ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 16

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一度はお蔵入りとなった「黒い花びら」が与えた衝撃~待望の輝かしい明日に向けて前進した東芝レコード~

一度はお蔵入りとなった「黒い花びら」が与えた衝撃~待望の輝かしい明日に向けて前進した東芝レコード~

第2部・第15章

東京・練馬にある少年鑑別所で歌い継がれていた「練鑑ブルース」は、口伝で伝わってきた作者不詳の歌だ。これがロカビリー歌手総出演の東宝映画『檻の中の野郎たち』の主題歌に決まった。それを歌うことになったのが、ホリプロダクションが売り出していた新人の守屋浩である。

ミッキー・カーチスと山下敬二郎との3人で『檻の中の野郎たち』に主演していた守屋浩は、7月下旬に公開される映画にさきがけて、6月にコロムビアからレコードを発売することになった。ただし歌い継がれている俗謡のままではさすがに倫理的にまずかろうと、『檻の中の野郎たち』の脚本家でコロムビアの専属作詞家でもあった関沢新一に、穏便な歌詞を書き下ろしてもらった。

タイトルも「練鑑ブルース」ではなく、映画と同じ「檻の中の野郎たち」と変えている。さらにビクターも、映画に脇役で出ていた新人の坂本九にこの曲を歌わせることにした。それが「野郎たちのブルース」だったが、東芝レコードもそこに乗り遅れまいと、映画に主演していた山下敬二郎で追いかけた。その名もずばり「ネリカン・ブルース」を作ったのである。

こうして「練鑑ブルース」をもとにしたレコードが、3社による競作でほぼ同時に発売されることになった。それが大きな社会問題になったのは、たまたま毎日新聞がその頃に「青少年不良化防止キャンペーン」を展開していたことによる。「青少年不良化防止キャンペーン 続・愛の鐘を鳴らそう」を連載していた毎日新聞は、「口から口へと歌い継がれる日陰の歌」として「練鑑ブルース」を紹介したばかりだったのだ。

「練鑑ブルース」を題材にしたレコードが、各社から競うように発売されることに対して、毎日新聞は「非行少年たちの“隠れた歌”が公然とレコード化され、それがラジオ、テレビで広く伝波されることになれば青少年不良化防止の“愛の鐘”運動の趣旨に反する悪影響が予想される」と、6月30日の社会面で大きく取り上げた。そこに法務省までもが介入してきた。

法務省では「現在鑑別所に収容されている少年の更生を妨げ、その父兄、関係者の心情を傷つけるものだ」などの四点の理由をあげ二十九日、レコードの制作と販売の中止を要望した。レコード制作基準管理委員会では三十日正午からの臨時委員会でこの問題を取りあげる。
(毎日新聞1959年6月30日)

矢面に立たされたのはコロムビア、ビクター、東芝レコードの3社だった。6月30日の正午から開かれたレコード制作基準管理委員会の臨時委員会で、それらの3社が発売について再検討したいと、自発的に申し出たことが発表された。そのために結論は7月2日に開かれる委員会に持ち越しとなった。

毎日新聞はそこへ追い打ちをかけるように、「レコード会社に警告する」という社説を7月1日に掲載する。そこでは守屋浩の「檻の中の野郎たち」について、特にコロムビアが示した見解と態度を強い口調で非難していた。

この機会にいいたいのは流行歌を作る人たちの、ものの考え方の浅さについてである。ヤクザを否定すればヤクザを取り扱っても問題はない、というのがヤクザの歌をはやらせる口実になっているが、実際には、ヤクザを否定することで、感傷的気分をそそっているため、かえってヤクザを好ましいものに感じさせている。ぐれた女性の感傷を主題にして、やはり同様な気分を、世間に与えている傾向もあるし、愚劣低級な歌の数々で、一般の娯楽に暗い影をつくりすぎていることを、反省してみてはどうだろう。我々は「練鑑ブルース」の発売をとりやめるようにすすめると当時に、商売のために、流行歌を邪道へそれさせているレコード会社に警告する。
(毎日新聞1959年7月1日)

経団連を率いる財界のリーダーとして社会的に大きな影響力を持つようになっていた石坂泰三は、日頃から「人間評価の第一はモラルである」と説いていた。そして東芝の会長という以上に、すっかり公的な存在となっていたので、周囲からはますます清廉潔白を求められた。低俗と呼ばれる音楽で金儲けに走ることなど、まったく泰三の意に反することでもあった。

三大新聞の社説で「愚劣低級な歌の数々で、一般の娯楽に暗い影をつくりすぎている」と非難されるようなレコード会社は、泰三が目指していた理想とはほど遠いものだった。毎日新聞の記事が出てすぐに、石坂範一郎が発売中止の判断を下したのも当然のことだ。同じく発売前だったビクターも東芝レコードに追随した。

コロムビアの「檻の中の野郎たち」はすでに発売された後で、店頭に並んだレコードの売れ行きは好調だったが、コロムビアも抵抗をあきらめて店頭からレコードを回収せざるを得なくなった。

そんな騒ぎが収まった直後、ジャズ・ピアニストの中村八大が話をしたいと範一郎のもとを訪れた。話の趣旨は「黒い花びら」(作詞・永六輔)を何とかもう一度、レコードにして発売してもらえないかという申し入れであった。

