vol.10 ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち

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日本を代表するミュージシャンやシンガー・ソングライターが続々と登場~ビートルズ・フォロワーとして最初に飛び出したザ・フォーク・クルセダーズ

日本を代表するミュージシャンやシンガー・ソングライターが続々と登場~ビートルズ・フォロワーとして最初に飛び出したザ・フォーク・クルセダーズ

第1部・第9章

ミュージック・マンとして石坂範一郎が成しとげたもうひとつの大きな仕事は、ビートルズを日本で成功させたことにある。

設立から2年後に思わぬ経営危機に陥ってしまった東芝音楽工業を、ビートルズの売上と勢いで再建にこぎつけて、1965年からは近代的なレコード会社として、大きく成長させることが出来た。さらには来日公演を行ったことによって、イギリスやドイツ、アメリカにも引けをとらない熱心なファンを育てて、そこから多くのフォロワーを世に送り出したのだ。

それらフォロワーたちの中から吉田拓郎や井上陽水を筆頭に、日本を代表するミュージシャンやシンガー・ソングライターが続々と登場してきた。そのさきがけが1966年の後半にデビューしたワイルドワンズと、翌67年に爆発的にブレイクしたザ・フォーク・クルセダーズだった。どちらも東芝レコードの洋楽レーベル、キャピトルからデビューしている。

 

それらの動きがきっかけで一大ムーブメントとなり、日本の音楽シーン及び音楽業界のビジネスモデルを一新させていく。やがて彼らの中からも優れたソングライターやプロデューサーが育っていったのだ。

そうした結果をみるにつけてもビートルズの来日が、日本の音楽界に与えた衝撃はまさに“ビッグバン”だったことがわかった。これもまたミュージックマンとして石坂が残した、偉大なる功績だと言ってもいいだろう。

ワイルドワンズについては後に触れるとして、まずは京都の大学生だった加藤和彦と北山修を中心に結成されたグループ、フォーク・クルセダーズ(フォークル)についてビートルズとの関わりを解説していきたい。

ハレンチ

1965年から2年ほどアマチュアで音楽活動をしていたフォークルは、メンバーが就職活動するなどの事情で67年の秋に解散することになった。最後のライブが10月25日に開かれた、第1回「フォーク・キャンプ・コンサート」である。そのときに活動の総決算として、北山の提案で自主制作盤のアルバム『ハレンチ』が作られた。

そのレコードはわずか50枚ほどしか売れなかったらしい。だが北山が宣伝のために地元の放送局に持ち込んだことから、「帰って来たヨッパライ」が“変な歌”として発見されることになった。神戸の関西ラジオで流されたことでリスナーからリクエストはがきが殺到して話題になり、「帰って来たヨッパライ」は電話リクエストの番組で1位に躍り出て、一躍センセーションを巻き起こしたのである。

まだ設立されて間もなかった音楽出版社のパシフィック・ミュージック(PMP)は、ニッポン放送の子会社である。そこの新入社員だった朝妻一郎は音楽評論家の木崎義二に、「帰って来たヨッパライ」のことを教えられた。当事者だった朝妻が最近のコラムで、経緯について明らかにしている。

1967年の11月だったと思う。音楽評論家の木崎義二さんがニッポン放送の5階にあった、パシフィック音楽出版のオフィスに顔を出し、“今関西でこんな面白い曲が流行っているんだ”といって聞かせてくれたのが、フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」との初めての出会いだった。木崎さんが神戸にあるラジオ局、ラジオ関西でしゃべっていた電話リクエスト番組で圧倒的な人気を博しているのだという。
「大人のミュージック・カレンダー」フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」原盤権獲得秘話…1967年、48年前の本日リリース 執筆者:朝妻一郎)

朝妻はニッポン放送の深夜番組「オールナイト・ニッポン」の有名DJであり、PMPの専務でもあった高崎一郎に「帰って来たヨッパライ」を聞かせた。すると、“すぐにこのレコードの権利を取ってこい!”と命じられた。大阪に行った朝妻は高崎の知り合いの仲介で、高石友也事務所の秦政明社長と会って、「自主制作盤の権利を譲って欲しい」と申し込んだ。 

