佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 116

Column

アメリカを目指した日本の女性たち~先駆者となった歌手のナンシー梅木、ジャズ・ピアニストとして大成した秋吉敏子

アメリカを目指した日本の女性たち~先駆者となった歌手のナンシー梅木、ジャズ・ピアニストとして大成した秋吉敏子

戦後まもない日本のジャズシーンでトップ・シンガーだったナンシー梅木が、アメリカのショウ・ビジネス界で活動をするために単身で渡米したのは1955年のことで、その時は26歳であった。

それから1年後、ジャズ・ピアニストの秋吉敏子も同じく26歳で渡米し、日本人として初めてボストンのバークリー音楽院に奨学生として入学した。

それ以来、梅木も秋吉も日本に戻ってくることはなく、アメリカという新天地に根を下ろして活動を行っていく。
本気になった女性の海外進出は当時から、男性をしのぐものがあったといえるだろう。

この二人が日本のジャズ・ブームの時代に、どういう状況にあったのかについて、ジャズ専門誌のスイング・ジャーナルに載った、当時の人気投票を調べてみた。

日本のジャズ・ブームがピークを迎えたのは1953年で、ジョージ川口が中村八大、小野満、松本英彦と4人でスーパーグループの「ビッグ・フォー」を結成して、まさに人気が沸騰していたことがまずわかった。

1953年S.J.のオール・スター決る!

ドラム
1. ジヨージ川口    1826
2. フランキー堺    1019
3. 南広         947
4. 白木秀雄       490
5. デヂイ岩田      398

ピアノ
1. 中村八大       1480
2. フランシスコ・キーコ  945
3. 秋吉敏子        938
4. 寺岡真三        820
5. 松井八郎        605

ベース
1. 小野満     1425
2. 渡辺晋      941
3. 小原重徳     757
4. 松田孝義     562
5. 井出忠      507

テナー
1. 松本英彦    2071
2. 与田輝雄    1504
3. 厚母英雄    1273
4. 吉屋潤      381
5. 染谷一孝     337

女性ヴォーカル
1. ナンシー梅木    2014
2. ペギー葉山     1348
3. 新倉美子       649
4. 富持登美子      466
5. 江利チエミ      453

ビッグ・フォーのメンバーは全員が各部門のトップにいたが、ピアノ部門では秋吉敏子が3位にまで上がってきた。

ちなみに人気バンドの渡辺晋とシックスジョーズからビッグ・フォーに参加した中村八大の後任として、日本に駐留していたアメリカ兵でジュリアード音楽院を卒業したレニー・パブロが選ばれた。

だが軍隊の公務で休むことが多かったので、その代わりにトラ(エキストラの意味)としてしばしば弾いていたのが、実力を認められていた秋吉敏子だったという。

女性ヴォーカル部門で1位だったのはナンシー梅木である。

しかし前年に13歳でデビュー曲の「テネシーワルツ」をヒットさせた江利チエミが、5位に上昇してきたことで、新旧交代が近づいていた。

意を決して本場のアメリカにわたった梅木は、1956年にCBSテレビの『アーサー・ゴドフリー・ショウ』に出演し、着物姿で英語の歌を唄ったことで注目を集めた。
名前もミヨシ・ウメキに改めて、日本人であることを全面に打ち出していったのである。

それを見ていた映画監督のジョシュア・ローガンによって、彼女はハリウッドでスクリーン・テストを受けることになり、マーロン・ブランド主演の映画『SAYONARA(サヨナラ)』に唄える女優として抜擢された。

1957年に公開されたこの映画でデビューを飾った梅木は、アカデミー助演女優賞を受賞したが、これは東洋人の俳優としては初の快挙となった。

その年にはマーキュリー・レコードからアルバム『Miyoshi Umeki: Miyoshi Sings for Arthur Godfrey』を発表し、英語と日本語を交えて日本とアメリカの曲を唄っている。

翌年にはセカンド・アルバム 『Miyoshi』も発表し、ブロードウェイ・ミュージカル『フラワー・ドラム・ソング』 にも出演した。

そこからトニー賞のミュージカル部門最優秀女優賞にノミネートされたが、残念ながら受賞を逃している。
だが1961年に映画化された際には舞台と同じ役を演じたのだから、梅木ほどアメリカのショウ・ビジネス界で成功した日本人はいない。

そんな梅木が日本で活躍していたときに最もお気に入りだったピアニストが、ビッグ・フォーの中村八大である。
梅木は東京の一流クラブに出演するときは可能な限り、中村八大に歌の伴奏を依頼していた。

中村八大が日本人として初めて海外でヒット曲を出したのは、1963年の春から夏にかけてのことである。
作曲と編曲を手掛けて坂本九が唄った「上を向いて歩こう」が、アメリカのヒットチャートで3週連続1位に輝いたのだ。