東宝から映画『青春を賭けろ』の音楽を相談された渡邊晋によって、音楽監督へ起用された中村八大が、映画の挿入歌としてつくったのが「黒い花びら」だった。映画の中では主演の夏木陽介の代わりに、マナセプロダクションに所属する新人の水原弘がオーディションで抜擢され、吹き替えて歌った。

ポール・アンカの「ユー・アー・マイ・デスティニー」にも似た雰囲気の「黒い花びら」は、三運符を重ねたロッカバラードで、それまでの日本にはない都会的でモダンなテイストのポップスだった。そのために同じマナセプロダクションの山下敬二郎が歌う「ネリカン・ブルース」のB面として発売される予定になっていた。

ところが「ネリカン・ブルース」が発売中止に追い込まれたため、巻き添えをくらってB面の「黒い花びら」もお蔵入りになってしまった。もしこのまま、「黒い花びら」が日の目を見なかったならば、日本の音楽の進歩は大きく遅れていただろう。もしかすると現在の音楽シーンは、まったく別の様相を呈していた可能性もありえる。

しかし音楽の神様はこの土壇場で、鮮やかな逆転劇を用意してくれた。発売中止を知らされてがっかりしていた中村八大の家に、コロムビアの若手ディレクターだった長田幸治がやって来たのが発端だ。長田は老舗のコロムビアでポップス部門を担当し、守屋浩を5月にデビューさせていた。

第2弾の「檻の中の野郎たち」では中村八大に採譜とアレンジを頼み、6月の下旬に発売してヒットまちがいなしと思ったところで、新聞に糾弾されて回収となってしまった当事者でもあった。中村八大から「黒い花びら」の相談を受けた長田は、「ビクターのフランク永井なら10万枚はいくよ」と言った。

中村八大は自分がオーディションして選んだ水原弘のしゃがれたハスキーな低音のおかげで、「今までにないセンスの曲ができた」と自信を持っていたので、彼が歌うのがベストだと考えた。そこで東芝レコードに自分の思いを伝えるとともに、日本の新しい音楽を作っていきたいとアピールすることにしたのだ。

範一郎は中村八大から話を聞くと、直ちに「黒い花びら」をA面にした水原弘のデビュー・シングル盤を、可能な限り早く臨時発売する決断を下した。こうしてスターがA面、新人はB面というのが普通だった当時のレコード業界にあって、新人がA面という異例の扱いで「黒い花びら」は発売されることになった。

黒い花びら

社内の宣伝や営業の担当者たちはこの動きを、半信半疑の様子でながめていたという。「ネリカン・ブルース」を企画した担当ディレクターの松田十四郎も、同僚のディレクターたちも、「黒い花びら」に対しては「変な歌だなあ」と口をそろえていたのだ。それは「黒い花びら」があまりに新しすぎて、いまひとつ理解できなかったからだった。

だが「黒い花びら」は発売と同時に東京の下町から火がつき、やがて全国的に若者たちの支持を集めて大ヒットした。これはアメリカの文化に馴染んで感覚が進んでいた若者たちと、ついていけない大人たちの差がくっきり浮かび上がったエピソードとなった。

まだ映画が公開される前の段階で、水原弘が「日劇ウエスタン・カーニバル」で歌った「黒い花びら」を聴いて高い評価を与えたのは、雑誌「ミュージック・ライフ」の編集長だった草野昌一である。そのときの模様を「ミュージック・ライフ」の誌上に掲載していた。

水原弘の「黒い花びら」。中村八大の曲で、ロック調のバラード。水原の個性をよく生かしている。水原も独特のハスキー・ヴォイスで暗い感じをよく出しているし、歌のうまさでは平尾に次ぐ。この二人とも歌手としてしっかりした“根性”を持っている。二人とも流行歌に進むようだが、流行歌手としてきっと成功するだろう。坂本九の「トラブル」は可もなし不可もなし。
(「ミュージック・ライフ」1959年8月号)

ウエスタン・カーニバルの生みの親の一人であり、応援団のような立場だったこともあって、草野はショーを見る目はいつも真剣そのものだった。また草野は高校生だった坂本九の素質にも、この頃から大いに注目していたという。だがこの日はさほど、心を動かされなかったようだ。

また次の文章からは「ネリカン・ブルース」に対して、草野がはっきり否定的であったこともわかる。

第八景。「檻の中の野郎たち」。山下、ミッキー、坂本、水原、井上、守屋の六人による「ネリカン・ブルース」。東京鑑別所の非行少年の歌を何も日劇のステージで歌うこともなかろう。さすがに山下はこの歌を照れ臭そうに歌っていたが、「山下も大人になったな」とほほえましく感じられた。こんな歌を大真面目で歌ったってどうしようもなかろうに。
(同上)

草野の記事が出てから半年後、「黒い花びら」はその年に制定された第1回レコード大賞で大賞に選ばれた。水原弘のしゃがれた低声の魅力、秀でた歌唱力、それらを最大限に引き出した詞と曲、サウンドが認められたのである。

このことがきっかけとなって東芝レコードの邦楽制作部門は、ようやく軌道に乗ることが可能になった。歌った水原弘ばかりか、作詞家も作曲家も新人だった。そのことから作詞の永六輔と、作曲した中村八大も大いに脚光を浴びた。時の人としてマスコミで取り上げられたことで、中村八大と永六輔は日本の音楽シーンに新風を吹き込んでいく。

→次回は12月22日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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