ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 15

Other

ついに生まれた邦楽のヒット曲「ダイアナ」~「日劇ウエスタン・カーニバル」から始まったロカビリー・ブーム~

ついに生まれた邦楽のヒット曲「ダイアナ」~「日劇ウエスタン・カーニバル」から始まったロカビリー・ブーム~

第2部・第14章

東芝レコードに初めて邦楽のヒット曲が誕生したのは、1958年2月に開かれた「日劇ウエスタン・カーニバル」を契機に、突如として巻き起こったロカビリー・ブームがきっかけだった。このときのロカビリー・ブームは、その後に邦楽部門の柱となる人物たちが出会い、東芝レコードに大きく貢献するアーティストが次々に生まれる場となった。

ミュージック・ライフの編集長だった草野昌一は、それまで春と夏に小さなホールで開かれていたウエスタン・カーニバルが、次第に熱気を帯びて着ていることを実感していた。出演していたバンドマンたちもそれを望んでいたので、日本を代表するショービジネスの殿堂、有楽町の日劇で大々的に開催したいと考えた。草野からその話を相談されたのが、「日劇ウエスタン・カーニバル」実現をさせる渡辺プロダクションの渡邊晋である。

しかし草野たちから相談を受けても、渡邊晋は自ら表立って動くわけにはいかなかった。朝鮮戦争が休戦になって日本に駐留していたアメリカ軍が大量に帰国したために、ギャラが高かった基地の仕事が一気に減ってしまった。そのことで生活に困るジャズ・ミュージシャンたちが増えて、音楽業界には先行きに暗雲が立ち込めていた。

したがってロカビリー人気に便乗するかのように見られるのは困るが、新しいムーブメントを手がける必要性を感じていた。そうした思惑と周囲への配慮から、副社長だった妻の美佐に企画とプロデュースを任せた。そして東宝のプロデューサーでもあった日劇の山本紫郎に演出を頼んで、興行を引き受けてもらった。山本は当初、「海の物とも山の物ともわからない素人を、日劇の舞台に出すのははじめてだな」とぼやいていたが、渡邊晋は「だから可能性もあるんじゃないの」とフォローした。

ほとんど期待されていなかった「日劇ウエスタン・カーニバル」だったが、1958年2月8日に開催されると、熱心なファンが早朝から集って初日は予想を遥かに超える集客で盛り上がった。観客の中心は若者やティーンエイジャーで、ステージの前に駆けつけて熱狂する姿が翌日の新聞に取り上げられた。こうして常打ちの劇場で行われたひとつのショウの上演が、音楽シーンだけでなく社会的な事件として、センセーショナルに扱われて報道された。

読売新聞政治記者だったら戸川猪佐武は、著書「戦後風俗史-ろうそくからテレビへ廃墟から生活革命へ」で、当時の模様をこのように記している。

初日――幕を開けた日劇は、腰を抜かすほどおどろいた。日劇の周囲には一五、六歳のロー・ティーン――この時からロー・ティーンという言葉がはやりだした――が幾重にも列を作り、ステージに近いところが、文字通り立錐の余地もないほどの混雑で、エプロン・ステージにかぶりついてバンドのリズムに合わせて足ぶみをしているものもあった。
一人ずつ歌手が登場すると、彼女たちは口ぐちに名前を叫び、ハンカチをふる。歌手は足をふるわせてヒザを曲げる。体を二つに折る。思いきり飛びあがる。しゃがみ込んで髪をかきむしる。ひざまずく。ついには寝てしまう始末だ。騒ぎのクライマックスに達したロー・ティーン族は、花束を投げる、バクチク(クラッカーのこと)をならす、紙吹雪をまく、テープを投げる、もはや、歌声もギターも狂ったようにたたきまくるドラムすらも聞こえない。場内は、彼女たちの気ちがいじみたけたたましい声のるつぼだった。
歌手たちは投げキスをしたり、ウィンクしたりのサービスを忘れない。興奮した少女の一人は、ステージに躍り上がって歌手の首にだきついてキスをする。日劇の係員がとびだして少女たちを引きずり下ろした。
(戸川猪佐武著「戦後風俗史-ろうそくからテレビへ廃墟から生活革命へ」雪華社)

