佐藤剛の「会った、聴いた、読んだ」  vol. 117

Column

「ロックは滅びるのか」という新聞記事から、ビリー・アイリッシュのこと、阿久悠のことについて考えた

「ロックは滅びるのか」という新聞記事から、ビリー・アイリッシュのこと、阿久悠のことについて考えた

11月18日の朝日新聞「ロックは滅びるのか」という記事によれば、アメリカでは2017年に「ヒップホップ/R(リズム)&B(ブルース)」の売り上げが「ロック」を超えたと書いてあった。
これまでに「ロックは死んだ」と何度も言われてきたが、なんとか21世紀まで続いてきたのだから、ロックはどうなってしまうのかという記事には、今でも人々の関心を引くものがあるのだろう。

だがSNSでの反応を見ていると、それほど話題になっている様子は感じられなかった。
日本ではとうの昔に過去のものになっているのかもしれないし、もしかすると新聞もまたロック同様に、影響力がなくなってしまったとも考えられる。

ロックのもとになったロックンロールは、音楽のスタイルとも深く結びついていた。

だが、時代とともに進化していったロックは、次第にスタイルから自由になっていった。
それでもロック的な生き方はいつの時代になっても、決してなくならないという考え方は根強い。

そう考えると世界で話題になっている10代のシンガー・ソングライター、ビリー・アイリッシュのことを「ロックだと思う」という声が多いことに納得がいった。

彼女は子供の頃からヒップホップに影響を受け、エレクトロポップなど最新の音楽とささやくような歌声で、世界中に幅広いファンを広げている。
笑顔をあまり見せないのは、女性にそれを強いる社会への反抗だという。

伝説のロックバンド、ニルヴァーナのデイヴ・グロールが「彼女は本物だ。俺はそれをロックンロールと呼ぶ」と、自身のインスタグラムに投稿したことをぼくはこの記事で初めて知った。

そうしたことを踏まえて、朝日新聞の記事はこう締めくくられていた。

日本ではまだまだ元気だ。例えばワンオクロックやバンプ・オブ・チキンはドームやアリーナでライブを行う。あいみょんの「君はロックを聴かない」も実はロックに否定的な歌ではない。主人公は「君」に聴かせようとするほどロックを愛しているのだ。

そこでぼくが思い浮かべたのは、1960年代の日本のロック黎明期のことだった。
昭和の時代を象徴する歌謡曲の作詞家だった阿久悠が、プロの作詞家として初めて頼まれた仕事は、1967年にモップスに提供したデビュー曲「朝まで待てない」他のために書いた6曲だった。

アニマルズなどの洋楽をカバーした6曲とともに、阿久悠が作詞したオリジナルも6曲収録されたファースト・アルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』は、1968年4月に発売されている。

モップスは振れることなく日本でロックを追求した数少ないバンドで、近年は海外でも評価が高まっているときく。
そのアルバムを赤ちゃんの時に聴いて育ったのが、阿久悠の長男だった深田太郎氏である。
1965年生まれの深田氏は著書のなかで、「幼い頃、母親が子守唄がわりに、ザ・モップスのファースト・アルバムを家でガンガンかけていた」という体験を語っている。

子守唄というのは少々オーバーだが、この体験が私の一番古い音楽の記憶であることは間違いない。たしかLPレコードではなくオープンリール・デッキで聴いていた気がする。まだレコード発売前だったのだろう。
父曰く、私はこのアルバムの中の「孤独の叫び」というアニマルズのカバー曲をよく真似して大声で歌っていたらしい。ボーカルの鈴木ヒロミツ氏の声は、幼い私には獣の咆哮のように聞こえていたのではないだろうか。
(深田太郎『「歌だけが残る」とあなたは言った――わが父・阿久悠』河出書房新社)

そもそもロックンロールの影響が大きかったことについて、阿久悠は出会った1955年を振り返ってこう述べていた。
この文章からは彼がロックンロールをどう受けとめたのかという、音楽を受容する感性の鋭さが伝わってくる。

都会に出てきて、最初に出会った流行がロックンロールだったという意味は大きかった。上京が一年早かったら、とても少ない可能性ではあるが僕は労働歌を歌っていたかもしれない。
僕より二、三歳上の人たちと話すと、ロックンロールの登場それほど大きな転換期だとは解釈していない人が多いようだ。僕自身、ロックンロールが流行ったからといって、決して演奏する側に行こうとは思わなかったが、それでも出会いの衝撃がその後の道に少なからぬ影響与えたことは確かだった。毎年毎年何かが起こる。その何かを突き抜ける風と受けとめるか、突き刺さるナイフと感じるか、それは世代の感性なのだ。
(深田太郎『「歌だけが残る」とあなたは言った――わが父・阿久悠』河出書房新社)

ロックンロールという音楽には古くからの権威や慣習を叩くというイメージとサウンド、そして心の叫びが内包されていたのであろう。
阿久悠にとって作詞家としての原点は、「若者はいつも拒絶される」という思いだった。


だから若者を拒絶する大きな力に立ち向かおうとする気持ちを、なんとかして歌詞に落とし込もうとしていたのだ。

そういう意味では、とくに作詞家として成功する直前の阿久悠は、日本で最初の「ロック詩人」でもあったといえる。

やはり大切なのはロックというスタイルではなく、ロックという生き方だと、ぼくは当たり前のことを思い直していた。

ビリー・アイリッシュの楽曲はこちら
『「歌だけが残る」と、あなたは言った――わが父、阿久悠』

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。
久世光彦のエッセイを舞台化した「マイ・ラスト・ソング」では、構成と演出を担当。
2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長。現在は顧問。
著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)、『ウェルカム!ビートルズ』(リットーミュージック)

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著者:佐藤剛
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