスにも惹きつけられた。そして何度もキャヴァーンへ足を運んでいるうちに、突発的にどうしてもマネージャーになりたいと思った。

バンドのメンバーたちとそのことを話し合ったブライアンは、翌年の1月からマネージメント契約を結んだ。このときブライアンは27歳だったが、そこからは最大の愛情を持ってビートルズをサポートし、レコード・デビューに向けて売り込みに奔走した。

最初にブライアンがアプローチしたのは「リヴァプール・エコー」紙に音楽コラムを執筆していた、ディスカーという名の人物だった。それがライナーノーツを書くためにデッカ・レコードと契約し、音楽ライターとして働いていたリヴァプール出身のトニー・バーロウである。

ブライアンはそのコラムでビートルズのことを取り上げてほしいと頼むため、ロンドンまで出かけてトニーに会うことにした。そのときのブライアンの紳士的な外見と態度に、トニーはビートルズ以上に興味が湧いたという。

高級感のある身だしなみ、丁寧に散髪された若干くせのある髪と、磨かれマニキュアを塗った爪。スーツはオーダーメイドで、高そうな仕立ての良いキャメルのコートを羽織って、紺色に白い水玉模様の絹製スカーフを組み合わせ、これもほぼ確実にオーダーメイドであろう新品の黒い靴を履いていた。リヴァプール出身の訛りをほとんど感じさせず、今時のBBCのアナウンサーに少し似て、オックスフォードやケンブリッジ大学出身者のような上品な声で話した。
トニー・バーロウ著
「ビートルズ!売り出し中」
河出書房新社

トニーにデッカのA&Rマンを紹介してもらったブライアンは、オーディションのチャンスを手に入れることが出来た。1962年1月1日、ビートルズは初めて本格的なオーディションを受けてデモ・テープを作った。だが、結果は不採用となった。

チャンスさえもらえれば成功する、そう考えていたジョン・レノンはショックを受けていた。チャンスが与えられたのに失敗したのだ。そこで音楽に足りないものは何なのか、メンバーたちで真剣に話し合った。

ブライアンはエルヴィス・プレスリーのマネージャーだったパーカー大佐のやり方を研究し、聴かせるだけでなく視覚にも訴えることが大事だと知った。そこで髪の毛をマッシュルーム・カットに統一し、皮ジャンにジーンズという典型的な不良スタイルをやめさせた。そしてスーツとネクタイ着用に変えることにし、ステージ上での喫煙や飲食も禁じて、悪ふざけや発言についても注意を払うようにした。

彼はビートルズを洗練されたスマートなグループにして、レコード会社からのデビュー契約を獲得しようと努力したのだ。やがて“ビートルズを売り出した男”として知られるブライアンの、その頃の気持ちを彼自身の言葉で紹介したい。

「何でもやったし、すごく一所懸命働いたよ。ファンが1人もいない時に、屋根の上から大声で宣伝した。頭がおかしいと思われても、ずっと叫び続けたよ。」

 

EMI傘下の弱小レーベルだったパーロフォンの制作責任者、ジョージ・マーティンにブライアンが面会したのは、1962年の5月9日のことだった。マーティンはデッカで録音した音源を聴いただけで、まだバンドのライブも観ていないのにレコーディング契約の意思があるとブライアンに返答してきた。 

そのときの印象についてマーティンは「すべて可もなく不可もない、実に平凡な出来だった」と語りつつも、このように振り返っていた。

しかし……そこには何か通常でない性質のサウンドがあった。それまでに私が聴いたことも考えたこともなかったような、ある種の荒っぽさが妙に感覚をくすぐるのである。それにひとり以上の人間が歌っていること自体に特殊さがあった。もっと聴きたい、いやそれどころか実際彼らに会って、その演奏するところも見てみたいと私に思わせるほどの、確かな手応えというべきものが感じられたのだ。

