ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 5

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大きくブレイクする可能性を感じとった星加ルミ子~ミュージック・ライフとビートルズの物語が始まった

大きくブレイクする可能性を感じとった星加ルミ子~ミュージック・ライフとビートルズの物語が始まった

第1部・第4章

1963年1月11日に発売されたセカンド・シングルの「プリーズ・プリーズ・ミー」が、3月2日に1位を獲得して勢いに乗ったビートルズは、3~4ヶ月に1枚のシングルと、年に2枚のアルバムを作るという暗黙の契約を守って仕事した。コンサートとレコーディングの仕事がメインで、その合間をぬってラジオやテレビに出演してプロモーションを行った。

ビートルズは普及してきたテレビを通じて、急速に広く一般の人たちにまでにも知られるようになっていった。最も人気のあるTV番組「Sunday Night at London Palladium」に出演した10月13日は、視聴率が50%にも達した。約2500万人ものイギリス人がこの番組を見たことになる。放送の翌日から熱狂する少年少女たちには、「ビートル・マニア」という言葉が使われる。イギリスの少年少女や若者たちは、そこからますますビートルズに熱狂していった。

大きなニュースになったのは11月4日、王室臨席のもとで開催された「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス」への出演だ。それは年に1回行われるオール・スター・チャリティのような内容のショ-で、ロック・スターが出演するのは初めてのことだった。

会場となったプリンス・オブ・ウェールズ劇場の客席には、エリザベス女王の母にあたるエリザベス皇太后や、マーガレット王女、スノードン卿などの王族や貴族も列席していた。外ではたくさんのファンが会場周辺に集まり、交通渋滞が起きるほどだった。

ビートルズは招待された19組のうちで7番目に登場した。しかしいつものギグと違って、客席は静かだった。社交界の紳士淑女が取り澄まして鑑賞していたのだから、ビートルズには場違いな雰囲気があったのである。「From Me To You」「She Loves You」「Till There Was You」の3曲を演奏したが、いつもの熱い反応にはほど遠いものだった。そこでジョン・レノンは4曲目の「Twist and Shout」を紹介するとき、こんな言葉を投げかけた。

「最後の曲になりました。皆さんにも少し協力していただきます。安い席の皆さんは拍手をしてください。あとの方々は宝石をジャラジャラ鳴らしてください」

そう言ってジョンは恭しく、エリザベス皇太后に一礼した。この大胆でユーモアのある発言によって、客席は爆笑の笑いに包まれた。それが翌日の新聞にこぞって取り上げられて、庶民の声を代弁するかのようなジョークだと大人たちにも評判になった。ニュースは大西洋を越えて、アメリカの新聞でも見出しを飾った。

この時のパフォーマンスは現在でもロイヤル・バラエティ・パフォーマンスの公式サイトで見ることができる。

これより少し前の9月、キャピトルのデイブ・デクスター・ジュニアはEMIとの間で初めて、ビートルズのレコードをアメリカで発売する契約を結んでいる。だがアメリカのティーンエイジャーたちの大半は、まだビートルズの存在にはまったく気づいてはいなかった。

「ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス」でトリを受け持ったドイツ出身のハリウッド・スター、マレーネ・ディートリッヒはビートルズについて、「素晴らしいと思うわ。そう思わない人がいて?」と語っていた。

ちなみにその日、ディートリッヒの音楽監督として同行したのは、作曲家のバート・バカラックである。ビートルズはファースト・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』で、バカラックの書いた「ベイビー・イッツ・ユー」をカヴァーしている。

イギリスではこの辺りからビートルズの人気をめぐって、さまざまな論議が始まろうとしていた。マスコミにもビートルズの楽曲や演奏、あるいはユーモアの感じられる発言、はつらつとした行動を讃えるコメンテーターが出てきた。単なるポップ・アイドルではなく、それ以上のものを持つ特別な存在として評価され始めたのだ。その結果として、レノン&マッカートニーによるソングライティングへの評価が高まることになった。

