vol.13 ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち

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逃してしまった日本ビクターという大魚の悔しさ~ビクターに肩を並べて追いぬくことは面子をかけた意地の戦い

逃してしまった日本ビクターという大魚の悔しさ~ビクターに肩を並べて追いぬくことは面子をかけた意地の戦い

第2部・第12章

東芝倒産の危機を切り抜けた石坂泰三は、次に組織の大改造を行い、事業部制を採用した。そして新技術の導入などで社内の刷新を進めていく。その結果、社長就任から三年後には売上100億円を達成し、朝鮮戦争による特需と国内の復興が重なる運もあって、1953年には完全に再建の目処を立てることができたのである。

重電部門では水力発電所の稼働や火力発電の装置、また需要の増えた電気機関車、ディーゼル機関車の生産で、戦後復興と肩を並べるかのように仕事を一気に軌道へと乗せた。一方弱電部門でもラジオが広く普及したことで、真空管のトップメーカーだった東芝は優位性を確保し、続いて登場したテレビの製造と販売で売上を伸ばした。日本テレビと組んで始めた街頭テレビから、カラーテレビの開発にいたるまで、東芝の技術陣は本来の実力を発揮して業績を大きく伸ばした。

その頃に泰三は当時の総理大臣、吉田茂から大蔵大臣に就いてほしいと頼まれている。だが正直者の自分に政治家は務まらないと、政治とは常に距離を置いた。東芝の業績はその後も順調に推移し、1955年に水車タービンの製造会社・電業社機械製作所を合併して、水力発電の分野での東芝の優位を強固なものにした。

さらに会長に就任した後には石川島芝浦タービンを合併して、火力発電でもその地位を磐石なものにしていく。その過程で石川島重工業の再建に取り組んでいた土光敏夫と出会った泰三は、その経営手腕に惚れ込み、後に東芝の社長を引き受けてもらっただけでなく、経団連会長の後継にも据えることになる。

気分のいい時は童謡を口笛で吹くのが癖だった泰三は、東芝に再建のめどが立った頃から、レコード産業に進出することを思い描いていた。それは近い将来に重要になっていくであろう、ソフトウェアの仕事に取り組むことが目的だった。労働争議の混乱のさなかに、ちょっとした手違いからみすみす手放してしまった子会社、日本ビクターの雪辱を晴らしたいという思いもあった。

経営評論家の草分けとして知られる三鬼陽之助は、1966年に発表した著書「東芝の悲劇」のなかで、戦前からの名門だった東京芝浦電気(東芝)を徹底的に分析している。そして競合する日立や松下電器と比較して、あまりにも名門意識が強過ぎることを指摘した。そのために製造の現場が消費者の声に耳を傾けないこと、社内で下から上がってくる情報を幹部がキャッチできないことによって、慢性的な大企業病にかかっているのだと強く警告した。

その筆致はかなり辛辣なものがあった。三鬼は子会社政策についても大企業病が如実に現れていると述べて、その一例として「逃した大魚、日本ビクター」という項を設けて、「久野と石坂は、前記のビクター問題では、大失敗している」と記していた。

この“石坂”とはもちろん、泰三のことを指している。

東芝の子会社は、いわゆる玉石混交である。いな、玉は少なく「石」が多くなった。昭憲皇太后の御歌ではないが、玉も磨かば石にひとしいが、東芝の子会社政策を見ていると、せっかくの玉を石として、捨てていることである。その代表的な例は、東芝が、日本ビクターを喪失した事件である。日本ビクターは、現在の不況期にあっても、あっぱれである。
(三鬼陽之助著「東芝の悲劇」カッパ・ブックス)

そもそも戦時体制下の頃、東芝は当時の2大レコード会社だった日本コロムビアと日本ビクターを傘下に収めていた。そして泰三は第一生命の専務だった頃から、日本コロムビアの監査役に就任して、戦後までその地位にあったのだ。しかしGHQの指令によって行われた財閥解体により、1949年にふたつのレコード会社は東芝から分離されてしまう。

1953年の春、経営難に陥っていた日本ビクターは、松下電器(現パナソニック)の傘下に入って再建が進められることになった。

アメリカのビクターが1927(昭和2)年に日本法人として設立した日本ビクター蓄音器株式会社は、2年後にRCAに本社が吸収合併されたことで、RCAビクターという社名になった。RCAは海外進出について、現地との合弁政策をとってきた。そこで1931年に東芝と三井財閥から出資を受けて、東洋一と呼ばれる蓄音機とレコードの製造工場を東芝の横浜本社に建設したのだ。

経営基盤が強化されたRCAビクターは、アメリカから積極的な技術導入を進めて、拡声器やラジオなどの製造にも積極的に進出した。しかし音響機器や電波機器の将来性に着目していた日産コンツェルンによって、日本コロムビアとともに株を買い占められて傘下に入れられる。

ところが1937年に日中戦争が始まると、国策として日産コンツェルンが満州に拠点を移した。そのために両社の株式は東芝に売却されることになったのだ。東芝の傘下に入ったビクターはアメリカと日本の関係が悪化したことでRCAとの資本関係が解消した後も、研究や技術開発でアメリカと交流を続けていた。それが戦後になって国産初のテレビ開発や、オーディオ技術へ結びついていくことになる。

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しかし戦災によって本社や横浜工場、スタジオといったレコード制作に必須である施設を焼失したために、戦後は事業が壊滅状態となってしまった。そこに戦後の労働争議が起き、その混乱による社長交代や負債の処理などが重なり、親会社を東芝から日本興業銀行へと移行することになったのだ。

役員を派遣して再建計画を策定した興銀は、GHQが独占禁止法で銀行の保有株式を制限したことから、東芝にビクター株を譲渡したいと打診してきた。ところが興銀が懇願してきたにもかかわらず、交渉役だった久野元治取締役との間に解釈の違いなどが生じてしまい、結局松下電器が支援することで再建が決まったのだった。それを知った泰三は怒ったが、時すでに遅し、もう取り返しはつかなかった。

松下幸之助に送り込まれた住友銀行出身の百瀬結は、徹底した経費削減案をもとに経営再建に取り組んだ。そしてテレビやステレオ、VTR、マルチサラウンド、プロジェクターなど、多数の技術を研究開発していたビクターを、電機メーカーとして大きく成長させることになったのである。レコード産業の分野でも復活し、日本コロムビアとの2強でレコード売上全体の5割から6割を占めることになった。

手放してしまった日本ビクターが優良企業となったことで、泰三のレコード産業へのこだわりは収まらなくなり、外国事情に詳しい久野に指示して東芝内にグラモフォーン建設部を立ち上げることになる。久野は1953年12月11日に英国EMI傘下のグラモフォンと、フランスのパテ・マルコーニの2社と原盤供給契約を締結した。それと同時にレコード製造技術の確立と、プレス工場を設立するための準備にとりかかった。

このときに戦前から出向先の日本ビクターの洋楽部で活躍していたミュージック・マン、石坂範一郎が泰三の命を受けて東芝へと戻ることになった。

折しもレコードが78回転のSP盤の時代から、RCAが開発した45回転のシングル盤と、CBSが主導する33回転LP盤へと転換していった時期で、まさに新しい時代が始まろうとするところだった。

音楽や放送の将来性に期待していた泰三は、親族の中でも優秀だと評判だった範一郎に大きな期待を寄せた。ビクターに肩を並べて追いぬくこと、それは企業家として面子と信念をかけた戦いであった。

→次回は12月15日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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