Interview

松山ケンイチが村山聖の生き様を熱演。森義隆監督の『聖の青春』

松山ケンイチが村山聖の生き様を熱演。森義隆監督の『聖の青春』

弱冠29歳の若さで亡くなった実在の天才棋士、村山聖の生き様を描いたノンフィクション小説を実写映画化した『聖の青春』。映画では聖の最期の4年間にフォーカス、ライバルや仲間たちと共に将棋にすべてを賭けていく聖の姿を丹念に描いていく。病に翻弄されながらも闘志を燃やし続けた村山聖を鬼気迫る役作りで演じ切った松山ケンイチと、聖のライバルであり、憧れの存在であり続けた羽生善治を演じた東出昌大による、運命と対峙するような対局シーンの数々はすでに各方面から絶賛されており、早くも今年度ナンバー1との呼び声も高い。本作の監督を務めたのは、『ひゃくはち』(08)、『宇宙兄弟』(12)で高い評価を獲得した森義隆。この原作の映画化を熱望し、長らく企画を温め続け、ようやく完成に漕ぎ着けたという苦労話や、撮影時のエピソードなどを伺った。

取材・文 / 大谷弦

村山さんの魂の形を表現するべきだと思ったときに、絶対に取材ができない部分にこそ肝がある

映画の完成まで時間がかかったということですが……。

企画からは8年くらいかかっています。“将棋”というのが入り口である以上、作品として成立するまでに苦労する時間はありました。ただやっぱり“村山聖”という人間の生き方や、彼が提示してくれるテーマ性というのはものすごく間口の広いものなので、やるなら大きく、多くの人に知ってもらう物語にしなきゃいけない、というのはすごく考えていましたね。逆に言うと、将棋ですから、すごくストイックに企画していけばお金をかけないで作れたとは思うんですけど、そういうミニ・シアター的な作品を狙ってこのテーマを扱ってもしょうがないので、当初から大きな間口を持ったエンターテインメントを目指すということは、プロデューサーとも共有して進めてきました。

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撮るタイミングがきた、と思ったのはいつぐらいですか?

やっぱり、松山(ケンイチ)くんが手を挙げてくれた瞬間が大きかったと思います。それまでにもいろいろ紆余曲折はあったんですけど、大きな流れがきて「今だ、撮るぞ!」っていうのが一昨年ぐらい。撮影が1年半前くらいから動き出したという感じでした。流れという意味では、将棋の認知度が上がってきたというのもあったと思います。WEBで将棋を打てるようになったり、ニコ生でみんなが対局の中継を観戦できるようになったり。漫画でも『3月のライオン』の大ヒットがあったり、少年誌でも将棋漫画が増えたり、(企画が開始した)8年前に比べると、将棋を取り巻く環境というのが変わったと思いますね。

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やっぱり松山さんが聖を演じるということで、映画の全体像が見えてきたということがありましたか?

松山くんが自分から手を挙げてきてくれたということで見えたものはありました。こういう役柄ですし、生半可な撮影ではないということは向こうもわかるじゃないですか。そこに自分から挑んできた。しかも、彼は当時30歳で、29歳で死んだ村山聖という人間を演じたいということは、俳優としてきっと確固たる理由があるんだろうと思いました。だったら、30歳の松山くんに、29歳で死ぬことを、映画の中で本当に体験してもらう。それは今30歳の彼でしか表現できないものに繋がるだろうなという確信があったんです。

年齢的な符合もひとつの決め手だったんですね。

8年前に企画を立ち上げたときは僕が29歳だったんですよ。もう37歳になっちゃったわけですけど、でも、あのときの自分も29歳で死ぬってどういうことなんだろうということを考えたし、映画を通じて、監督として探究してみたいって思ったんですよね。だから松山くんも同じような感覚みたいなのがあるんだろうなと思いました。逆に8年経ったことで、僕は原作者の大崎(善生)さんがこれを書かれた時期の年齢になっているんですよね。

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運命的なものも感じますね。

はい。そして、聖をやるなら、“松山ケンイチ”という30歳の人間をこの役にすべて捧げてほしいと思いました。全部使い果たして、俳優の魂が燃え尽きた先のものを映画の中に取り込めれば、というイメージは、脚本構成を作る前から脚本家と共有していたことなんです。とにかくこの題材、この人物でやるにあたって、どういうストーリーがあったにしても、最後に俳優の魂が燃え切って、白い灰になるようなビジョンっていうのが我々の中にあったんです。どんどんいろんなものが削ぎ落とされていって、最後に村山聖のものとも、俳優のものともいえる、混沌とした魂の燃焼みたいなものが、映画の中にふっと残るというイメージでした。

松山さんが演じた村山像というのは、すごく自然で、なおかつ鬼気迫るものがありました。実在感が伝わってくるような。

“実在感”という意味では、実は松山くんも僕も、どうしたって村山さんには会えないんですよ。師匠や両親や羽生さん、あらゆる方から “村山像”というのを聞いて回ったんですけど、主人公にだけ取材できない構造なんですよね。そこがこの映画のアプローチの中で面白かったところで、いくら周りを固めて、いろんな村山さんの多面性を聞いていっても、誰も知らない村山さんの孤独な何かが絶対あったと思うし、師匠にも両親にも見せなかった顔があるはずだ、と。逆にそれは、映画の中で我々が想像して、フィクションとしてアプローチすべき唯一の部分だと思ったんです。この映画はノンフィクションだけれども、村山さんの事実を事実どおり描いていこうとするのではなくて、村山さんの魂の形を表現するべきだと思ったときに、実はその絶対に取材ができない部分にこそ肝があって。それを込めたのが、定食屋での羽生さんとの向き合い方だったり、村山さんが孤独に街を彷徨うところだったりで。本人不在だからこそ、必然的に映画にとって重要な部分になっていったという感じなんですよね。

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リサーチも徹底されましたか?

やっぱり村山さんの話を聞いて回るのは当たり前のことでした。今この世の中に残っている村山さんの情報をすべてかき集めたうえで、どうフィクションを作るか。僕たちは村山さん本人ではないので、嘘は必ずつくことになります。だけど、その嘘を作るためにどれだけのことを知っているかというのが大事で、何も知らない人がつく嘘と、可能な限り知ったうえでつく嘘って違うと思うんですよ。嘘というと言葉があんまり良くないですけど、想像、フィクション、創作をどこに入れるかということにはすごく慎重になりました。あとは、今、会える人に対してどうするか、ということも難しくて。役者を演出するにあたって、東出くんを羽生さんに会わせるべきかとか、村山さんを知る人たちに松山くんをどれだけ会わせるかということはすごく神経質に考えましたね。基本的に、松山くんにはみんなに会ってもらったけど、あえて羽生さんだけには会わせなかったし、東出くんは羽生さんにだけしか会わせなかった。この物語に出てくる人たちが目の前にいるわけですから、役作りするにあたってものすごい影響力になるので、その組み立てはすごく頭を使いました。

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