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ジョージ・マーティン著
「ザ・ビートルズ・サウンドを創った男〜耳こそはすべて」
河出書房新社

ブライアンはハンブルクに遠征していたビートルズに、EMIがオーディションしてくれると電報を打った。そして6月6日にEMIスタジオで、マーティン立ち会いのもとデモ・テープ録音が行われたのだ。ラテンのスタンダード・ソングだった「ベサメ・ムーチョ」と、オリジナル曲の「ラヴ・ミー・ドゥ」、「P.S.アイ・ラヴ・ユー」、「アスク・ミー・ホワイ」の4曲が吹きこまれた。

スタジオのコントロール・ルームで録音した音を聴かせて、マーティンは「なにか気に入らないことでもあるかい」とメンバーたちに訊いた。すかさず「気に入らないのはあんたのネクタイ」と、いちばん若いジョージ・ハリスンが答えたという。このエピソードは彼らが成功した後に有名になったが、そこには生意気ながらもどこか憎めない、ビートルズならではのユーモアがあった。

マーティンはその後、リヴァプールに足を運んでキャヴァーンでライブを観て、ビートルズの将来性を確信することになる。そしてレコーディングのプロデューサーとして、メンバーたちの音楽に潜んでいた独創性を引き出していった。さらには多様な音楽的アプローチを具体的に教えることで、彼らを輝かしい成功へと導いていくのである。

特にソングライターとしてのジョン・レノンやポール・マッカートニーの可能性に気づき、さまざまなオリジナル曲が生まれる手助けをした。ビートルズの登場によって書き換えられたその後の音楽史を見れば、プロデューサーとしてのマーティンが不可欠な存在だったことがわかる。

マーティンはEMIからデビューすることが決まると、ドラムのピート・ベストの技量についてだけは危惧した。だからレコーディングではピートに代わって、スタジオ・ミュージシャンを起用するついもりでいた。ところがそのことをブライアンに伝えると、ビートルズの3人はピートを外して新しいドラマーを迎え入れることを決めた。それがリンゴ・スターである。

ビートルズは1962年10月4日、オリジナル曲「ラヴ・ミー・ドゥ」で、EMIのパーロフォン・レーベルからレコード・デビューを飾った。シングル盤は発売元のEMIがまったく乗り気ではなく、地元のリヴァプールを中心に局地的に売れたにすぎず、ヒットチャートでは最高で17位と、新人としてはかろうじて合格点という結果だった。

 

 ブライアンに気に入られたトニーはその後、ビートルズの広報担当に引きぬかれたのだが、それはセカンド・シングルの「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴かせてもらったからである。その有望な曲がヒットチャートの1位になることを確信したトニーは、デッカを辞めて1962年の秋に出来たNEMSのロンドン支社で責任者として働き始めた。

「プリーズ・プリーズ・ミー」はトニーの予想通り、1963年2月にヒットチャートの1位に輝いた。ビートルズの広報担当として雑誌や新聞の記事をチェックし、必要な場合にはメンバーに代わって原稿を書く多忙な日々が始まった。トニーはマスコミ用に取材を取りつけ、カメラマンとのフォトセッションを用意し、ライナーノーツに原稿を執筆した。有名になったFab Fourという別称も、トニーがセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』に書いたライナーノーツから誕生した言葉だった。

 ビートルズの人気が爆発した後も、トニーは殺到する取材の申し込みを調整し、Fab Fourの本当の姿を正しく伝えてもらう役目を果たした。必要とあれば記者会見を開いて、その場を上手にリードしてまとめた。報道陣やディスクジョッキーなどをツアーに帯同させるなど、メディア対策も一手に引き受けていた。

またファンクラブ向けにクリスマスレコードを企画するなど、ブライアンの仕事の一部をサポートしていく。

最上部の写真:ポール・マッカートニーの左の男性がブライアン・エプスタイン、リンゴ・スターの左の男性がトニー・バーロウ

→次回は11月7日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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