Interview

大黒摩季復活。長戸大幸プロデューサーとの邂逅、キャリアの全てを語る

大黒摩季復活。長戸大幸プロデューサーとの邂逅、キャリアの全てを語る

今年のライジングサン・ロックフェスティバルで観た大黒摩季は、とても美しかった。闘病からの復帰のアピアランスに地元を選び、札幌のオーディエンスもそれに応えて彼女を温かく迎えた。ライブ中盤のヒットメロディの豪華なこと。全曲のセールスを合わせると何百万枚になるのだろう。そんなことより何より、レッドスターフィールドに集まった人々のほとんどが、大黒と一緒に歌っていたのが感動的だった。彼女の歌は、休業中もリスナーの胸の中で生き続けていたのだ。
その後、10月に札幌・ニトリ文化ホールでのワンマン・ライブを成功させ、このほど『Greatest Hits 1991-2016 ~All Singles +~』をリリースすることになった。ヒットシングル32曲と新曲2曲を含む全48曲を収録した3枚組CDのSTANDARD盤。さらに90年代8cmCDでリリースされたカップリング曲を含む全62曲を収録した4枚組CD とDVD1枚が入ったBIG盤は、A4サイズのパッケージとなり、ブックレットも同サイズ「裸眼で読める」文字サイズがセールス・ポイントとなる。
奇跡の復活を遂げた大黒摩季に、これまでのキャリアと音楽観・人生観について聞いてみた。インタビューの直前にオンエアされたドキュメント番組「情熱大陸」で闘病の様子を赤裸々に披露した大黒は、本格復帰に向けて高いテンションですべてを語ってくれたのだった。

取材・文 / 平山雄一


「大黒摩季」ってみんなのものなんですよね。私の私物じゃないもん

『情熱大陸』の大黒さん、すべてさらけ出していて潔かったです!

うっそー(笑)。本人としてみれば、「あそこを使う?」っていう。もっといい話をしたはずなんだけど。

いやいや、女っぷりがとても良かったです(笑)。

ホント? じゃあ番組としては成功だね。

だと思います。久々に帰ってきた大黒さんが、本当に身近に感じられました。

でも、“ロッカー”としては、いい人と思われたら複雑ですよ(笑)。

そうですか(笑)。あの番組は、「みなさんの力で、大黒摩季にしてください」っていう大黒さん自身の言葉がキーワードになっていたのが素晴らしかった。

だって、「大黒摩季」ってみんなのものなんですよね。私の私物じゃないですから。もちろん、長戸(大幸)プロデューサーも、歴代プロデューサーの葉山さんも武部さんもそうですし、マネージャーが「摩季さん、こっちの服のほうがカッコ良く見えますよ」って言ってくれたり。それこそ私は小麦粉とかタマゴみたいなもので、ただの素材、マテリアルなんですよ。そこにミュージシャンの演奏とかの要素を足してもらって、初めてちゃんとした料理になるっていう。
素材としての大黒摩季がいたとしたら、それを商品に変えてくれるのがプロデューサーなんです。大黒に「これを着せたらこうなる」とか「これを言わせたらいいだろう」とかっていうことも含めて、最初は単純に一個のタネだった私にいろんなものがくっついて、それで育って花開いて、わかりやすく言えば“大黒摩季”っていうブランドをみんなで作ってるのに近いと今は思ってて。
一人でやってるときも、その感覚はずっとあった。だから大きく振り切って、まったく別な人間になろうと思ったこともないですし。みんなで作ってきた大黒摩季のブランド・カラーって、イヤなことじゃないですしね。私の中の一部だから。全然あり得ないものでもないですし。もちろん、ポジティブで元気なだけじゃなくて、「ちょっと癒やし感もあるんだよ」みたいなところはありますけど(笑)。
たとえば氷室(京介)さんにしても、フサ(近藤房之助)さんにしても、吉川(晃司)さんにしても、“ロッカー”っていう生きざまを持っていて、「個」がガーッと前に出る人に憧れもしたけど、やっぱり私はそういう専門店ではなく、“バーニーズ”みたいなセレクトショップのほうが向いてるの(笑)。一つのことをずーっと続けられない。いろんなことをスタッフと一緒にやる方が似合っていると思う。

たとえばインドカレーひと筋で勝負するレストランじゃなくて?

