ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 4

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ビートルズ・サウンドを創った男、ジョージ・マーティン~アメリカ西海岸のキャピトルからもたらされた幸運

ビートルズ・サウンドを創った男、ジョージ・マーティン~アメリカ西海岸のキャピトルからもたらされた幸運

第1部・第3章

イギリスでは戦後にトラッド・ジャズがブームになり、次にロックンロールが伝わってきたことで、誰もが手軽にバンドを始められるスキッフルがブームになった。どちらもアメリカ音楽の影響だった。表方であれ裏方であれ、エンターテイメント・ビジネスに従事する者たちは、アメリカから多大な影響を受けて育った。だからこそアメリカで成功することは、誰もが漠然と憧れる夢だった。

レコード業界では、アメリカ人が主導権を握ることが世界的に認められているようだった。イギリスでは明らかに、アメリカから輸入されたレコードが市場を支配していたし、それは誰にも破れない固い掟だった。
(略)
シナトラ、プレスリー、ビング・クロスビーからミッチ・ミラー、ガイ・ミッチェル、ドリス・デイに至るまで、ぶ厚いアメリカ人のネーム・リストががっちり市場を押さえていた。それに加えてもちろん、エリントン、アームストロング、ベイシーほかのジャズメンも名前を連ねていた。 こうした伝統的な背景をくつがえす何かを企てることは、もうほとんど不可能にみえた。

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ジョージ・マーティン著
「ザ・ビートルズ・サウンドを創った男〜耳こそはすべて」
河出書房新社

1926年1月3日にロンドンで生まれたジョージ・マーティンは、6歳の時に家にピアノが手に入ったことがきっかけに、音楽に興味を抱いてレッスンを受けるようになった。だが母親とピアノ教師の折り合いが悪くて、レッスンは続かず独学でピアノを習得していった。

第二次世界大戦末期の1943年、パイロットになるために17歳で英国海軍に入隊した。だが、戦闘に巻き込まれる前に終戦を迎えた。戦後は退役軍人の助成金を得て、ギルドホール音楽演劇学校に入学してピアノとオーボエを習った。そこでラヴェルやラフマニノフ、コール・ポーターなどの作曲・編曲術も学んだ。卒業はBBCのクラシック音楽部局で働いた後、EMI傘下のレーベルだったパーロフォンの社長、オスカー・プロイスの助手としてEMIに入った。

パーロフォンは弱小レーベルゆえにスタッフも少なく、クラシックからジャズ、ノベルティ・ミュージックに至るまで、あらゆるジャンルの音楽のプロデュースを一人で手がけねばならなかった。後に『素晴らしきヒコーキ野郎』や『ナバロンの嵐』」といった映画音楽で、作曲家として高く評価されることになる音楽家のロン・グッドウィンは、企画性の強いノベルティ作品からクラシックまで、マーティンと組んで実に様々な仕事を行なっている。

そんな二人のコンビで制作したアルバムのなかに入っていた曲が、アメリカで突発的にシングル・チャート入りするという幸運が舞い込んできた。1957年の夏、オーケストラによるインストゥルメンタル・ナンバーが、どういうわけか全米チャートのHOT100に入ったのだ。

「Swinging Sweethearts(スウィンギン・スウィートハーツ)」 は、さほど目立たないまま少しずつチャートを上昇し、ビルボード誌では最高52位、キャッシュ・ボックス誌では30位と健闘した。そのタイトルはアメリカの発売元だったキャピトルが勝手に付けたもので、原題は「スキッフル・ストリングス」だった。

イギリスではEMIの幹部も、プロデュースしたマーティンも、当初はシングルが出たことさえ知らなかった。だからチャート・インしていることが伝えられて驚いたのだが、どうしてヒットしているのかはよく分からなかった。しかし思わぬヒットが生まれたことによって、マーティンはロスアンゼルスにあるキャピトル・レコードに行く機会を得た。

それまでのマーティンはEMIにとって、それほど評価が高いプロデューサーではなかった。だからこの時期にキャピトルに行けたのは、マーティンにもEMIにも大きな幸運となった。これがビートルズの成功へと結びついていくのだから、音楽の神様はなんとも粋なことをしてくれた。

EMIが1958年、なんと私をアメリカに送ったのである。向こうではどうなっているのか、ちょっと偵察に行ってこいというわけだ。だが表向きの理由は、ロン・グッドウィンの「スキフリング・ストリングス」がわりにいい線をいっていて、アメリカでも「スウィンギン・スウィートハーツ」というタイトルがつけられ、売れ行きが伸びてきていたので、ロンが渡米し、私が同行するということだった。
(「ザ・ビートルズ・サウンドを創った男〜耳こそはすべて」)

キャピトル・タワーの中にある近代的なスタジオに案内されたマーティンは、フランク・シナトラのレコーディングを見学させてもらった。そこでは驚くべきことに3チャンネルのテープレコーダーを使って、ステレオによる録音が行われていた。キャピトルのエンジニアたちはマルチトラック・レコーディングに、あと一歩のところまで足を踏み出していることがわかったのだ。

マーティンはそれまでもEMIに対して、レコーディング・スタジオには多重録音のできる機材の導入が必要だと、何度も強く訴えていた。だから自分の考えが正しいことを、この時にはっきりと確認できたのだった。

“ビートルズを創った男”と呼ばれるマーティンにとって、キャピトルでの体験はターニングポイントとなった。ヒット曲製造工場と呼ばれたキャピトルのスタジオで、マーティンは最新の録音機材と録音技術をしっかりと目に焼きつけてきた。

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私は新しいアイデアを頭いっぱいに詰めてロンドンに帰った。第一に私の考えを占領したのは、キャピトルのコントロール・ルームにあったモニター・スピーカーの音量が、今まで私がロンドンのどこで聴いたのよりも大きな音を出していたことだった。それどころか大きい音なのに、もっとずっと澄んだ音であることも確かだった。キャピトルのスタジオで彼らがどんな技術を使っているのか、私は目を皿のようにして見てきた。マイクの種類、アコースティック装置……。ああたいへんだ、アビイ・ロードに採り入れなきゃならないことが、くさるほどある――と私は思った。
(「ザ・ビートルズ・サウンドを創った男〜耳こそはすべて」)

ここでイギリスに持ち帰った貴重な知的財産が、数年後に始まるビートルズのレコーディングにおいて、存分に生かされることになる。ビートルズがデビューして大成功したことから、EMIはマーティンが主張していたマルチトラック・レコーディングの導入を、渋々ながら認めざるを得なくなった。そこから創りだされたビートルズの画期的かつ革命的な作品群が、やがて世界の音楽シーンを根底から覆すほどの衝撃を与えるのである。

ところでロン・グッドウィンの楽曲「スキッフル・ストリングス」が、どうしてアメリカでヒットしたのかについては、結局のところ最後までよく分からないままだった。ひとつだけ明らかになったのは、地味なアルバムのなかに埋もれていた曲を発見してシングル盤のマーケットに投入したのが、海外A&Rの責任者だったデイブ・デクスター・ジュニアという人物のひらめきだったということだ。

→次回は11月10日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント
キャピトル・タワーの写真:撮影 / Kevin D. Hartnell

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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