佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 114

Column

和田誠さんを悼んで名著『ビギン・ザ・ビギン』を再読したら、雑誌『話の特集』を思い出していた

和田誠さんを悼んで名著『ビギン・ザ・ビギン』を再読したら、雑誌『話の特集』を思い出していた

1980年に和田誠さんの母方の祖母が94歳で亡くなった時に、なかなか会うことのない親戚が告別式で納骨のために集まったことがあった。
それほど苦しみもせず、天寿を全うして眠るように逝った人の葬儀だったので、湿っぽいムードにはならず、むしろ久々に顔を合わせた親戚一同で、楽しい昔話が交わされたという。

そのような席では40代半ばだった和田さんも、まだ若い衆に属するらしく、もっぱら聞き役となった。
とくに面白かったのが喪主である叔父さんの話で、終戦の日に越中高岡の地で俳優の長谷川一夫や歌手の笠置シヅ子と過ごした体験を語ってくれたことだった。

その叔父さんの名前は山本紫朗、日本の最大のエンタテインメント施設だった日本劇場(日劇)のプロデューサーで演出家、そして東宝映画のプロデューサーでもあった人物である。

和田さんは叔父さんの話を聞いて、こんなふうに思ったという。

ぼくもショウビジネスが好きだが、ただの観客であって、叔父の仕事とは無関係だった。しかしこの際、話を聞いておくべきだとぼくは考えた。終戦の日以外にも、話はいろいろあるはずだ。ぼく自身も興味があるし、記録として残すのも意味があるだろう。

和田さんは聞き書きによる「山本紫朗伝」を、後世に残そうと思い立ったのである。
そのことを叔父さんに話してみると、「ぼくのことだけを書くこともないだろう。ショウビジネス全体のことを書くなら良い。その中の一部分に、ぼくが登場するということでいいじゃないか」という方向で話がまとまった。
そこで、とりあえずその線で話を聞き始めて、雑誌の連載を1年2ヶ月にわたって続けた。

そして本文の最後を、このように結んでいた。

日劇という建物と、山本紫朗という人物を縦糸に、直接間接に関係のある多くの人たちの談話を横糸に綴りながら、日本のショウビジネスの一つの楽屋口を覗いた。

 

その連載が1982年の夏になって、文藝春秋社から『ビギン・ザ・ビギン:日本ショウビジネス楽屋口』として単行本化された。
ぼくはこれまでに何度か読み返してきたが、有名、無名を問わず、実にたくさんの人たちの証言が活字になって、きちんと残されていることに胸が熱くなった。
日本で音楽シーンに関わる仕事をしている人にとっては、まさに基礎資料というべき貴重なノンフィクションであると思う。

ところで和田さんが編集とデザインに携わっていた雑誌の『話の特集』を愛読するようになったのは、ぼくが高校生になる直前のことだった。
そこから大学時代はもちろん、社会人になってからも愛読していたのだから、雑誌からだけでなく和田さんからもかなり影響受けている。

『話の特集』は反権威・反権力を旗印に、新聞記者出身の矢崎泰久がジャーナリズムの確立するために始めたものだ。
創刊の準備をしていた時に、和田さんの才能に惚れ込んでアートディレクターを頼んだ経緯を、編集長の矢崎氏はこのように語っている。

和田誠の第一印象は評判通り「生意気な若者」でした。でもぼくは生意気なくらいでなければいいものはできないし、何より彼の才能にほれこんでいたので、『話の特集』のアートディレクターは彼しかいないと思っていました。
必死で説得しましたが、彼の希望するギャラとこちらの予算があまりにもかけはなれていた。これはムリかと半ばあきらめかけていたところ「アートディレクションだけでなく、中身にも口を出していいならタダでいい」と連絡が入った。もちろん即答で了承。この申し出がなかったら『話の特集』は世に出なかったでしょうね。かくして編集長よりイバっているアートディレクターが誕生したわけです(笑)

創刊号の制作を前に和田さんと決めたのは、新しい雑誌なのだから、なるべく新しい人を起用しようということだったという。
その結果、『話の特集』には若くてユニークな才能が、人のつながりによって集まってきたのである。
小説家の野坂昭如と五木寛之、放送作家で作詞家の永 六輔、ジャズ評論家の植草甚一、ルポライターの竹中 労、アンダーグラウンドな演劇で注目されていた寺山修司と唐 十郎、SF作家の小松左京と筒井康隆、ファッション写真で頭角を現し始めていた立木義浩、広告写真で実力を認められていた篠山紀信などである。

和田さんは当初の宣言どおりに、中身にも口を出してきたという。
例えば、創刊号の準備段階ですでに矢崎氏が表紙のイラストをサトウサンペイ氏に依頼していたのにもかかわらず、和田さんはこれを断って横尾忠則に原稿を頼んだ。
その頃の横尾氏は、まだほとんど無名の若手アーティストだった。
しかし和田さんはこれから注目される描き手だと確信し、売れっ子だったサトウ氏を断ったのである。
矢崎氏が書いた創刊号の編集後記には、このような紹介が載っている。

和田誠 およそ横尾忠則とは正反対な作品を創造する。センスのよさと調和には定評があり、本誌のレイアウトを見ていただけば分るだろう。エスプリに富み、生活面でも良い意味のスタイリストといえる。昭和十一年大阪生れ、独身。

ぼくは創刊号が1965年12月20日に発売になったことを知らなかったが、翌年になって書店で手にとったことから愛読し始めた。
とりわけ永 六輔が連載していた『芸人 その世界』が面白いと思った。
当時は中学3年生で、あらゆるものを吸収できる好奇心と若さがあったので、連載していた執筆者に関心が高まると、その人の単行本を次々に買って読んでいった。
阿佐田哲也(色川武大)を知ったのも、『話の特集』だったように思う。

1968年に会社から独立した和田さんは、映画関連の記事やエッセイに付けられる挿絵のイラストで注目を集めた。
そして『キネマ旬報』に連載した映画に関わる軽妙なタッチのエッセイとイラストでも活躍し、いつしか“時の人”になっていった。

ぼくの中学、高校、大学の10年間は、知らず知らずのうちに和田さんの影響下にあったのだなあと、あらためて気がついた次第である。
そんなことに思いを馳せていたら、2011年に世田谷文学館で開催された「和田誠展 書物と映画」に行った時に、ピアノの弾き語りで唄われたジャズの記憶が蘇ってきた。

和田さんはジャズやスタンダード・ソングに関しても第一人者で、しかも素朴な歌声で心地よかったのである。

最後になりましたが、謹んで和田誠さんのご冥福をお祈りします。

(参考文献)『ビギン・ザ・ビギン:日本ショウビジネス楽屋口』文藝春秋社

(引用元)矢崎泰久氏の発言は、「魂の仕事人第4回ジャーナリスト 矢崎泰久さん-その2」(人材バンクネット)からの引用です。

http://www.jinzai-bank.net/edit/info.cfm/tm/011/

『ビギン・ザ・ビギン:日本ショウビジネス楽屋口』

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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