タイトルこそ「SUKIYAKI」になったが、坂本九が唄った日本語のままヒットしたのだから、これは日本の音楽界にとって実に画期的なことだった。
「SUKIYAKI」はその後、英語でもカヴァーされて何度もヒットしたことによって、日本の楽曲が世界に通用することを証明したのである。

ニューヨークを拠点に世界で活躍する日本人ピアニストの先駆者となった秋吉敏子は、1929年に旧満州の遼陽で生まれた。
小学1年生のときにモーツァルトの「トルコ行進曲」に憧れて、ピアノを習い始めたが15歳で終戦を迎えた。

そして1年後に大分県に引き揚げた後に、別府にあった駐留米軍用のダンスホールのピアノ弾きとして、早くも大人に混じって仕事を始めている。

18歳になった1948年にはプロになるために上京し、ジャズの世界に飛び込んで、様々なセッションで腕を磨いて頭角を現していった。

彼女自身がリーダーとなるコージー・カルテットを結成したのは1951年で、若き日の渡辺貞夫もメンバーだった。
しかしジャズ関係者の間では高い評価を得たものの、日本人客を相手にしたジャズ・クラブでは、本格的なジャズがまったく受けなかった。

もっと客が楽しめる演奏をするようにとクラブ側が指示しても、リーダーの秋吉は「本当のジャズじゃない」と拒否したために、仕事の現場が減ってきてバンドを維持することに苦労が絶えなかった。

そうした局面が一挙に変わったのは1953年11月、アメリカから超一流の名手たちを引き連れて、ノーマン・グランツ率いる「Jazz At The Philharmonic」が来日したことによるものだ。
戦後の日本にやってきた本場のジャズの一団には、エラ・フィッツジェラルドやオスカー・ピーターソンというトップクラスの歌手やミュージシャンが参加していた。

その機会にオスカー・ピーターソンに才能を見いだされて、彼のバンドのメンバーを中心に急遽、レコーディングが行われた。
アメリカの超一流のメンバーを率いる若き23歳の日本女性として、最初のアルバム『Toshiko』はアメリカで紹介された。

これをきっかけにしてアメリカで学ぶことを薦められたことから、秋吉は1956年に渡米してボストンのバークリー音楽院に奨学生として入学した。
卒業後はニューヨークで活動を始めて、1962年10月には最先端のジャズを実践していたチャールズ・ミンガスのバンドにも参加している。

そのあとで西海岸に移って現在の伴侶であるサックス&フルート奏者、ルー・タバキンと出会って1969年に結婚し、公私ともにパートナーとなった。

やがて1973年に秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグ・バンドを結成すると、それ以後は30年間にわたって、大所帯のビッグ・バンドを運営し続けた。
またトリオやカルテットなどのコンボ演奏も続けて、作曲や編曲を手がけて精力的な音楽活動を繰りひろげてきた。

その秋吉敏子とルー・タバキンのデュオ・コンサートの模様を収録した2枚組のアルバム『秋吉敏子&ルー・タバキン The Eternal Duo!』が、10月30日に発売されたのでじっくり聴いてみた。

これは同じバンドでの活動50周年を記念して、2018年9月15日に東京文化会館小ホールで行われたもののライブ盤である。

Disc-1は昼公演を収録したCD音源、Disc-2は夜の公演に加えて、コンサート来日前にニューヨークの自宅で行われた二人のロング・インタビューが収められたBlu-ray映像となっている。

オープニングはアメリカに渡って4年目に書いた曲で、今でも弾き続けている代表曲の「ロング・イエロー・ロード」から始まった。
この大作を聴いていると、日本人のアイデンティティをジャズという音楽の世界のなかで、生涯をかけて表現してきたことがあらためて感じられた。

江戸時代の花魁をテーマにした2曲目の「花魁譚」から、最後の組曲「広島-そして終焉から」の「HOPE(希望)」に至るまで、志が一貫していることにも今さらながら驚嘆させられた。

アンコールで披露された日本の楽曲「月の砂漠」にも、得も言われず深く感じ入るものがあった。

もうすぐに現役のまま90歳を迎える偉大なるジャズの先駆者に、ぼくは心の底で静かに拍手を送った。

秋吉敏子の楽曲はこちら

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

ウェルカム!ビートルズ 1966年の武道館公演を実現させたビジネスマンたち

著者:佐藤剛
ボイジャー

ビートルズ来日をめぐる人間ドラマを丹念に描く感動のノンフィクション。

1966年のビートルズ来日公演、それは今になってみれば、奇跡的といえるものだった。いったい誰が、どのようにしてビートルズを日本に呼ぶ計画を立てて、それを極秘裏に進めて成功に導いたのだろうか? これは日本の経済復興の象徴だったリーディング・カンパニーの東芝電気と、その小さな子会社として生まれた東芝レコードにまつわる、歌と音楽とビジネスをめぐる物語である。

vol.115
vol.116
vol.117