ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 9

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ビジネスマンというよりは物静かな学者タイプだった石坂範一郎~偉大なミュージックマンにして東芝レコードの実質的な創始者

ビジネスマンというよりは物静かな学者タイプだった石坂範一郎~偉大なミュージックマンにして東芝レコードの実質的な創始者

第1部・第8章

石坂範一郎(上の写真右の人物)はビートルズの来日公演が行われた1966年には、東芝レコードすなわち東芝音楽工業株式会社の専務取締役の職にあった。またビートルズの音楽著作権を日本で管理する、東芝音楽芸能出版株式会社の社長を兼務していた。

当時の東芝レコードは社長が空席で、代表取締役会長の久野元治が経営責任者という体制だった。石坂と久野会長の二人は、日本で6番目にできた大手レコード会社において、実質的な創始者といえる存在でもあった。

名門大手電機メーカーである東京芝浦電気株式会社(東芝)の社長だった石坂泰三の肝いりで、総務部の中にグラモフォーン建設部が発足したのは1954年の春のことだ。東芝はその前年12月、イギリスに本社があるEMIとHMVレーベルの原盤契約を結んでいる。これは泰三から指示されて取締役の久野が手がけた仕事で、レコード事業に参入する最初の第一歩となった。

1954年の秋には出向先の日本ビクターで洋楽部長をつとめていた石坂が、東芝に戻ってきてグラモフォーン建設部に入った。こうして体制を整えて翌55年9月に最初にクラシックのレコードを発売したのが、東芝レコードのスタートとなった。だがこの時点でレコード産業に従事したことがある社員は、石坂を除いて誰もいないという状態だった。まったくゼロからのスタートだったために、石坂が企画課長と販売課長を兼任することになった。

まもなくグラモフォーン建設部は音楽事業部へと昇格し、やがてレコード事業部と改められることになる。そして1960年10月1日、東芝音楽工業株式会社として独立する。そこで文芸部長になっていた石坂は、常務取締役の肩書がついて経営者の一員となり、制作と宣伝を統括する立場を任された。

石坂はそこからの10年間、制作と宣伝の責任者として常に前線で指揮を執っていく。いま風の肩書で言えばエグゼクティブ・プロデューサーということになるだろう。

1906(明治39)年9月21日生まれの石坂は、慶應義塾大学の経済学部に入り、後に塾長を務めた小泉信三から経済学の教えを学んだ。石坂は言語学に秀でていて、英語とドイツ語、それにラテン語が堪能だった。東西古今の書物を原書で読んで教養を身につけた、典型的な明治生まれの知識人だった。またキングズ・イングリッシュを流暢に話した。シェークスピアなどの英国文学にも親しんだ国際人であるところもふくめて、泰三とは共通しているところがある。

石坂の専門はクラシック音楽で、とりわけフルトヴェングラーには造詣が深く、音楽評論家も及ばないほど精通していた。映画評論家であり、画家としてもヨーロッパ映画の名作ポスターを多数描いたことで知られる野口久光は、「ビジネスマンというよりは物静かな学者タイプ」で、英国紳士のようだったと、石坂の印象を記している。

そのスマートさと調った容姿からにじむ威厳に圧倒される感じでしたが、物腰がやわらかく、音楽の話がはずむとすぐに友達同士のような気持ちになれたのでした。
以前は、音楽といえば、クラシックのことで、ポピュラーは音楽としての市民権を持っていないといえるくらいで、石坂さんはポピュラーに対しておよそ偏見をもっておられなかったのも私にとってはうれしいことでした。
とにかく、音楽について、蓄音機について、そしてもちろんレコードについてよく知っておられ、とくに海外事情にくわしい石坂さんは私にやさしい先生だったともいえます。
レコードの歴史

ローラン・ジェラッド著/石坂範一郎訳
「レコードの歴史~エディソンからビートルズまで」
音楽之友社

東芝および東芝音楽工業で石坂が活躍したのは1955年から71年まで、16年余りの期間である。その間になし得た最もエポックメイキングな仕事のひとつに、坂本九が歌った「上を向いて歩こう」を世界中で大ヒットさせたことがある。

日本で生まれた楽曲でも良質なものは海外で通用する、石坂はそう信じてこの曲を世界のマーケットに投入しようと試みた。それまでのレコード会社が発想すらしなかった挑戦に向けて、まず東芝音楽工業の子会社だった東芝音楽芸能株式会社を1962年に定款変更し、社名を東芝音楽芸能出版株式会社にあらためた。それは将来性のある著作権ビジネスの分野に進出するためだった。

そして楽曲として「上を向いて歩こう」を欧米の先進国に売り込んだ成果として、フランスやイタリアなど5カ国で坂本九のレコードが発売された。次にイギリスでケニー・ボール楽団によって、ジャズ・インストゥルメンタルでカヴァーされた。そのシングルが「SUKIYAKI」で、1963年2月に全英チャートで10位まで上昇するヒットになった。

