vol.18 ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち

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渡辺プロダクションが始めた原盤制作というシステム~クレイジーキャッツのメンバーだった植木等の「スーダラ節」~

渡辺プロダクションが始めた原盤制作というシステム~クレイジーキャッツのメンバーだった植木等の「スーダラ節」~

第2部・第17章

東芝レコードが待ち望んでいた純然たる国産のオリジナルソングによるヒット曲は、渡辺プロダクションとの提携から誕生した。ハナ肇とクレイジーキャッツのメンバーだった植木等の「スーダラ節」は、1961年の8月20日に発売されて大ヒットした。これは植木等が機嫌のいい時に発する口ぐせ、「スイスイスイ」や「スンダラダッタ」という、意味不明だが調子のいいフレーズをもとにして生まれた。渡邊晋はクレージーキャッツが出演する映画のために、新しい歌を作る必要があったので自らプロデュースしたのである。

作詞を担当したのはフジテレビで放送されていたコント番組『おとなの漫画』で、毎日のようにクレージーキャッツが演じる台本を書いていた放送作家の青島幸男だ。これが当時のサラリーマンの気持ちにフィットした歌詞で、「わかっちゃいるけどやめられない」という決めフレーズも流行語になるなど、時代の気分を上手にとらえていた。なお青島幸男が初めて手がけた歌作りは、坂本九の出世作となった「悲しき60才」で、名目上は訳詞の扱いになったが、実際は作詞に相当する仕事だった。

植木等のとぼけたキャラクターを存分に活かして、陽気で軽やかな曲を作ったのは萩原哲晶(ひろあき)。クレージーキャッツの前身だった「ハナ肇とキューバン・キャッツ」のメンバーで、植木等の個性や音楽性の高さを熟知していた萩原だから、それまでの日本にはない破天荒でコミカルな楽曲を誕生させることができたとも言える。

「スーダラ節」は渡邊晋を中心に、クレージーキャッツのブレーンが集まり、みんなでアイデアを出し合って作られた。これを自社の原盤制作としてレコードにしたいと、渡邊晋は担当ディレクターの松田十四郎を通して石坂範一郎に申し入れた。

ここで範一郎は日本のレコード会社として初めて、渡辺プロダクションと原盤制作の契約を締結している。渡辺プロダクションが企画からレコーディングまでを行い、かかった制作費をすべて負担する代わりに、1枚のレコードについてのロイヤリティを原盤印税で受け取るという内容だった。

こりゃシャクだった/スーダラ節

これはまさに日本のレコード会社のあり方を根底から覆す、きわめて重要で歴史的な判断となった。それまでレコードというものはレコード会社が企画から制作、製造、販売まで、トータルで行うのが基本になっていた。だから歌手はもちろんのこと、作詞家も作曲家も、一流になったら必ずレコード会社に専属する契約を結んだ。その3者を組み合わせて文芸部が作品を企画し、作られた楽曲をレコーディングしていたのである。ときには専属作家以外の作品を作るという例外もあったが、そうした場合はレコード会社が楽曲の著作権をきわめて低額で買い取ってしまい、売上に対する印税は作者に支払われなかった。

レコード産業の黎明期にはレコーディングが可能なスタジオも、レコードをプレスする工場も、基本的にはレコード会社にしかなかった。だからこうした方法が戦前から定着していたのだ。しかしラジオやテレビといった放送技術の発達にともなって録音技術が大きく進歩し、放送に使われる独立スタジオなども増えてきた。

そこに第1回レコード大賞を受賞した「黒い花びら」によって、作詞者も作曲者もフリーランスでありながら、大ヒット曲を生み出せることが証明されたのだ。しかも中村八大と永六輔は東芝レコードと専属契約を結ばなかった。否、石坂範一郎もまた、専属契約で作家の才能を縛ろうなどとは考えていなかったのだ。

