ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 14

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生みの親だった石坂泰三、育ての親となった石坂範一郎~「あの会社はつぶしたほうがいい」という発言

生みの親だった石坂泰三、育ての親となった石坂範一郎~「あの会社はつぶしたほうがいい」という発言

第2部・第13章

石坂一族の本家に生まれた石坂範一郎(のりいちろう)は、分家の出身だった石坂泰三とは縁戚にあたる関係にあった。戦前は東芝の子会社になった日本ビクターに出向し、戦後もそのままレコード部門で洋楽部長を務めていた。泰三の命を受けて退職して東芝に戻ることになると、社内では前代未聞の反対運動が起こった。所属歌手や従業員たちが「辞めないで下さい」と書いたプラカードを持って、会社の周りをデモしたというのだ。そんなエピソードが残っているのは、それだけ周囲の信頼が厚かったということであろう。

石坂範一郎の長男で父と同じ慶応大学を卒業し、1968年に東芝レコードに入社して洋楽ディレクターとなり、ビートルズやピンク・フロイドを担当した石坂敬一は、後に外資系のユニバーサル・ミュージックとワーナーミュージック・ジャパンで社長と会長を歴任してきたミュージック・マンである。東芝がレコード産業に参入したことについては、泰三の「弔い合戦」だったとインタビューでこう語っていた。

東芝のトップだった石坂泰三さんが「弔い合戦をやる」ということで、面子にかけてレコード会社を作ることになったんです。それでEMIというイギリスの国策的レコード会社と東芝が技術提携して、東京芝浦電気音楽事業部という部署ができたのが、昭和27年か28年頃です。戦前から戦後、東芝からビクターに行っていた父が東芝に戻って事業部長をやっていました。
Musicman’s RELAY第82回 石坂 敬一

レコード事業のためのグラモフォーン建設部が東芝の総務部の片隅に出来たのは、1954年の4月20日のことである。その当時の東芝は一日に1億円売ると言われ、年間の売上は400億に届こうかという勢いの巨大企業だった。そこがレコードを出すことを大々的に発表し、さっそく日本レコード協会にも加盟したのだ。小規模な産業だった音楽業界にとっては激震となった。そのために新聞や雑誌もニュースを大きく扱い、関係者は成り行きを見守ったという。

イギリスのEMIから派遣された技師の指導のもと、川口市に新しいレコード製造工場が完成したのは翌年の4月である。石坂範一郎が海外のレーベルから契約した原盤を使用して、第一回の新譜を発売したのは1955年9月だ。東芝はここで一気呵成に市場に参入するのではなく、クラシックを中心にして、選びぬかれた良質の音楽を提供するという道を選んだ。そして当時のレコード店との商習慣を守り、穏便かつ慎重にレコード会社を作る準備を進めていった。

まず看板となるフルトヴェングラーに代表されるクラシックと、シャンソンを中心としたポピュラーを発売するエンジェル・レーベルで地固めをした。そして日本で6番目のレコード会社として独立し、ゆくゆくは邦楽制作の道にも踏み出していこう。それが石坂の考えだった。

しかし戦前からの大手5社(コロムビア、ビクター、テイチク、キング、ポリドール)は、専属作家制度という日本特有のシステムで作詞家と作曲家を独占し、他社への作品提供を禁止していた。そのために邦楽制作への新規参入は、高い壁で阻まれている状態が続いた。その壁は高いだけでなく、想像以上に厚く強固なものだった。

東芝レコードは1957年8月にコーラス・グループのダークダックス、11月にタンゴ歌手の藤澤蘭子のレコードを出してみたが、まったく先行きは見えてこなかった。自由な競争が認められていないということは、自由な音楽作りが行われていないということだ。音楽の発展や向上のためには、専属作家制度が大きな弊害だった。だが、どうにも思うにまかせない状況が続いて、東芝レコードは邦楽制作部門の突破口を探して長く苦しんだ。

己の気持ちから始まったプロジェクトだったので、泰三は“財界総理”と呼ばれるほどの影響力を持つようになってからも、東芝レコードのことをいつも気にかけていた。頭のどこかで自分が生みの親だという意識を、ずっと持ち続けていたのだ。

そう考えるとわずか数人から始まったグラモフォーン建設部を、準備期間も含めて15年で1000人を越える社員を抱え、シェアでもトップを争う一流レコード会社へと成長させた範一郎は、育ての親ということになる。いや、実質的には創始者と言ってもいいほど、精神的な支柱となっていたのだ。

しかし頭の上には常に生みの親である泰三が存在し、睨みを利かせている状態だった。城山三郎が書いた伝記的な小説「もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界」には、泰三が東芝レコードに対して怒りを抑えられなくなる場面が出てくる。ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が爆発的にヒットしていた1967年の年末の出来事だ。

山下太郎を失ったこの年の暮れ、石坂の心を騒がせる歌が流行した。学生バンドのザ・フォーク・クルセダーズによる『帰って来たヨッパライ』で、天国行きを目指した酔っ払いが、天国へ入ることを許されずうろうろするといったユニークでユーモラスな歌であった。
だが、この歌は石坂の癇にさわった。妻の死を「最大の不幸」と記したほどの石坂にとっては、死は生の一大事、天国はまた妻雪子と再会できる静かな聖地のはずであった。いや、妻の死とか、わが身の高齢とかを差し引いても、死や天国をそんなふうにふざけの対象にしていいものなのか。
さらに、そうした歌を少年少女までがおもしろがるという風潮が、石坂の心を暗くした。それは、日本の青少年の思想を悪くし、ひいては少年のような日本を危うくすることにならないのか。ユーモアを解することにかけては人に負けぬつもりの石坂であったが、黙っては居られなくなった。しかも、皮肉にも、そのレコードの発売元が東芝の子会社である。石坂は怒りを抑えきれなくなった。
もっとも、石坂は東芝関係は全て土光に任せ、今は一相談役のみである。その辺のところは心得ていて、はっきり物を言い合える間柄の岩田弐夫専務に鬱憤をぶちまけた。
「同じレコードでもベートーベンならいいが、あんなもので儲けるとは、何事だ」
すさまじい見幕でたたみかけ、
「経営とは徳義だ。あんな歌で儲けるくらいなら、あの会社はつぶしたほうがいい」とまで言った。もっとも、爆発させてしまえば、それで終わりで、そのレコード会社は以後も若者向けのヒット曲で成長を続けることになる。
もう、きみには頼まない

城山三郎著
「もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界」
文春文庫

 

「山師」「詐欺師」などと陰口をささやかれてきたアラビア石油の社長、山下太郎のことを泰三は全面的に支援していた。それは日本の国におけるエネルギー政策の根幹に、石油の安定供給が不可欠だと信じていたからだ。泰三は経団連を通して有力企業各社に出資させたほか、個人保証で90億もの資金を用立てていた。

ところが山下は1967年6月9日、心筋梗塞で急逝してしまう。責任を感じた泰三は81歳の老体に鞭打ち、アラビア石油の社長に就いて働いていた。そうした時期に爆発的にヒットしたのが「帰って来たヨッパライ」だった。不快に感じたとしても当然のことだった。

このときの「あの会社はつぶしたほうがいい」という発言は、心の底から湧き上がった怒りの発露だったに違いない。当然ながら、東芝レコードの経営の責任者だった久野元治会長と専務の石坂範一郎にも、大きな雷となって落とされていたのであろう。

→次回は12月15日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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