ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 7

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奇異な現象としてしか受け止められなかった大人たち~音楽の“奇妙な味”と見た目の“奇妙な髪型”で売り出す

奇異な現象としてしか受け止められなかった大人たち~音楽の“奇妙な味”と見た目の“奇妙な髪型”で売り出す

第1部・第6章

日本における発売元だった東芝レコードの資料によれば、1964年2月の「抱きしめたい」と「プリーズ・プリーズ・ミー」を皮切りに、6月15日のアルバム『ビートルズNo.2』まで、4か月で9枚ものシングル盤と2枚のアルバムが発売になっている。短期間でこれだけたくさんのレコードが出たということは、共倒れになったりせずに売れたということにほかならない。

これは邦楽も洋楽もふくめて、前代未聞のリリース・ラッシュである。シングルはともかく、アルバムが2枚は当時としては考えられない発売方法だった。どうしてこんなことが起こったのか、その辺りの事情がわかってくれば、ビートルズの日本デビューをめぐって何があったのかも明らかになるだろう。

当時のレコードは洋楽のシングル盤が330円、邦楽は300円でかなり高価な贅沢品だった。ちなみに中華そば(ラーメン)が50~80円、喫茶店のコーヒーやスパゲッティも、だいたいそのくらいの値段だった。したがってビートルズを知ったティーンエイジャーたちは、そう簡単にレコードを買い揃えるわけには行かなかった。

もちろんレコードのレンタル店などは存在していない時代である。少しでも多くビートルズの音楽に触れるには、友だち同士で貸し借りするか、レコードをかけてくれるラジオ番組に耳を傾けるしか手はない。彼らのことが載っていそうな音楽誌、芸能誌や映画雑誌も、自分で記事を探さなければならなかった。

東北地方のなかでは大都市だった仙台市に住んでいたぼくは、小学校を卒業する間際に友達から教えられて、ビートルズの存在を知ることになった。そしてラジオ「9500万人のポピュラーリクエスト」から流れた「プリーズ・プリーズ・ミー」を耳にして、「これがビートルズなのか!」と思ってゾクゾクした。それと同じ日だったのかどうかまでは定かでないが、福岡県田川郡に住む中学三年生の井上陽水も、その後の人生が決まってしまうほど強烈な衝撃を受けたという。

4月から中学生になったので、小遣いは月に500円に上がった。だが毎週買っていた少年サンデーと少年マガジンだけで、50円×8冊イコール400円が出ていく。残りを貯めたとしても3か月に一枚、シングル盤を買うのが精一杯だった。4月15日に発売されたアルバム『ビートルズ!』は1500円、とても手が出せない高嶺の花だった。

次々に発売されるシングル盤に目うつりして、どれを買ったらいいものか決めあぐねていたぼくが、レコード店に行ったのは夏休みに入ってからのことだ。そしてA面が「抱きしめたい」と「ツイスト・アンド・シャウト」、B面に「プリーズ・プリーズ・ミー」と「シー・ラブズ・ユー」が入って、価格が500円というレコードを見つけた。

ビートルズEP

迷わず買ったレコードには、理想の組み合わせで4曲が1枚に入っていて吃驚した。それは通常の45回転シングル盤(モノラル)ではなく、33回転のコンパクトEP(ステレオ)だった。そういうレコードがあるということを、ぼくはこのとき初めて知ったのだ。

どれもシングル盤のA面曲が揃っていたのだから、とても得をした気分でうれしかった。家に帰ってそのレコードをプレーヤーに乗せて聴くと、どの曲も下半身から頭まで、電流が突き抜ける感じがした。それまで聴いていた音楽にはない、強力なエネルギーの塊のようなものが、自分の体内に生じてきた。ぼくはそれ以来、ビートルズのレコードをコンパクトEPで揃えていくことになる。

しかしビートルズを聴き始めていたぼくは、仲間たちのなかでは少数派に属していた。ぼくと同い歳の作家、松村雄策が著書の「ウィズ・ザ・ビートルズ」のなかで、ビートルズのことを知っているのは”一クラスに二、三人といったところだった”と記している。だがそれは松村が住んでいた大都会、東京での話であって、地方都市の仙台ではもっと比率が低かったように思う。

