ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 11

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夢と憧れを現実にするエグゼクティブ・プロデューサー~音楽出版社から頭角を現してくる渡邊晋と美佐、草野昌一、朝妻一郎

夢と憧れを現実にするエグゼクティブ・プロデューサー~音楽出版社から頭角を現してくる渡邊晋と美佐、草野昌一、朝妻一郎

第1部・第10章

フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」ついては新興音楽出版社(現在のシンコーミュージック・エンタテイメント)の草野昌一が、朝妻一郎よりも一歩先んじて原盤獲得に動いていた事実が明らかになっている。

早稲田大学の学生だった草野は、1951年に父親が経営する会社に入って音楽誌「ミュージック・ライフ」を復刊させると、その編集長をつとめながら音楽出版に関するビジネスにも取り組んだ。その意味では草野もまた、根っからのミュージックマンである。

1960年10月には坂本九の「ステキなタイミング」(ダニー飯田とパラダイス・キング名義)を訳詞して、漣健児のペンネームで初めてヒット曲作りにも関わり始めている。それからは当時のアメリカンポップスを中心に、400曲以上も日本語の歌詞を書いてカヴァーポップスの黄金時代を築いた。

ステキなタイミング

漣健児の日本語詞の特徴は訳詞という以上の、小気味の良い創意工夫が見られるところだろう。原曲のタイトルと曲調、日本で歌うシンガーのイメージから編み出される歌詞は、言葉のノリが良くて子どもたちでも口ずさめるものだった。しかしビートルズの出現によって草野は訳詞の限界を知ることになり、そこから原盤制作に乗り出していくのである。

やがてマイク真木の「バラが咲いた」やブロードサイド・フォーの「若者たち」、ザ・スパイダーズの「夕陽が泣いている」など、グループサウンズやフォークソングの分野で多くのヒット曲を生み出して、エグゼクティブ・プロデューサーとしても大きな成功を収めた。

ミュージック・ライフの編集部にいた水上はるこが京都で開かれた第1回「フォーク・キャンプ・コンサート」に行って、フォークルの自主制作アルバム『ハレンチ』を手に入れて帰京したのは、ビートルズの来日公演から1年後のことだ。

水上は「こんなの買ってきたんだ、聴こうよ」と、編集部の隣にある試聴室のドアを開けたまま、仲間の社員たちと一緒にそのレコードを聴いていた。そこへ草野が入ってきて、「何だ、これ?これ面白い!これだ!」と、即座に反応したのである。

草野はすぐに関西にいた作詞家のタカオ・カンベに連絡をとり、フォークルの関係者を探してもらった。そして高石友也事務所の秦政明社長が窓口だと突き止めると、すぐに社員を送り込んで原盤と出版の権利を申し込んだ。しかしなぜか後からやって来た朝妻に、あっさり原盤権を持っていかれてしまったのだ。草野はそのときのことを心の底から悔しがっていたという。

結局のところ「帰って来たヨッパライ」は1967年12月25日、東芝レコードのキャピトル・レーベルから発売された。ラジオのオンエアで大変な話題になっていたので、予想をはるかに上回る注文が殺到して、年内だけで出荷枚数が100万枚を超える驚異的なヒットになった。最終的には200万枚を超える記録を打ち立てたことで、東芝音楽工業には多大な利益がもたらされることになった。

フォークルの「帰って来たヨッパライ」がビートルズの影響下から生まれたことは、テープの早回しというアイデアや、曲の最後に「ハード・デイズ・ナイト」からの引用があることからもわかる。お坊さんが経を詠むという形で、英語の歌詞がユーモラスに取り上げられている。よく考えてみればこうしたユーモアのセンスもまた、単なる偶然などではなくフォークルとビートルズをつなぐ縁だった。

どうして東芝レコードと契約したのかについて、加藤和彦が生前にこんな証言を残していた。

ビートルズが東芝と契約していて、そのビートルズの担当ディレクターで有名な高嶋弘之さんという方と何人かが、確かフォークル(アマチュア時代)の本当の最後のステージとなったキャンプ・コンサートに来てくれて、「うちにはビートルズがいる。ビートルズにも会える」と、「スタジオにも赤い絨毯が敷いてある」って言うの。僕たちも若かったから凄いところだと思ってしまったけど、後から分かったのは、敷いてあるんじゃなくて、単に絨毯が赤いんだよ(笑)。
それでまぁEMIならいいかみたいになって、でも、東芝EMIより東芝にはキャピトルというのもあって、僕はそっちの方が好きだったんでキャピトルと契約した。
Musicman’s RELAY 第71回 加藤和彦氏 インタビューより