そうです。だからそういった意味で、たくさんの人の才能とか技術だとか考え方を学んで、踏襲して、それで「大黒摩季」っていうものができているはずだから。お客様が好きな大黒摩季が最優先、みんなの大黒摩季なんですよ。

作品と自分との距離感も、思った以上に変わってなくて笑っちゃっいました

客観的に自分を見ていますね。

この6年間、本当に普通の暮らしというか、主婦と介護と治療だけで、音楽の仕事をスパーンと離れていたので、逆に自分を外側から見られましたからね。完全に“音楽の受け手”だった。で、実際に音楽を頑張って始めたときに、スタッフやプロデューサーが入れ替わっても、最初のデザインを起こしているデザイナーは私だから、みんなで最初に立ち上げたときのブランド理念はブレていない。作品と自分との距離感も、思った以上に変わってなくて笑っちゃいました。ファンとの付き合い方も、変わってない。変わっていないどころか、「大黒摩季って、こうだったっけ?」ってファンに教わりながらやってる感じかな(笑)。

それが「大黒摩季にしてください」っていう言葉の意味なのかなあ。

うん、そうですね。だってスタッフから「大黒摩季っぽい歌い方して」って言われると「えっ、どれだっけ?」って感じだもん(笑)。レコーディングで、「これかなあ? あれかなあ?」ってやってて、「あ! それそれ!」って言われると、「だね!」みたいな(笑)。

大黒摩季

「目」と「ホントの言葉」で、ビーイングでやろうと思った

今回、“実家のような”とおっしゃっている“ビーイング”からの復帰となった経緯を教えてください。

去年11月に大きな手術をする事になって、“あと1年くらい復帰は無理かな、25周年(2017年)くらいには戻りたいな”と、思っていたんですよ。ところがもともと免疫が強くて体力もある方だったので、術後思ったより早く回復してきたんです。
それで今年くらい、もう動いていいんじゃないって話になってきた頃に、ビーイング時代ずっとお世話になっていたマネージャーから、“また動き出すんだったらまずは実家(ビーイング)にご挨拶しておかないとね”って連絡をもらって、新しく社長になられている升田社長にお会いしたんです。そのマネージャーは、沢山あるデモテープの中から私を見つけて長戸大幸プロデューサーに渡してくれた人なんですけど、なんか風を感じたと言いますか。私、風とか勘とか本能とかで人生決めてきたタイプなので、流れやタイミングみたいなものを掴み損ねないようにすごい大事にしているんですね。これまで色々なメーカーさんとお仕事してきたので、他にも選択肢はあったんですけど、ビーイングの温度が一番高かったんですよ。
升田社長からも“戻っておいでよ、そしたらしっかりバックアップするから”みたいなムードで言ってもらえて、率直に嬉しかったんですね。これからある程度いいペースで息長くやっていきたいなんて思うと、やっぱり周りの温度が高いというのが一番心地良くて、有り難いなと感じました。

長戸プロデューサーとの出逢いは、改めて今振り返ってみてどうですか?

私は誰か人と組むときって、相手の“目”で決めるんですよ。19歳のときに、自分のデモテープを全メーカーに送って、面接に行ってオーディションしてもらった。中には「いいじゃない、いいじゃない、すぐCDを出そうよ」って言ってくれた制作担当の人もいたんだけど、私はそれがむしろ胡散臭いなと思ったんです(笑)。

どうして?

だってその時点で私は、自分が完璧だと思ってなかったから。「今すぐ出そうね」って言うっていう人に、ビジネスの匂いだけを感じ取ったんですよね。自分が若かったからかな。で、ビーイングに行ったら、すごく小っちゃいビルで、「うわぁー、大丈夫かなあ」と思ったけど、「来たからには会って行こう」ってビルを上がっていくと、1対4ぐらいの面接で、「素材としてはいいと思うよ」っていきなり素材って言われて、カチーンと来て(笑)まあ、でもちょっと話を聴いてみようと。そうしたら「いい曲というのは」とか「クリエイティブというのは」とか、そういう話が始まって、それがかなり面白かったんですよね。