するとなぜかその場で、秦からあっさりOKが出たというのだ。それは申し込んできた人間の中で朝妻がもっとも若かったからだ。それがすぐに秦がOKを出した理由だったという。

高崎に自主制作盤の権利に関する契約が出来たことを報告すると、すぐにその場で東芝レコードの高嶋弘之に電話した。「変わったレコードがあるので、君に聴いてもらいたい」と、連絡を入れたのである。

その日のうちに高嶋は時間を作って、ニッポン放送に駆けつけた。

高崎さんから手渡された一枚のレコードは、アマチュア・グループが解散記念にと作ったアルバムだった。その中の一曲が、ラジオ関西で受けているという。タイトルの「帰って来たヨッパライ」は面白いと思ったが、歌詞が何をいっているのかよくわからなかった。ただ奇妙なレコードだなあと思った。いいとか悪いとかいえる代物ではなかった。私は注意して他の曲を聞いていった。
「イムジン河」のメロディと歌詞が私をとらえた。「ヨッパライ」が仮に駄目だとしても、このグループは「イムジン河」で勝負できるのではと思った。
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高嶋弘之著
「「ビートルズ!」をつくった男~レコード・ビジネスへ愛をこめて」
DU BOOKS

「帰って来たヨッパライ」のシングル盤が東芝レコードから発売にされることになったのは、ビートルズを担当していた高嶋が築いてきたラジオ人脈のおかげだった。それだけでなく、高嶋のサジェッションがあったからこそ、フォークルとのアーティスト契約を結ぶこともできた。朝妻がそのときの経緯を当事者の立場でこう述懐している。

レコードの発売をお願いしている時、この自主制作盤の権利を取る事だけしか頭の中になかった私に高嶋さんが聞いてきた。
“フォークルのメンバーと新しいレコードを録音する契約はどうなっているんだい?”
“えっ、録音契約なんか必要なんですか?”[blockquote] “何言っているんだ、このシングルがヒットした後、他の会社から彼らの新しいレコードが出たらどうなるんだ!!”
慌てて、高嶋さんと大阪に行き、メンバーと録音契約を結び、その後の「悲しくてやりきれない」やアルバム「紀元弐阡年」も無事にパシフィック音楽出版が原盤の権利を確保出来た。
あの時高嶋さんが注意してくれなかったら、どんなことになっていたのかを想像すると、あれから50年近く経つ今でも本当に背筋が寒くなる。
高嶋さん、ありがとうございました。
「大人のミュージック・カレンダー」フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」原盤権獲得秘話…1967年、48年前の本日リリース 執筆者:朝妻一郎)

なお高石友也事務所の秦社長が直感的に見込んだ通り、PMPの新入社員だった朝妻はこの1年後から、A&Rマンとして新しい才能を発掘して成功していく。フォークルやジャックスの原盤制作ディレクターとして活躍した後、朝妻は大滝詠一や山下達郎、オフコースらと契約した。まだどのアーティストもまったく売れていない段階だったが、彼らはみんな数年後に大きくブレイクしていった。そして朝妻はエグゼクティブ・プロデューサーの立場で、彼らをさまざまな面からサポートして日本の音楽文化の発展に貢献していく。

ちなみに朝妻は東芝の土光敏夫が社長だった頃の石川島播磨重工業に入社し、造船事業部に勤務する音楽好きのサラリーマンだった。しかし高崎一郎との知遇を得たことから、ニッポン放送で選曲や構成台本のアルバイトを始めたというキャリアの持ち主だ。そしてニッポン放送が音楽出版の分野に進出することになり、1966年にPMPが設立されたことから、石川島播磨を退社してミュージック・マンの道を歩み始めている。

→次回は12月1日更新予定

文 / 佐藤剛
「PLAYBACK」翻訳 / 五十嵐正、原田卓
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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