ビートルズのファンが少数派であったことは、最初に押さえておきたい大事なポイントだ。学校の教師や親たちだけでなく同級生たちからも、奇異な目で見られることがあった。音楽好きで芸能誌の「平凡」や「明星」を読んでいた親戚の女の子たちは、橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の御三家には熱心だったが、外国のバンドにはまるで関心を持たなかった。ビートルズの記事が載っている音楽誌のミュージック・ライフを持ち歩いていたぼくに向かって、2歳年上の従姉妹はご丁寧に「そんなのばかり読んでいると不良に見られるよ」と忠告してくれた。

ビートルズは東芝レコードのオデオン・レーベルから発売されていた。オデオンを担当していたのは、洋楽部のディレクターだった高嶋弘之だった。高嶋は前の年からイギリスのクリフ・リチャードを担当するようになったが、幸先良く「ヤング・ワン」がヒットし、次の「サマー・ホリデー」も立て続けにヒットした。

ヤング・ワン

クリフのレコードは以前、日本コロムビアが発売元だったのだが、日本ではまったく売れていなかった。ところが東芝レコードになったら、急に売れ始めたのである。高嶋は日本のポップス・ファンの目が、イギリスにも向いてきたと感じていた。だがビートルズの音楽は、聴いてもよくわからなかったという。

私がイギリスEMIから送られてきたビートルズの「ラヴ・ミー・ドゥ」「フロム・ミー・トゥ・ユー」を聞いても、すぐに日本でヒットすると考えられなかった。ただそれまでのコーラス・グループには感じられない、奇妙な味だけが印象に残っていた。
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高嶋弘之著
「「ビートルズ!」をつくった男~レコード・ビジネスへ愛をこめて」
DU BOOKS

この感想はミュージック・ライフの星加ルミ子が最初に高嶋に試聴用のレコードを聴かされて、「非常に異質な感じを覚えた」という印象とほぼ同じものだった。それでも1963年の晩秋には「プリーズ・プリーズ・ミー」を、翌年の2月に発売することが会社の方針で決められた。そうなったからには担当者として何らかの話題を作って、マスコミに売り込まねばならない。まずはビートルズの存在を知ってもらう、そのことが先決だった。

そこでヒントになったのは音楽ではなく写真だ。高嶋はビートルズの写真を見て、4人のヘアスタイルが音楽以上に奇妙だと思っていた。そこで音楽の“奇妙な味”と、見た目の“奇妙な髪型”を前面に打ち出す作戦を思いついたのである。

さっそく部下を五反田にある行きつけの理髪店へ連れていって、カツラをかぶせて理容師の手で“ビートルズ・カット”に変身させた。それをスポーツ紙のカメラマンに撮影してもらい、芸能ニュースに仕立てたのである。「早くも現れた“ビートルズ・カット”希望の青年」というネタを考えて、あたかもビートルズ・ブームが来ているかのような記事を書いてもらった。

金をかけられませんから、当時の常務のテーブルに、東芝の若手社員をわっと座らせて、みんな髪の毛は今の僕ぐらいの長さだったんですが、前髪をビートルズのようにして、「東芝全社員ビートルズ・カット」っていう記事を「女性自身」の記者に書いてもらったりね。当時「マッシュルーム・カット」なんて言葉を知らないですからね。それでビートルズ・カット。
MUSICMAN NET「ヒットの法則はビートルズが教えてくれた ビートルズ初代担当ディレクター / プロデューサー 髙嶋弘之氏インタビュー」
 

話題を仕掛けて“現象”をマスコミに売り込むのは、芸能界では常道の宣伝スタイルだ。「イギリスではコンサートで女の子は失神するし、会場もホテルもファンが押し寄せてたいへんな騒ぎです」と、プロモーションに励んだ。「ビートルズ旋風がアメリカでも吹きまくりそうです」と、話題を途切れないように高嶋は雑誌や新聞に売り込んだ。

すると本当にアメリカでは「抱きしめたい」が大ヒットして、64年の年明けからビートルズ旋風が吹きまくったのだ。そのために「プリーズ・プリーズ・ミー」よりも先に、「抱きしめたい」をデビュー盤として発売することが決まった。

抱きしめたい

高嶋はここぞとばかりに「ビートルズ・カットが流行りだしましたよ」「ビートルズ・ルックが売り出されるそうですよ」と、ヒットを出したい一心で、人の伝手をたどって宣伝に注力した。