渡邊晋は自分が関わった映画の音楽から「黒い花びら」が生まれたことで、レコード会社とプロダクションの役割についてあらためて考え直した。そして渡辺プロダクションが制作を行う原盤契約を、提携している東芝レコードとの間でスタートさせることにしたのだ。これがそれまでの日本のレコード会社のビジネス・モデルを、根本から変えてしまうものとなるのである。当然だが他のレコード会社ならば、絶対に許されなかったであろう。

渡邊美佐がその間の事情を、後にこう回想している。

「当時の東芝レコードそのものが、エンジェル・レコードから東芝に名前が変わってまだ間がない頃で、先代の専務の石坂さん(石坂範一郎氏)が制作部の本部長か何かだった頃でしょう。若いディレクターたちがいつも身近に出入りしていたし、そんな中で生まれていった作業だったと思うのよね。でも、東芝レコードとしては、レコード協会とか、そういうところに呼ばれたりして、いろいろ言われたりしたらしいけど、当時は森山加代子も坂本九も東芝だったし、新興のレコード会社として勢いがあったわね」
熱狂の仕掛け人

湯川れい子著
「熱狂の仕掛け人」
小学館

それが海外における標準的な方法であったことから、近代化と自由競争を推し進める範一郎は、日本に初めて原盤制作システムを導入するのに躊躇しなかったのだ。レコード業界でも洋楽の分野では、すでに原盤権という言葉が使われていた。海外のレコード会社から契約に基づいて送られてきたマスターテープ、すなわち原盤を商品化して得られた収入の一部を、印税として送金するというビジネスモデルは確立していた。

範一郎は渡邊晋や美佐たちとともに、海外の音楽出版社やアーティスト契約をもとにしたシステムを、東芝レコードとして導入したとも言える。それは専属制度を破壊することにつながるのだから、他の5社から大きな反発を買ったであろう。だがそれを説得できるだけの知識や理論を範一郎が持っていたので、レコード協会としても納得せざるを得なかったに違いない。

こうして渡辺プロダクションは企画と制作で金銭的リスクをとるかわりに、ヒットした場合は多額の収益を得られることになった。企画と制作の現場がこれまで以上に情熱を持って取り組んだのは当然のことである。

テレビで人気が出ていたコミカルなジャズ・バンド、クレイジーキャッツは「スーダラ節」の大ヒットでブレイクし、翌年には映画『日本無責任時代』が大ヒットして国民的な人気者になっていった。

このような動きを見ている限り、東芝レコードの将来は当時の人々の目には前途洋々に映っていたであろう。創立2年目に突入した1962(昭和37)年1月25日の午後1時、新橋の第一ホテルで「1961年度東芝レコード賞」授章者の表彰式が開かれた。

○ヒット賞(特別賞)
「上を向いて歩こう」坂本 九/永 六輔/中村八大/中村八大

○ヒット賞(シングル盤)
「じんじろげ」森山加代子/渡 舟人/中村八大/中村八大
「スーダラ節」植木 等/青島幸男/荻原哲昌/荻原哲昌
「ステキなタイミング」坂本 九/漣 健児/ダニー飯田
「アンコ悲しや」松山恵子/藤間屮雄/地田幸造/地田幸造
「九ちゃんのズンタタッタ」坂本 九/青島幸男/青島幸男/ダニー飯田
「恋の三度笠」松山恵子/袴田宗孝/袴田宗孝/袴田宗孝
「波止場気質」藤島桓夫/島田磐也/飯田景応/飯田景応
「裏町人生」水原 弘/島田磐也/阿部武雄/中村八大

○ヒット賞(LP盤)
「九ちゃんとパラキン」坂本 九・石川 進・佐野 修・増田多夢・上野保夫 演奏/ダニー飯田/石田 智/国原可知
「魅せられしギター」演奏/松宮庄一郎 編曲/宮川 泰

○新人賞 弘田三枝子
渚 幸子

○歌唱賞
朝丘雪路

(作品の表記は、曲名、作詞家、作曲家、編曲家の順)

主な受賞者は上記のとおりだが、会社創立以来の大ヒットになった「上を向いて歩こう」を筆頭に、中村八大のプロデュース作品と坂本九の活躍が特に目につく。

→次回は12月29日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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