それから3か月後、今度は坂本九が歌う「上を向いて歩こう」が日本語のまま、アメリカで5月に発売になった。本人のプロモーションなどは全く行われなかったにもかかわらず、「SUKIYAKI」と名付けられた「上を向いて歩こう」は大ヒットを記録、6月15日から3週間連続で全米チャート1位の快挙を達成したのである。さらにはアメリカでの成功をきっかけに、「SUKIYAKI」は世界中の多くの国々で大ヒットした。

ビートルズがアメリカで大成功を収めたのは、それからわずか半年後のことだった。「抱きしめたい」が全米チャート1位を獲得している最中、2月7日にビートルズはニューヨークのジョン・F・ケネディ空港に降り立った。そこからは『エド・サリヴァン・ショー』への3週連続のテレビ出演、さらにワシントンD.Cやニューヨークでのコンサートによって空前のブームを巻き起こした。

その勢いは本国のイギリスにも勝るとも劣らないもので、アメリカ発のビートルズ旋風は全世界に吹き荒れることになった。坂本九の「SUKIYAKI」とビートルズの「抱きしめたい」に共通するのは、発売したレコード会社がロサンゼルスに本拠を置くキャピトル・レコードで、担当したA&Rも同一人物のデイヴ・デクスター・ジュニアだったことだ。

かつてジョージ・マーティンがプロデュースしたロン・グッドウィンの曲に「スウィンギング・スウィートハーツ」と名付けて発売したデクスターも、ヒット曲を探し出す“黄金の耳”の持ち主だった。

デクスターは1959年の夏に一度だけ、日本を訪問したことがある。東京芝浦電気のレコード事業部は、その年の8月1日にキャピトルと原盤供給契約を交したところだった。デクスターはそのタイミングに合わせて、フィリピンと日本のマーケットを視察する目的で来日したのだ。

石坂と二人で初めて会って話した時の写真が、アメリカの大学のコレクションに残されている。

Dave E. Dexter, Jr. Photo Collection (Photo Album: Manila, Philippines, 1959)
※PDFの4ページ目、pa-76がデクスターと石坂の写真

英語が自在に話せて音楽の教養が深い石坂と出会ったデクスターは、帰国した後も常に連絡を取り合う関係になっていく。この二人のつながりによって生まれたインストゥルメンタル・アルバムが、1961年8月にキャピトルが発売した『レイニー・ナイト・イン・トーキョー』だ。

銀座4丁目の雨にぬれた夜景がイラストで描かれジャケットのアルバムには、「越後獅子」や「木曽節」「よさこい節」などの純邦楽と民謡が10曲、クールなタッチのジャズ・アレンジで収録されていた。“雨の夜こそ優雅な日本情緒がふさわしい”と書かれたライナーノーツには、多才な東京の音楽家として中村八大が紹介されていた。

「上を向いて歩こう」の作曲とプロデュースを行った中村八大は、すでにアーティストとして1961年にアメリカに進出していたのだ。「SUKIYSKI」が世界的にヒットした背景には、こうした石坂とデクスターのネットワークがあったことがわかる。

Rainy Night in Tokyo

ところで坂本九の歌う「上を向いて歩こう」がなぜ日本語のままアメリカでヒットしたのか、その詳細は長い間、あいまいなままにされていた。だがデクスターのなかでなにかが急にひらめいて、半信半疑のままテスト盤を作って放送局に送ったことで、ラジオのDJやリスナーたちに発見されて、自然にヒットしたことがわかった。

それは6年前にジョージ・マーティンがプロデュースした「スウィンギング・スウィートハーツ」を、見つけ出して発売したときのひらめきと同じだった。デクスターは自伝にこんな回想を記しているのだが、そこには突然変異という言葉が使われている。

私は「SUKIYAKI」にあって他の曲にないものが何なのか、未だにわからない。ある特別なムードなのだろうとは思う。だけど(坂本)九のその後のレコードには、それがなかった。二、三曲はトライをしてみたんだが、ほとんど売れなかった。 もう何年もの間、彼の名前を聞いていない。彼もまた時々現れる突然変異、一発屋に終わってしまったんだ。

PLAYBACK

デイヴ・デクスター・ジュニア著
「PLAYBACK」
Billboard社

日本におけるビートルズの宣伝にも使われた「突然変異」という言葉にも、不思議なつながりを感じさせられた。残念ながらデクスターの言葉にあるように、坂本九は一発屋に終わってしまった。しかし楽曲の「SUKIYAKI」はその後も1981年と1995年に、英語詞によるカヴァー・ヴァージョンがヒットして、全米ヒットチャートのトップ10入りを果たしている。

そしてどちらも全米レコード協会(RIAA)認定のゴールド・ディスクを受賞したのだった。ちなみに最初にヒットしたテイスト・オブ・ハニーは、デビュー曲「今夜はブギ・ウギ・ウギ」がいきなり全米No.1ヒットとなり、グラミー賞で新人賞に選ばれた女性2人+男性2人のソウル・グループだったが、発売元はやはりキャピトルだった。

→次回は11月28日更新予定

文 / 佐藤剛
「PLAYBACK」翻訳 / 五十嵐正、原田卓
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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