上流階級や知的階層向けの高級紙『タイムズ』紙には、年末に「1963年に最も活躍した作曲家はジョン・レノンとポール・マッカートニーであろう。楽曲はどれも創造性にあふれ、革新的であり、マージーサイドで発展しつつあるスタイルを代表するものだ」という記事が掲載された。その2日後、著名なバレエ評論家のリチャード・バックルが日曜版の『サンディ・タイムズ』で、「ビートルズはベートーベン以来、最大の音楽家」だと、最上級のほめ言葉を贈っている。

奇異な現象から注目を集めたビートルズは、周りから真っ当な音楽家だと認められ始めた。こうしてイギリスでは、徐々に見方が変わっていくのである。一方、遠く離れた日本でもこの日の模様は新聞の海外欄で、写真入りで記事が掲載された。 これが日本で最初にビートルズが紹介された事例となったが、関心を示した人はほとんどいなかったようだ。音楽雑誌よりも先に新聞で取り上げられたのは、いかにもビートルズらしいと言える。

人気さらう4歌手 王女も一緒に手拍子 劇場には整理の警官隊
(1963年11月10日 朝日新聞夕刊
この夜「ツイスト・アンド・シャウト」の演奏が始まると、マーガレット王女がまず身をのり出して足ぶみをはじめ、エリザベス皇太后までも思わず拍手をするほどだったという。
英国ではこの現象を「ビートルズ時代」と呼び、高級紙デーリー・テレグラフなども社説で分析を試みている。
(1963年11月20日 毎日新聞夕刊)
 

東芝レコードの洋楽部にいた高嶋弘之が、ビートルズのレコードを持って新興楽譜出版が発行していた音楽誌、「ミュージック・ライフ」の編集部にやって来たのは1963年の晩秋から冬にかけての頃だ。ロンドンのEMIが送ってきた音を聴いてほしいと、高嶋は「抱きしめたい」と「プリーズ・プリーズ・ミー」のテスト盤をかけた。

それを聴いて編集者の星加ルミ子(最上部の写真中央の女性)は「非常に異質な感じを覚えた」という。

「イギリスではすごいんだよ。コンサートで女の子は失神するし、会場もホテルもファンが押し寄せてたいへんな騒ぎで」
「向こうではどうか知らないけど、日本じゃだめね」
 ほかの編集部員も同じような感想だったので、星加は率直に高嶋に告げた。
「半年くらいようすを見たら?アメリカでもう少し売れたらね」
9784309272078

淡路和子著
「ビートルズにいちばん近い記者~星加ルミ子のミュージック・ライフ」
河出書房新社

星加は青森県八戸市の高校に通っていた16歳の時にエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いて、雷に打たれたような衝撃を受けて以来、ロックンロールに夢中になった。短大に通うために上京した星加は、アルバイトで「ミュージック・ライフ」を手伝うようになり、卒業後はそのまま就職して編集者になった。まだ20代前半だった星加にとっても、ビートルズは「非常に異質な感じ」がする音楽だったのである。

しかし東芝レコードが「プリーズ・プリーズ・ミー」を1964年2月10日に発売することを決めたので、1月下旬からラジオの番組で流れ始めた。それを聴いて「何、いまのは!?」と、素直な心を持つティーンエイジャーたちが衝撃を受けたのだった。

ある者は曲名を確かめたくて放送局に電話で問い合わせた。ある者はもう一度その曲を聴きたくて、ラジオの番組宛てにリクエスト・ハガキを書いた。そして星加が高嶋に「半年くらいようすを見たら?」と言った言葉は、63年の年末からアメリカで人気が爆発したことによって、すぐに撤回されることになったのだった。

ビートルズは「ミュージック・ライフ」3月号で初めて、全米1位を獲得した新人として1ページ強の誌面でプロフィールが紹介された。すると女子中学生や女子高校生の読者が、頻繁に編集部を訪ねてくるようになった。どんな小さなことでも知りたいと足を運んでくる少女たちの熱意に、星加はビートルズが大きくブレイクする可能性を感じとっていく。

そこから「ミュージック・ライフ」と日本のファンによる、ビートルズとの物語が始まったのである。ビートルズのブレイクとともに、「ミュージック・ライフ」は日本の洋楽における歴史の一翼を担い、大きな影響力を持つメディアになっていく。

→次回は11月15日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏
提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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