ビートルズというアーティストとキャピトル・レーベルが、ここでも重要なキーワードとして語られている。そしてここでも高嶋とビートルズの話が出てくるのだ。人と人のつながりというものが、つくづく不思議なものだと思わずにはいられない。高嶋の築いてきたラジオ局の人脈があり、キャピトルというレーベルにプラスのイメージがあったことで、東芝レコードはフォークルと契約を結ぶことができたのだ。

「帰って来たヨッパライ」を発売するにあたって北山修は加藤と相談し、1年間限定で第2次フォーク・クルセダーズを結成することにした。そして京都の音楽仲間だったはしだのりひこを加えて、約束どおり1968年の秋まで活動してから潔く解散している。

そこから芸能界的な音楽シーンとは距離を置き、大学に戻って医学の道へ進んだ。とはいえ加藤と組んでソングライティングを行い、ラジオの深夜放送ではパーソナリティを務めたりもした。

そして精神科の専門医になって40歳を過ぎた1987年になってから、文筆家として「ビートルズ」という著書を書き下ろした。日本人にとってのビートルズとは何だったのか、それを北山は自らの体験も織り交ぜながら解説している。その著書のなかで精神分析や心理療法の専門家らしく、“モノを創り出す”仕事をする人間には“淋しい子ども時代を送った人が多い”という持論を述べている。

また〈創造〉のための大きな力になるのは、初期のビートルズがそうだったように〈若さ〉〈貧乏〉〈無名〉の三つだという見解を示した。その上でモノを創り出すクリエイターには、何かに強く憧れるということが大切だとして、自らの音楽の原点にあったのがエルヴィス・プレスリーと坂本九だったことを明かしてもいた。

ポップシンガーになることは、私にとって夢の一つだった。坂本九とエルヴィスに憧れてギターを手に入れた。一九六一年、中学三年生の頃だったと思う。
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きたやまおさむ著
「ビートルズ」
講談社現代新書

坂本九がエルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」に衝撃を受けて、歌手になったという話はかなり有名である。ラジオの進駐軍放送を兄たちが熱心に聴いていたおかげで、坂本九は早くから英語の歌にも親しんでいた。初めて歌ったのがナット・キング・コールの「トゥー・ヤング」、小学生だったので兄の五(いつき)に英語の歌詞をカタカナで書いてもらったという。そして中学2年になった時に、エルヴィスと運命的に出会ったのだ。

ジョン・レノンもまた「ビートルズはエルヴィス以上になりたがっていたのだ」と語ったことがあった。このようにして夢と憧れは次世代へと受け継がれていく。

―― :(筆者注:エルヴィス以上になりたがっていたのは)なぜですか。
ジョン:エルヴィスが最高の存在だからです。その最高をのりこえて、自分たちがいちばんになりたかったのです。誰だってそうでしょう。 
ビートルズ革命

ジョン・レノン著 片岡義男訳
「ビートルズ革命」
草思社

  

子供と大人の狭間にあって揺れ動く心、そんな少年少女たちや大人になりきれない若者たちが、音楽に出会ったことをきっかけに未来に夢と憧れを抱く。そうやって次世代へと受け継がれる音楽のエッセンスを、具体的な形にしていくのがエグゼクティブ・プロデューサーの仕事になる。音楽作品の制作や宣伝だけでなく、販売をふくむ全体の統括を行うことで、新たなアーティストを世に出していくのである。

エグゼクティブ・プロデューサーは経営を含む大きな責任を背負っている。その先駆者だった石坂範一郎や、当初は石坂と連動しながら渡辺プロダクションの立場で原盤制作を始めた渡邊晋と美佐の夫妻、同じく石坂と組んで音楽出版社の立場でヒット曲づくりに参入してくる草野昌一、それらを追いかける形で次の世代の指導者となっていった朝妻一郎などは、まさに日本の偉大なエグゼクティブ・プロデューサーたちだった。

しかし裏方とはいえども華々しい活躍をした渡邊普と美佐夫妻、あるいは地味ながらも音楽業界のリーダーとして認められていた草野や朝妻たちと違って、石坂は日本の音楽史の表舞台にはまったくといっていいほど登場してこなかった。そこにはいったいどんな事情があったのだろうか。

それを知るためには戦後の高度成長期に活躍した財界人、経団連の会長を長く務めて“財界総理”とまで謳われたカリスマ財界人、石坂泰三との関係を知ることから始めなければならない。泰三と東芝レコードとの関係にこそ、ビートルズの来日をめぐるミステリアスなことがらを解明するための、いくつものヒントが隠されていたのだった。

→次回は12月5日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:撮影 / 長谷部宏 提供 / シンコーミュージック・エンターテイメント

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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