怖くなくて、面白かったんだ(笑)。

そういうふうにアプローチしてきて、熱く語ってくる制作の人は他のレコード会社にいなかった。ビーイングでは、まず私の曲をこてんぱんに言われた。普通だったら面接が済んで、第2ステージぐらいでやることですよね。決まってからやることを、決まってもないのに熱く語るわけです(笑)。
それと、ビーイングからデビューしてる人たちは確かにスーパー・アーティストばかりで、スタジオ・ミュージシャンもスーパーな人ばかりだったから、音楽がやりたくて東京に出てきた私からすると、「こんな小さいスタジオに、スーパースターが近くにたくさんいる!」。そういうキラキラがいっぱいあったんですよ。
長戸プロデューサーが熱く語ってるときに、目の奥にある“意志”がすごく強くて。私、性質がネコ型なので、気まぐれに生きてる。本能というか、「この人に付いてったらヤバいぞ」とか、「この人に付いてったら面白いぞ」とか、そういうのをほとんど熱と勘で決めてて、わりとそれが正解なので信じてるんですけど。そのときの長戸プロデューサーの目の奥が、燃えていたんですよ。強かった。いろいろお会いさせてもらったレコード会社の人たちの中で、もう断然、群を抜いて、「なんかやらかすんだ、この人、きっと」っていう目をしてたんです。それを見たい、そこにいたいって思った。でも、すごい勢いで喋ってばっかりで、こっちからは口が挟めなくて(笑)。

あははは。

それで、とりあえずその場で返事を言わないで、持ち帰ったんです。でも心は決まってたんですよ。それから何日かしても、いちばんこまめにコンタクトを取ろうとしてくれたのがビーイングだった。「今の君にはまだそんなに魅力はないと思う。でも可能性には期待してる」って。で、私、そのときに、なんかしっくりきたんですよ。

自分が思ってる自分像と、長戸プロデューサーが言ったことが一致した。

そうですね、しっくりきました。「この人、正直な人なんだな」って思った。だからその二つのポイント、「目」と「ホントの言葉」で、ビーイングでやろうと思った。私としてみれば、北海道から出てきて「音楽業界っていうのは怖いところだ」って思ってたところだったから、長戸プロデューサーは正直だなと思って。
野良猫が街へ出るみたいな感じでいたから、その中で「あ、ここの家は小っちゃいけど、なんか居心地いいな」みたいになって、まさに棲み着いた感じですね。でもそれからというもの、待てど暮らせど、曲をいっぱい出そうとも、回ってくるのはバックコーラスの仕事ばかりだった。大黒摩季

私はZARDの(坂井)泉水ちゃんにくっつくのが好きでした

そこからの展開は?

ビーイングにはソロ・アーティストもソングライターも、全部いたんですよね。だからすごくいい環境でした。織田哲郎さんっていうソングライターがいたり、松本(孝弘)さん、稲葉(浩志)さん、栗林(誠一郎)くんも亜蘭(知子)さんもいたし、ビーイングがガーッと昇り行く手前っていう時期だった。なんかもう「音楽の東急ハンズ」みたいな感じで、何でもかんでもあって、いろんな人がいろんなものを作ってた。普通のポップスだけじゃなくて、劇伴(劇の伴奏)もやるわ、インストもやるわ、それから突然ナレーションとかもやらされるわ(笑)、「音楽制作っていう枠って、こんなに広いんだねえ」っていうぐらいいろんなことをやってたから、その都度駆り出されていくのがだんだん面白くなっていって。

B’zやZARDのバックコーラスをやっていて、一緒に歌ってみどんな感じだったんですか?

もともと私は自分のアクションを、女性アーティストよりもエアロスミスのスティーブン・タイラーから学んでたから、稲葉さんに関しては、「日本のボーカリストの理想型」と思ってた。ビッタリくっついて「この人にハモらせたら私しかいない」っていうぐらいにならねばならぬと思ってた。だから使ってもらえるのがすごく嬉しくて、シャウトの果てまで全部くっついていったみたいなところがありました。あとは松本さんの曲の作り方も研究したり。B’zはとにかくもう研究研究でしたね。
一方で、私はZARDの(坂井)泉水ちゃんにくっつくのが好きでした。私にはあの声は絶対に出ないんで。
私、泉水ちゃんの声が大好きだったんですよ。だからこの前の“d-project with ZARD”※1やったときは、1曲ずつ歌いながら、もう毎日泣いてましたよ。だって泉水ちゃんの声が、私の体の中に入ってるので。

歌い方まで含めてね。

はい。音源をもらってちょっと合わせただけで、体が覚えているからすぐ出来ちゃう。それで、「揺れる想い」のときは、一回歌っただけでオーケーになったんです。

不思議ですね。

升田社長にご挨拶してビーイングでやっていくことが決まったあとに、長戸プロデューサーから「“d-project(with ZARD)”をやらないか?」って言われて、私は「いいんですか!?」って言いながら、やりたかったし、すごく嬉しかった。「できるのであればやらせてください」とお願いして。今思えば、まだ歌うことを不安がっていた私に、長戸プロデューサーも “復帰のスイッチ”を押してくれたのかなと思います。

いろんなことが繋がって、復帰できたんだと思います

“d-project with ZARD”での久々のレコーディングは、どうだったんですか?

