奥田民生ロックンロールの細道  vol. 2

Interview

奥田民生にロックンロール・マナーを授けた男・原田公一インタビュー【前編】

奥田民生にロックンロール・マナーを授けた男・原田公一インタビュー【前編】

 

 

ユニコーン、奥田民生の育ての親と言ってしまえば簡単だが、原田公一と奥田民生は互いに切磋琢磨しながら、他の誰にも真似のできない音楽=奥田ロックンロールワールドを創りあげてきた。
日本の音楽界では、極めて稀有なアーティストとスタッフの素敵なリレーション、奥田が50歳を迎えた今、改めて原田にアーティストの成長の過程を訊いた。

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「僕はストーンズとビートルズが好きで、奥田くんはビートルズが好きで、そういう共通項で話せたから、年の差を感じず、普通に付き合えた。」(原田公一)

最初に会ったときから、奥田さんにアーティストとしての才能を感じましたか?

原田 そういう感じには全然見なかった(笑)。僕は奥田くんが所属することになるマネージメント事務所にいて、南佳孝さんを担当してました。86年にユニコーンが広島から上京してきたんだけど、あの頃はちっちゃい事務所だったか ら、担当外のアーティストでも顔を合わせるわけですよ。ユニコーンが所属することになって、単純に、事務所に若者が増えました、楽しいですねみたいな感じでしたね。

僕は九州出身で、広島と同じくジャパニーズ・ウエストコーストだから、言葉もなんとなく似ているところがある。奥田くんは21歳の若者で、すごく大人に憧れてた。10歳下の弟じゃないけど、ホントにかわいがってあげるっていう感じでした。僕はストーンズとビートルズの両方が好きで、奥田くんはビートルズ・ファンで。そういう共通項を媒介に話せたから、なんの年の差もなく、極めて普通に付き合ってました。普通にご飯を食べに行ったり、やるき茶屋で呑んだりしてましたよ。

奥田くんはアマチュア時代のユニコーンにいちばん最後に入ったメンバーで、ほとんど日も経たないうちにソニーの広島営業所に発掘されて、あっという間にこっちに来ちゃってるから、デビューして活動しながら勉強してったっていう感じじゃないかな。

原田さんがマネージメントを担当するようになってからは?

原田 89年からですね。ただ相変わらず小さな事務所だったので、付き合い方が変わるってことは まったくなかった。今でも変わってないしね(笑)。

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そのあたりから奥田さんの才能がむき出しになっていく。

原田 『服部』っていうアルバムからかな。奥田くんもそうだけど、他のメンバーも急激に成長していった。その頃はバンドブームで、いろんなバンドがいろんなことやっていたから、オリジナルなアイデアを探しましたね。3ヶ月連続でアルバムを出すっていう、前人未到のことをやってみたり。そういう中で、メンバー5人のキャラクターがそれぞれに開花していった。特に奥田くんは貪欲にスタジオワークを学んでいったと思う。

でもやっぱり忙しかった。成長の反面、疲れた(苦笑)。すごかったよね、音楽専門誌が10誌以上あって、それぞれが毎月、10ページから20ページのグラビアを掲載する。200ページ全部、衣装を変えなきゃいけないし、そのたびに髪の毛を立てたり。スタッフもバンドも疲弊していきました。雑誌はプロモーションのためにやってたんですが、今だったらWEBで簡単にできる。海外のアーティストなんて、アーティスト写真をiPhoneで撮ってますよ(笑)。でも当時は本当に肉体労働だった。

ソングライターとしての奥田さんは、どうだったんですか?

原田 もうデビュー翌年の88年ぐらいから、自信満々だったよ。

それを微笑ましく見ていた?

原田 見てた(笑)。だって絶対、締切に遅れないからね。毎回アルバムを作るたびに、メンバーみんなが曲を出すじゃないですか。10曲20曲出すけど、奥田くんは締切ジャストに照準を合わせてすごい曲を出してくるんだよね。あれはさすがだった。

原田さんが心を動かされた奥田さんの曲は?