最初に人気が爆発したのは平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎、いわゆる“ロカビリー3人男”である。あまりの反響に新宿のコマ劇場でも「ウエスタン・カーニバル」が開かれたほか、春夏秋冬と3ヶ月おきに日劇で開催されることになった。その後も「日劇ウエスタン・カーニバル」から若いロカビリー歌手が次々に輩出されて、ジャズ喫茶から日劇の晴れ舞台を経てレコード・デビューするという、スターになる道ができていく。そこで最年少でスターになった少年が、半年後の坂本九である。

ロカビリー・ブームは日本におけるロックンロールとティーンエージャー向けのポップスによる、新たな音楽のムーブメントだった。初代の“ロカビリー3人男”の人気が爆発した頃、まだレコードを出していなかったのはマナセプロダクションの山下敬二郎だった。ビクターとの契約が決まる寸前だったところへ、東芝レコードが割り込む形で土壇場になって獲得に成功した。

この逆転劇で大きな役割を果たしたのも渡邊晋だった。妻の美佐の父に当たるマナセプロダクション社長、曲直瀬正雄に対して新しいレコード会社と組んでみてはどうかと説得したのだ。こうして山下敬二郎のデビュー曲「ダイアナ」は、東芝レコードから出ることになった。人気ジャズ・ピアニストの中村八大が編曲に起用されたのも、やはり渡邊晋の推薦によるものだった。

そして各社の競作になった「ダイアナ」の中から、発売と同時にヒットしたのは山下敬二郎のヴァージョンだった。山下敬二郎の人気によるところもあったが、アレンジとサウンドの切れ味が、他社のそれを圧倒していたことが大きかった。そのことは実際に音源を聴き比べてみれば、今でもすぐに分かることだ。

ダイアナ

邦楽部門にヒット曲が誕生したことで、東芝レコードは独立に向けてはずみが付いた。石坂範一郎は渡邊晋と美佐の協力を得て、邦楽制作で提携することにした。「ダイアナ」がヒットした直後の6月、大手町の日本工業倶楽部で「東芝・渡辺プロ提携」の披露パーティーが開催された。この提携にはまだ具体的な契約があったわけではない。単に両者の友好関係を確認し、それを内外にお披露目するものだった。

マスコミは財界の拠点・経団連のあるビルで、芸能関係の催しが行われることに注目した。邦楽制作に本格的に取り組む東芝レコードとしては、これまでの専属作家に頼らずに渡辺プロダクションや、副社長の美佐の実家であるマナセプロダクションなど、ポップス系の新興勢力と組んでいくことをアピールしたのだ。そこに執務を終わって退出する経団連会長の石坂泰三が、顔を出したのはたまたまのことだった。

その日の執務を終えた泰三が帰り際に、「おい、楽隊の音がする。いったい何だ」と秘書に聞くと、「あれは会長のところのレコード会社のパーティーですよ」と教えられた。そこで会場に入ってきた泰三は、「うちのパーティだそうだな」とあたりを睥睨(へいげい)した。堅苦しいこのビルで、バンドが演奏するパーティは前代未聞のことだった。

泰三の登場で周囲が一気に緊張し、東芝レコードの幹部たちのこわばった顔の中で、渡邊晋と美佐を紹介された泰三は、やがて笑顔になって歓談に加わった。日本の企業の近代化と国際化に力を注いでいた泰三は、ここで渡邊夫妻と出会ったことで、旧い体質から脱皮して近代的なエンターテイメントのビジネスを目指す二人に信頼を寄せるようになっていく。

この偶然を仕掛けたのは、石坂範一郎であったに違いないと筆者は思っている。パーティを開くならば東芝レコードが入っていた有楽町の朝日新聞社ビルにも、渡辺プロダクションがあった日比谷界隈にも、いくらでもふさわしい場所があったからだ。にもかかわらず、わざわざ日本工業倶楽部という、いかにも堅い場所を選んだのは泰三へのアピールだったと思われる。

それから12年後、日本で初めて開催された大阪万国博覧会では、泰三からの直々の依頼で美佐がポピュラー部門音楽プロデューサーに任命された。そこで公募された歌詞から作られたテーマソングを作曲し、プロデュースしたのは中村八大だった。ここでも「ダイアナ」から始まった線がつながっているのがわかる。

こうして渡辺プロダクションとも友好的な関係になった東芝レコードだったが、「ダイアナ」以降はヒットが続かず、邦楽制作部は軌道に乗れないまま再び苦しむことになった。そして1年が過ぎたところで、山下敬二郎の「ネリカンブルース」で大きくつまずいてしまうのだ。

→次回は12月19日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

vol.14
vol.15
vol.16