vol.6 ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち

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ビートルズを聴いて素直に反応した全国の少年少女たち~イルカ、きたやまおさむ、そして吉田拓郎の場合

ビートルズを聴いて素直に反応した全国の少年少女たち~イルカ、きたやまおさむ、そして吉田拓郎の場合

第1部・第5章

アメリカでは1950年代の半ばに黒人の音楽だったR&Bと、白人の音楽だったカントリーが交わって、ロックンロールが誕生した。同じ頃にフランスの映画界では“ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)”が起こったし、ブラジルの音楽界では“ボサノヴァ(新しい隆起)”が出現した。そうした文化の革命によって旧い価値観やモラルが覆され、宗教におけるタブーさえもしばしば破られた。

とりわけ誰にでも手軽にできるロックンロールは若者たちを刺激し、音楽の分野に大きな変革をもたらした。そしてその影響を最も強く受けたイギリスから1960年代になって、アメリカのそれとは異なるロックが誕生してくる。その代表がリヴァプールから突然変異のように躍り出たビートルズだった。

ビートルズの音楽は誰もが積極的に参加したくなるものだった。強烈なビートに合わせて体を動かす。足を踏み鳴らし、叫び声を上げる。そして一緒に手拍子をして歌う。彼らの曲はとにかく、聴き手を行動へと駆り立てる圧倒的な魅力があった。

日本の少女たちや少年たちも、欧米で人気が沸騰しているというビートルズに反応した。言葉はわからなくても、心と身体でメッセージを受け取ったのだ。彼らがこれまでとは違う特別な何かで、音楽の枠を超える何かであることが、聴いた瞬間に伝わってきたのである。

その歌声やサウンドには理屈をこえて信じられるものがあった。だから人種や国境の壁をこえて、たくさんのティーンエイジャーや若者たちが夢中になったのだ。そうした衝撃、もしくは強い違和感を受けて、そこからビートルズの魅力に目覚めた者は、音楽の神様から啓示を受けたと言ってもいいだろう。

中学1年でビートルズのサウンドを聴いたとき、なんかこう、ふわ~っと自分が目覚めたような感じがしたんです。今まで見えなかったものがふわ~っと見えたような。それからずっと今まで、いろんな形で彼らに導かれてきたような気がします。そういう意味では彼らの存在とは、何かを覚醒させてくれた、守護霊に近いものがあります。
ビートルズに恋して

実業之日本社・編
「ビートルズに恋して だから、今の僕たちがいる」

これは日本で最も早い時期からビートルズに夢中になった少女の一人、シンガー・ソングライターのイルカが語った言葉だ。最も初期にファンになった少女たちの気持ちを、代弁していると言えるものだった。

一方ではビートルズを聴いた瞬間、「うわぁぁ!!」という震えを感じた少年たちも存在した。そのほとんど全員が自分でも楽器を弾いて歌う姿を想像した。どうすればビートルズになれるか、誰もがそんな夢を見るようになっていった。

ビートルズの音楽は楽器さえ手に入れれば、誰にでも真似ができそうなものだった。そしてビートルズの4人はそれぞれに個性的で、各々のキャラクターが際立っていた。だから日本の若者たちも、4人のうちの誰かに自分を重ねあわせることができた。彼らが受けとめたのは音楽だけでなく、「やってみれば?」というメッセージだったのだ。

京都の高校生だったきたやまおさむ(北山修)は、当時の気持ちを端的にこう述べていた。

「あんたたち、〈ビートルズ〉 が欲しいんだったら、いつでもあんたがビートルズになったらどう?」
日本の多くのミュージシャンがギターを手にとった。
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きたやまおさむ著
「ビートルズ」
講談社現代新書

北山修とは同学年の吉田拓郎がビートルズを知ったのは、1964年の初め頃だったという。当時は高校2年で広島に住んでいたのだが、学校から帰ってくると夕方5時から始まるラジオ番組を聞くのが日課になっていた。アメリカの音楽誌「ビルボード」のランキングを紹介する「ビルボードTOP40」が、岩国の米軍キャンプ向けのFENから流れていたのである。

そしてある日、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」が、何かの幕開けを思わせるような感じで、高らかに吉田拓郎の耳に飛び込んできた。それまで聴いてきたアメリカンポップスと違って、なにか騒々しい音楽だというのが第一印象だった。

最初は「何じゃこれ」という、とまどいに近い驚きだった。ところが何度か耳にするうちに、騒々しさが開放感に変わっていった。そのうちに4人のハーモニーが「お前も早くやれよ」と、誘っているようにさえ聞こえてきたという。

しかし広島にある全てのレコード店を回っても、ビートルズのレコードは置いていなかった。レコードが発売になったのは2月に入ってからのことだった。それを愛聴するだけでなく、自分でコピーして友達と歌い始めるのに時間はかからなかった。

初めて動くビートルズを見たのはその年の秋だった。広島では東京よりもずいぶん遅れて、新天地にある宝塚会館で映画『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』が公開になった。それを何度も何度も観に行った吉田拓郎は、そのたびに必ず叫び出したいような衝動に駆られていた。

A HARD DAY'S NIGHT

映画館から家に帰ってきた吉田拓郎は、ジョン・レノンに宛ててファンレターを書くことで、抑えきれない胸の内を伝えようと考えた。

――拝啓ジョン ・レノン様 僕はアジアの中の日本という国の広島という街に住んでいる十八歳です。

吉田拓郎はペンを休めてギターを持つ格好で、ジョン・レノンふうに軽く腰を落としてみる。膝を心待ち開き気味にして立ち、膝でリズムを取るように体を揺らす。次にジョージ・ハリスンが「恋する2人」でやっていたように、両足首をスケートのように外側に向かって、軽く放り投げるようにステップしてみる。

――広島にはベンチャーズのようなバンドばかりで、ビートルズのようなバンドはいません。
僕たちも新しい若者の音楽を作りたいと思います。
もうすぐ僕たちは高校卒業して、大学に進みます。
今のバンドは解散して、新しいバンドを組んで、ビートルズのようになりたいと思っています。
自分たちで曲を作って、自分たちで演奏して世界中の若者に注目されたい。
そして、ビートルズと同じステージに立ってみたい。それが僕たちの夢です。
リンゴのスティックの持ち方や首の動かし方まで、映画で見た一人ひとりの動きを思い浮かべてそれを真似てみる。
――ビートルズは、革命だと思います。それまでの音楽を全て変えました。

ファンレターの最後を、吉田拓郎はこうしめくくった。

――遠く日本から応援してます。
そして、いつか僕たちがビートルズを追い越します。
ボールやリンゴ、ジョージにもよろしく。
広島にて、吉田拓郎。

日本のインディーズレーベルのはしりとなるエレックレコードから、吉田拓郎は1970年6月1日にシングル盤「イメージの詩」でデビューする。それはビートルズに出会ってから6年目のことだ。残念ながら追い越そうと目標にしていた相手は、4月に解散が発表になったところだった。

→次回は11月17日更新予定

文 / 佐藤剛
参考文献:田家秀樹著「小説・吉田拓郎 いつも見ていた広島」(小学館文庫)
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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