ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 12

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倒産の危機にあった名門の東芝を再建した石坂泰三~我々は伸びんとすれば先ず縮まることを要する

倒産の危機にあった名門の東芝を再建した石坂泰三~我々は伸びんとすれば先ず縮まることを要する

第2部・第11章

1986(明治19)年に埼玉県大里郡奈良村(現・熊谷市)に生まれた石坂泰三は、父が豪族の末子で分家を受け継ぎ、35ヘクタ-ルの田畑を所有する地主であった。しかし向学心に燃えていた父は東京に出て家庭教師や書記などの仕事をしていた。母も子どもたちの教育を考えて早くに上京し、家事する傍らでわが子たちに四書五経や文選、唐詩選など漢書の訓読を教えた。この基礎的な教養が泰三の将来に有益なものとなった。

家計にあまり余裕がないことを知っていた泰三は学費が安い陸軍士官学校を目指し、城北中学(現・戸山高校)を受験したが不合格になった。このとき両親の間では商家への丁稚奉公の話も出たらしい。だが泰三は父母に懇請して一年の猶予期間をもらうと、翌年は東京府立一中(現・日比谷高校)に合格した。そこからは旧制第一高等学校、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)とエリ-トコ-スを進んだ。

府立一中時代の同級生にはのちに文豪として大成する谷崎潤一郎がいた。東大時代の仲間には農務省の官僚から政治家に転身し、小松製作所の社長になった河合良成がいた。河合とはお互いに財界人として活躍し、経団連の会長時代には相棒役の理事として頼りにし、終生をともにしたといえる間柄だった。

同じく官僚出身で読売新聞の社長になった後、日本テレビを作ってメディア王になる正力松太郎、東急グループの総帥として活躍した五島慶太など、東大の同級生には個性的な逸材が揃っていた。石坂は晩年までその頃の仲間たちとは良好な関係性を保っていた。

1911(明治 44) 年に高等文官試験(高級官僚の採用試験)に合格した泰三は、エリートの証しであった大蔵省や内務省ではなく、あえて逓信省を選んでいる。これは序列上位で入省したほうが、出世が早いだろうと考えたからだった。ところが入省から4年目に、部下の汚職の責任を問われて戒告処分を受けた。

汚職は前任課長時代のことであり、泰三に関係はないことで承服しがたかったが、役所の決まりに従うしかなかった。そんな時期に逓信省の上司や大学の恩師を通じて、第一生命の矢野恒太から引き抜きの話が持ち込まれた。そこで強く誘われたのを機に、逓信省を4年で退職する道を選んだ。

泰三自身の言葉によれば「本人の知らないところで、人身売買が行われ」ていたとのことで、その流れに逆らわずに転職することにしたのである。官から民に移ることに泰三自身はさほど抵抗はなかった。ところが妻の雪子に話すと、「私は官吏の嫁に来たのであって、保険屋の嫁に着たのではありません」と強く反対された。

これは雪子の言い分がもっともで、東大法学部を出て高級官僚になったのに、小さな保険会社のサラリ-マンに転職するというのは、当時の感覚ではエリート街道から脱落してしまったも同然に受けとめられた。当時の第一生命は保険業界30数社中で13位の売上で、社員は70名内外という規模だった。実際に泰三が第一生命に勤務してみると、なるほど逓信省時代とは待遇に雲泥の差があると感じたという。

矢野社長は泰三をしばらく自分の秘書として使った後、入社の条件に泰三と約束した欧米留学を実行してくれた。およそ2年間、単身で欧米諸国を歴訪した泰三は、ニューヨークのメトロポリタン保険会社で保険業について学び、国際人としての感覚を身につけて帰国した。

それからは35歳で取締役に昇進、48歳で専務取締役、そして1938(昭和13)年に52歳にして社長に就任している。この間に第一生命は大きく躍進して、業界2位の地位を確保するまでになった。その間に成し得た泰三の業績は以下のようにまとめられる。