ずっと主婦と介護をしてましたから、最初は音が取れませんでしたよね。普通の人と同じ耳になってました。でも、強化合宿と呼んでいる大阪でのレコーディングの1ヶ月間で、すっかり戻りました。札幌で音楽学校の先生をずっとやってたんで、生徒にボイトレを教えながらやってたからある程度は大丈夫だったんですけど、前と同じ耳に戻せたのは大阪合宿のおかげです。

長戸プロデューサーとの出逢いから始まって、6年間休んで、復帰の手前でまた長戸プロデューサーが現れて、そこに坂井さんの声があっての復帰なんですね。

はい。本当にいろんなことが繋がって、復帰できたんだと思います。

※1大阪を拠点に活動を続けるGIZA studio所属の作家陣や若手ミュージシャン達が長戸大幸プロデューサーの元に集結し、今の音楽シーンに少なくなった楽曲重視の質の高い作品を送り出そうと始まったプロジェクト“d-project”の第一弾作品。大黒摩季はゲストボーカルとして参加している。

ライブ情報

Maki Ohguro 2017 Live-STEP!! 
~ Higher↗↗Higher↗↗中年よ熱くなれ!! Greatest Hits+ ~


2月25日(土)埼玉県 羽生市産業文化ホール 大ホール
3月5日(日)栃木県 栃木文化会館 大ホール
3月11日(土)愛知県安城市民会館 サルビアホール
3月12日(日)兵庫県加古川市民会館 大ホール
3月20日(祝月)千葉県多古町コミュニティプラザ文化ホール
3月25日(土)長野県大町市文化会館(追加公演)
4月15日(土)山形県やまぎんホール(山形県県民会館)
4月22日(土) 静岡県磐田市民文化会館
4月23日(日)岐阜県バロー文化ホール(多治見市文化会館)
4月29日(土)山梨県コラニー文化ホール 大ホール
5月7日(日)千葉県千葉県文化会館 大ホール
5月14日(日) 神奈川県ハーモニーホール座間
6月2日(金) 東京都かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホール
6月3日(土)埼玉県狭山市市民会館 大ホール
6月17日(土) 広島県三原市芸術文化センター ポポロ
6月18日(日) 兵庫県たんば田園交響ホール
6月24日(土) 群馬県伊勢崎市文化会館 大ホール

大黒摩季

札幌市・藤女子高等学校を卒業後、アーティストを目指して上京。スタジオ・コーラスや作家活動を経て、1992年「 STOP MOTION」でデビュー。2作目のシングル「DA・KA・RA」を始め「チョット」「あなただけ見つめてる」「夏が来る」「ら・ら・ら」などのミリオンヒットを立て続けに放ち、1995年にリリースしたベストアルバム「BACK BEATs #1」は300万枚を超えるセールスを記録する。TV出演やLIVEも行わなかったことから、大黒摩季4CGで存在しないなどの都市伝説があった中、1997年の初ライブでは有明のレインボースクエアに47,000人を動員し、その存在を確固たるものにする。その後も毎年全国ツアーを継続し、精力的に活動するも2010年病気治療のためアーティスト活動を休業する。その間、地元・北海道の長沼中学校に校歌を寄贈、東日本大震災により被災した須賀川小学校への応援歌・歌詞寄贈、東日本大震災・熊本地震への復興支援など社会貢献活動のみ行っていたが、昨年よりDISH//、TUBE、郷ひろみなどの作詞提供をはじめクリエイティブ活動を再開。アトランタ・オリンピックや「ゆうあいピック北海道大会」のテーマソング、アテネ・オリンピックの女子ホッケー・チームのサポートソング、そして2015年には再生に向けたスカイマーク・エアラインに応援歌を提供するなど「応援ソング」には定評がある。2016年8月、ライジングサン・ロックフェスティバルでの出演を皮切りに、故郷である北海道からアーティスト活動を再開。

オフィシャルサイトhttp://maki-ohguro.com/

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