佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 115

Column

編曲家の船山基紀さんの著書を読んでいたら、44年前の新宿ゴールデン街で聴いていた中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」の世界に連れて行かれた

編曲家の船山基紀さんの著書を読んでいたら、44年前の新宿ゴールデン街で聴いていた中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」の世界に連れて行かれた

船山基紀は子供の頃から譜面と地図が大好きで、中学・高校では吹奏楽部でサックスを吹いていた。
早稲田大学政経学部に入学後は「ハイソサエティ・オーケストラ」に所属し、アルトサックスの他にコンサートマスターも担当した。
だが大学3年の時にヤマハ音楽振興会でアルバイトを始めたことから、ごく自然に編曲の道に入っていった。

1969年から始まった「ポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)」の応募曲には、初期の頃は歌詞と譜面だけというものが多かった。
それらを審査するにはひとまず音源化して、みんなで聴ける状態にしなくてはならない。
そのためにバンドによる簡単なアレンジで録音する仕事が膨大にあり、アレンジができる音楽家は常に求められていたという。

その仕事を最初にやっていたのが本コラムでも紹介した、「ヒット曲の料理人」こと萩田光雄であった。

彼は1973年から嘱託のような形で、ポプコン用のアレンジを行っていた。
そこにアルバイトで加わった後輩が、船山だったということになる。

好奇心だけでこの道に進んでしまったので、船山は仕事を行いながら独学で編曲を習得したという。

初めてポップスの理論をきちんと学んだのはヤマハのアルバイトから社員になった頃のことで、ジャズのサックス奏者だった渡辺貞夫のテキストが教科書だった。

1965年にアメリカ留学から帰国した渡辺貞夫は、ボストンのバークリー音楽院で学んだ理論を日本で広めようとテキスト化していた。
その原稿を使ってジャズ・ミュージシャンに理論を教える教室が、当時のヤマハにあった。

私はその手伝いをしていて、その際に自分で貞夫さんのテキストからノートをとるようにしていた。貞夫さんはノートを几帳面にとっていたから、書籍になる前段階のものを写し、音楽理論を学べたのだ。

身近な先輩の萩田はピアノを弾くようにギターも弾けたので、楽曲に応じて編曲していた。

その過程を見ていると、すごく納得がいくアレンジだったという。

このほど出版された「ヒット曲の料理人 編曲家 船山基紀の時代」には、背中を追う形になった萩田について、こんな文章が書いてあった。

私の身近には萩田さんがいるから、萩田さんのようなアレンジができなければプロフェッショナルなアレンジャーになることなど到底自分には無理だろうと思っていた。しかし、やり始めたアレンジの世界というのはあまりにも楽しく、なんとかしがみつきたい思いで萩田さんのスコアを盗み見て勉強していった。

船山がヤマハでアルバイトから社員になって働いた期間は2年余りと短かったが、そこで得たものはとても大きかった。

「ポプコン」を始めたヤマハ音楽振興会の川上源一理事長は、”歌を邪魔するオケのバランス”ということに対して、とても厳しかったという。

若輩者としては後ろのギターを聴かせたいなとか、ドラムをガンガン出したいとかよく思ったものだったが、川上会長は歌があるのに歌が聞こえてこないというのはどういうバランスなのだ? とよくおっしゃっていた。この作品作りの指針は今にして思えば至極当然のことで、だからこそポプコンの歌も多くの方の支持を受けたのだと思う。

船山が初期に行った仕事のなかには、中島みゆきのデビュー・シングルとなった「アザミ嬢のララバイ」がある。

レコードは1975年9月25日の発売だったが、ぼくは事前に視聴盤をもらって気に入ったので、ゴールデン街にあった行きつけの「サルガッソ」という店においてもらった。

そしてサントリーの白をオンザロックで飲みながら、その店でレコードを何度か繰り返し聴かせてもらうのが好きだった。

なによりも気持がまっすぐに伝わってくる歌詞がよかったし、素直な歌声にも心を惹かれた。

この新人歌手は大きく伸びるだろうと思った。

それともうひとつ、当時はまだ知らない名前だった編曲者の船山基紀についても、イントロから斬新なアレンジだったことに好感を抱いた。

いま考えてみると、3人ともほぼ同じ年齢であった。

中島みゆきが「世界歌謡祭」で優勝したというニュースがもたらされたのは、秋の終わり頃になってからだ。

ぼくが働いていた音楽業界誌「週刊ミュージック・ラボ」の社長だったジャーナリストの岡野弁は、11月16日に開催された第6回「世界歌謡祭」におけるレポートで、このように絶賛していた。

「グランプリの中島みゆきが際立ったコンテストであった。詞も曲も、この年齢らしい素直さがあったし、声も技術も安定し、魅力的であった。将来が約束された才能である」

それから数日後、本人の取材が行われることになり、ぼくが中島みゆきと会うことになった。
その時にまとめた記事の最後は、こんなふうに結ばれていた。

世界歌謡祭のグランプリ受賞の栄光を手にしても、自分自身のために歌っていく姿勢は、一生変わることはあるまい。
その一貫した歩みの中で、おそらく日本の音楽界に確かな足跡をしるしていくのであろう。

その翌年になって山口百恵の「GAME IS OVER」を聴いたとき、A面の「横須賀ストーリー」に負けない斬新なイントロに驚き、ロック的なアプローチにも好感を覚えた。

「さすがは萩田光雄だ!」と思ったら、意外なことに船山のアレンジだった。

こんないい曲がB面なのはもったいないと思った。

両A面にしたらもっと大きなヒットになっただろうと、当時は一人で口惜しがっていた。

順調にヒットメーカーになっていった船山は、1977年に発売された沢田研二の「勝手にしやがれ」で、日本レコード大賞を受賞した。

1975年に布施明の「シクラメンのかほり」で、萩田もやはり日本レコード大賞を受賞している。

そのことを思うと、20代の半ばでの快挙だったのだから、偉大な先輩に必死で食らいついていったんだろうなあと、感慨深いものがあった。

「ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代」はどのページを開いても、その曲が作られた時代に連れて行ってもらえるという意味で、音楽ファンには実にありがたい本である。

「ヒット曲の料理人 編曲家・萩田光雄の時代」とセットで、手元に置いておきたいと思っている。

ヒット曲の料理人 編曲家・船山基紀の時代
船山 基紀(著) / リットーミュージック

中島みゆき『Singles』(「アザミ嬢のララバイ」収録アルバム)

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
ボイジャー

ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。

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