・IBM式会計器の導入による作業能率の増進
・新社屋の建設
・外交員の待遇改善
・資金の運用

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専務取締役時代に施工を手がけて、社長就任と同時に落成した新社屋は地上8階地下4階、総工費1600万円、日比谷界隈でも群を抜く立派なビルだった。終戦後にこのビルを接収した連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサ-元帥は、泰三が使っていた社長室をそのまま引き継いで執務した。

その建物を見たマッカーサーは「壮麗で堅牢、威風堂々たるこの建物、どういう人物がここの主か、その顔を見たい」と言ったらしい。だが石坂は「用があるならそっちから来るのが筋だ」として、出頭命令に近い要請を断っている。

太平洋戦争が終わった翌年、泰三は60歳で第一生命を退職しているが、GHQから公職仮追放の身となったために、退職金が支給されなかった。それからしばらく浪人生活していると、追放が免除されることがわかった。そこへ三井銀行頭取の佐藤喜一郎の仲介で、東京芝浦電気(東芝)を再建してほしいという話が持ち込まれた。

戦前の東芝は日本最大の総合電機メーカーであった。戦時中に政府や軍部からの要請を請けて膨張を続け、一時期は10万名を越す従業員を擁した。しかし戦後はGHQの財閥解体政策のために、膨張した事業が切り離されて、従業員の数は2万8千名にまで激減してしまった。しかも時代背景の変化もあって、共産党が指導する労働組合と経営側との紛争は泥沼化し、収拾するのが不可能に見えた。

労働組合の力は強く、倒産は時間の問題とまで言われて、誰も再建を引き受けようとはしなかった。そんな状況であえて1949(昭和24)年4月5日、東芝に乗り込んだ泰三は社長就任にあたって、再建のための重要優先事項として以下の4項目を掲げた。

①経営組織の改革と人事の刷新
②過剰人員の整理
③合理化のための資金調達と設備の更新
④アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社との関係修復

6月には「全東芝従業員諸君に告ぐ」という文書を配布し、腹を割って話し合おうと協力を求めた。

従業員諸君、我々は伸びんとすれば先ず縮まることを要する。余は就任早々この再建に直面し多少なりとも犠牲者を出すこと甚々忍び得ざる処なるも、大局上このほかに途なきを確信する以上、諸君に於いても能くこの事態を認識し協力せられんことを切に希望する次第である。

泰三は東芝に来るとき、腹心の部下というような者を誰一人として連れて来なかった。単身で乗り込んだのには明確な理由があった。一人ならば出処進退が自由に判断できるが、もしも誰かを連れて行った場合にはその人の家族の生活まで考えねばならなくなる。情実で思うような判断できなくなったら、とても大役が務まるわけはないと考えての判断だった。

身動きが取れない断末魔のような状態にあった東芝を、泰三は政府に大型の融資を斡旋してもらうことで再建しようとした。そのためにはどうしても6000名の社員を解雇しなければならない。そのことを労働組合の幹部たちと直に会って話し合い、正々堂々と持論を粘り強く説いていった。

それまでの経営陣が逃げまわってきた労使間の団体交渉にも、泰三は自ら率先して出席して話し合った。そして飾らない人柄と利の通った一貫した主張で、組合側からもそれなりに信用されていく。その頃起こったのが、国鉄が3万人の職員に対して整理通告を行った翌日に総裁の下山定則が行方不明となり、常磐線の線路脇で轢死体で発見された“下山事件”だった。迷宮入りすることになったこの事件をきっかけに、GHQは過激な労働運動に対する監視を強めていき、マスコミと世論の共産主義に対する態度にも変化が現れ始めた。

泰三が社長に就任して8ヶ月後の12月10日、ようやく労組との間で協定書がようやく交わされ、東芝の大争議に終止符が打たれた。そこで銀行を中心とした協調融資を得て、泰三は設備投資を本格化させていく。1950(昭和25)年に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍の物資調達の特需が到来して、製造業に追い風が吹く。そして1950年下期には、東芝は倒産の危機を回避して黒字を計上したのだ。

→次回は12月8日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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