私は放送局をはじめマスコミの間をビートルズ、ビートルズで歩きまわった。高嶋ビートルズといわれたのはその頃である。自らも高嶋ビートルズといった。中には「何だあいつ。自分を売り込んで」と思う人もいたかもしれない。しかし、私は、営業も、宣伝も、制作もみな同じだと思っている。自分を売り込まなくてどうする。誰が頼りない奴から品物を買うか。誰がいい加減なやつから情報を仕入れるか。話にのるか。何ごとも仕事は人間がする。
(高嶋弘之著「「ビートルズ!」をつくった男レコード・ビジネスへ愛をこめて」DU BOOKS)

幸いにも最初の2枚のシングルは、どちらもヒットした。ミュージック・ライフの洋楽チャートによれば、2月から5月にかけて「プリーズ・プリーズ・ミー」は9位→2位→2位→6位、「抱きしめたい」が16位→9位→1位→3位というランクになっている。初めは「プリーズ・プリーズ・ミー」が先行し、途中で「抱きしめたい」が逆転した形だった。

まだ日本にヒットチャートは存在していなかったが、トップクラスの売り上げだったことは間違いないだろう。1964年5月18日号の「女性自身」には担当ディレクターの高島のことばで、「それぞれ15万枚売れました」と書かれてある。話半分にしても合わせれば15万枚だから、当時にすればかなりのヒットだった。

全国ネットされていた文化放送の「9500万人のポピュラーリクエスト」は、4月の半ばになって、ビートルズがアメリカの業界紙「キャッシュ・ボックス」のチャートで、4月4日付けで1位から5位まで独占したことを伝えた。それを聞いたぼくは興奮して、その日はきっと歴史に残る日になるだろうと思った。

ところが快挙を伝えるDJの小島正雄の口調は、いつものように淡々としていた。しかもビートルズのことを「変わった髪形、変わった服装をしたグループ」だと言った。ビートルズの音楽について、小島がさほど関心を持っていないことがわかった。それが気になってしまい、聴いていてもどこか歯がゆい思いがしたのを覚えている。(注)

ビートルズ風の襟無しスーツを着た東芝レコードの社員たちが、有楽町や銀座を歩いて宣伝したのは、6月に入ってからのことだった。これは高嶋が西銀座デパートにあった洋服店、「京橋テーラー」にかけ合ってビートルズの音楽が日本でヒットしたら「すごいことになる」「洋服の権利をあげる」と煽りたてて、ノーブル・キャッスルの襟なしジャケットのスーツを製造販売するタイアップの成果だった。

宣伝用に30着のスーツを提供してもらった高嶋は、さっそくセールスマンや宣伝マンに着てもらうと、マスコミに売り込むため街を歩かせて記事に仕立てた。そのお返しにレコードのジャケットを見開きにして、そこに「京橋テーラー」の広告を掲載している。またレコードの購買者の中から抽選で、10名にプレゼントするという企画も実施したのだ。

レコード・コンサートを開催したときも、高嶋は招待した女子高生たちのなかから、一部の生徒たちには合図に合わせて「キャー!と叫ぶように指示した。そしてビートルズのファルセットが聞こえるところで合図を出し、『キャー!』という叫びをくり返させたのだ。レコードを聴き終わって帰る頃には、全員が『キャーー!!』となったという。

日本におけるビートルズはマスコミ発の突然変異的な現象として、奇妙なヘアスタイルやスーツとともに世間を賑わせた。高嶋は自分にこう言い聞かせていたという。

「ビートルズは突然変異なんだ」
「既成の音楽概念でビートルズをとらえようとしても無理なんだ」
「いい悪いはいってられないんだ。突然変異なんだから」
(高嶋弘之著「「ビートルズ!」をつくった男レコード・ビジネスへ愛をこめて」DU BOOKS)

こうした売り出し方のおかげで、当時の大人たちには“髪が長い”イコール“不潔”、“突然変異”イコール“理解不能”というように、どちらかというとネガティブな印象が与えられたのだ。そのために1966年の春、来日公演を行われることが明らかになった途端に、そうした記憶や話題がよみがえって、大人たちから危険な存在だと見られたところもあったことは否めない。

(注)名門ジャズバンドであるブルー・コーツのバンドマスターだった小島正雄は、音楽家として活躍した後にジャズ評論家となった。落ちついた話しぶりで司会者の道へと活動の幅を広げたが、当時すでに50歳だった。日本を代表するコーラス・グループ、ダークダックスやボニージャックス、スリー・グレイセスの育ての親ともいわれる。

→次回は11月21日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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