原田 「働く男」と「すばらしい日々」はいい曲だなと思ったなあ。

そして92、93年にユニコーンは終わりに向かっていく。でも作品のクオリティはピークに向かっていく。

原田 いやいや、ピークは今ですよ。再結成した今でも、ユニコーンは次のアルバムがピークですから(笑)。その意味でいうと、第一期の最後のアルバム 『SPRINGMAN』を作る頃、バンド内がちょっと不穏なムードだった(笑)。それでキース・リチャーズのソロを手掛けたエンジニアのジョー・ブレイニーをアメリカから呼んできて、スタジオの空気を変えようとしたね。

そこでユニコーンは、一度解散した。

原田 解散を「オールナイトニッポン」で発表したっていうのが、今も笑える。WEBとかじゃないんだもんね。「オールナイトニッポン」だもん(笑)。

解散のとき、原田さんから見て、奥田さんはどんな感じだったんですか?

原田 ガックリきてたよ。いちばんガックリきてたんじゃないかな、やっぱりバンドがストップするってのは。ガックリきたから、一年間休んだよね。すぐには動けなかった。

それでも、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』が始まるっていうんで、曲の依頼が来た。ユニコーンで『夢で逢えたら』のつながりがあったから、ダウンタウンとか、CX(フジテレビ)のスタッフとか、すごく仲が良かった。それでお話をいただいて、エンディングテーマの一発目が「愛のために」だった。

そこから奥田くんのソロが始まったっていう。あれがなければ、そのままもっと休んでたかもしれない。
「愛のために」のレコーディングは、ユニコーンのリーダーで、奥田くんがリスペクトしていた、川西さんのバンド“VANILLA” にバックをやってもらった。

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解散しても、また一緒にやれたんですね。

原田 解散したから、もうメンバーと会いたくないとかじゃないと思うんだよね。

ソロは、頼まれ仕事で曲を書くことから始まった。

原田 そう。それで、ぼちぼちやるかみたいな感じになって。ユニコーンは強力なバンドだったんで、もし奥田くんがソロアルバムを作るんだったら、やっぱり強力な、誰もやったことのない人たちとやったほうがいいだろうなと思って、まあ、僕自身が好きだったから、キース・リチャーズのバンド“ワイノーズ”をそのまま使ったっていう。

あの頃っていろんな日本のアーティストたちが、コーディネーターを使って海外レコーディングしてたのね。でもコーディネーターを通すと、コーディネーターの意見が入っちゃうから、なんか違うなと思ってた。なので、コーディネーターは使わずに、僕と、ローディーのスージーと奥田くんの3人だけでニューヨークに行って、ワイノーズと一緒にやった。ガッツリぶつかり合って作ったって感じだったと思う。ガッツリぶつかったっていうか、よくわかんないまま作ったっていうか(笑)。

手探りのレコーディングだった?

原田 でもワイノーズの音はホントに素晴らしかった。日本人がやるロックンロールじゃない。僕らが彼らに言ったのは、「チャック・ベリー先生から始まった、ホントのロックンロールを作った人たちのロックンロールが欲しいです。ロックじゃなくて、ロックンロールが欲しいんです」って。

 なかなかニュアンスが伝わらずに苦労したけど、その後、何年かの活動のベースがそこでできた。奥田くんは未だにドラムのスティ―ヴ・ジョーダンとは ヴァーブスっていうバンドをやってたり、ジョー・ブレイニーとは2001年の「CUSTOM」を一緒に作ったりしてる。

取材・文 / 平山雄一

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原田公一(はらだきみかず)

1954年北九州市小倉区生まれ。
法政大学時代に下北沢ロフトにてアルバイト中、シンガー&ソングライター南佳孝と出会いマネージャーとなる。
1977年、南とともにMusic Unlimited Ltd.入社。
1979年、南とともにエイプリル・ミュージック(現SMA)入社。
1989年よりユニコーン、スパークスゴー・ゴー、PUFFYなどのマネージメントを担当。
2015年までSMAに在籍後、6月定年退職。
2015年11月、音楽事務所FREEを立ち上げる。

 

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