ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 19

Other

何度も繰り返される「東芝の悲劇」~特権意識と結びついて現実が見えなくなる怖さ~

何度も繰り返される「東芝の悲劇」~特権意識と結びついて現実が見えなくなる怖さ~

第2部・第18章

本論を書くためにぼくは何度も何度も、『東芝音楽工業株式会社10年史』を読み返すことになった。そして社史に載っていた歴代の首脳陣の名前と経歴を調べ直していると、かなり驚かされることがあった。それは創立時の取締役会長が岩下文雄(当時の東芝社長)であり、初代の取締役社長が大谷元夫(当時の東芝副社長)だったという事実に気づいたからだ。

相談役の肩書ではあっても圧倒的な存在感を示す石坂泰三は、社史のなかでも節目となる催しの写真などで取り上げられていた。そのことには前から気づいていたので、生みの親が石坂泰三だというイメージに違和感はなかった。しかし会社が創立時の取締役会長と社長および相談役が、実は親会社の東芝と全く同じ顔ぶれだったということは今回あらためて知った。そこにはどんな意味があったのか。

1965年に起きた東芝の社長交代劇を分析した本、三鬼陽之助の「東芝の悲劇」と照らし合わせると、さまざまなことが明らかになった。戦後の混乱期に潰れる寸前だった名門の東芝を見事に再建した泰三と、重電部門の生え抜きだった岩下社長と大谷副社長以下、東芝の重役たちの確執にこそ、巨大企業の根本的な病根があると三鬼は断定していた。

戦後の混乱のなかで瀕死の状態にあった東芝の再建に一応の目処がついたと判断した泰三が、社長の席を副社長の岩下に譲ったのは1956年のことだった。そこから石坂は経団連の会長という重責を務めることになり、東芝についてはお目付け役として睨みをきかせ、社長の岩下がリーダーとなり、それを副社長の大谷が補佐するという体制が10年近くも続いた。

強烈な個性とカリスマ性を持つ経営者だった泰三は、サラリーマン出身ではあったが、清濁併せ呑む懐の深さを持っていた。経済の基本はまず豊かになることで、日本経済のポテンシャリティを信じて拡大に全力を注いだ。それと同時に経済秩序や道義、企業モラルの確立を強く求めた。したがって自らを律することには厳しく、徒党を組んだりすることはなかった。

しかし岩下や大谷は学閥や派閥を組むことで出世してきたエリートたちだった。そのために岩下社長と大谷副社長の時代になってからは、派閥による側近政治が始まって経営陣の内紛や、重電と軽電の抗争が生じた。その間に弱電部門ではトランジスタラジオと白黒テレビの著しい普及、3種の神器ともてはやされた洗濯機や、高額商品の冷蔵庫とカラーテレビの売上増で、年ごとに大きく業績を伸ばしてきた。重電部門も日本経済の高度成長期と相まって、当初は順調に成長していった。

そこからがまさに大企業病の怖いところで、業績が順調で資金的に余裕があることで、時機を逸した設備投資や甘い販売政策、数字のごまかしなどが大目に見られて、不正がはびこる体質につながっていく。三鬼はいくつかの具体例を上げてそれを分析し、特権意識によって現実が見えなくなる怖さが、「東芝の悲劇」の核心にあると書いていた。

一高から東大を出たエリートの岩下社長は「短期で気ぜわしい習癖」で、よく部下を門前で叱りとばしたという。そのため部下は萎縮してしまって、イエスマンばかりが集まることになった。岩下は高級志向と上流趣味が人一倍強く、東芝の会長室と社長室に最新のバス・トイレを付けさせた。外国人も出席するパーティには背広でなく、タキシードに着替えてから出かけたという。さらには専用の料理人を雇い、エレベーターには天皇の「お召し列車」よろしく、他の人間を乗せなかった。自分一人だけでエレベーターを専有するという態度は、確かに普通ではなかった。

泰三が再建に成功した1952年の売上は100億だったが、1960年には1500億にまで伸びていた。それは1962年のピーク時に2400億にまで達した。8年で15倍、10年で24倍である。しかしそこから売り上げは下り坂になり、計上利益もまた急速にダウンしてしまう。もちろんこれは前年に開催された東京オリンピックに向けて、国を挙げて行った振興策に対する反動という面もあった。ライバルの各社も碓かに一時的には売上を落とした。

しかし最大のライバルである日立がすぐに業績を回復させたのに対して、東芝はまったく回復できなかった。日立との差が開くばかりになっていくのを見て、業を煮やした石坂泰三は岩下社長や大谷副社長に見切りをつける。そして以前から手腕を認めていた土光敏夫を社長に招いて、急速に傾きつつある会社の抜本的な立て直しを依頼することにした。

石川島播磨重工業(現IHI)で社長と会長を歴任した土光敏夫は、中堅企業だった造船会社を世界的な規模の会社に育てた実績は申し分ないものだった。泰三からその経営手腕を評価されて、すでに東芝の社外取締役を引き受けていた。

日々に新た



土光を泰三と比較すると、出自や経歴についてだけ見るならば、かたや地方出身で高等工業学校卒のエンジニア、かたや東京出身で東大法学部卒のキャリア官僚と、大きく異なっている。経営者としてのタイプとリーダーシップの発揮の方法などでも、相違点はいくつも見受けられる。しかし人間的な面に目を向けると、二人ともに我執を離れて真面目で誠実、勉強家で金銭的にも恬淡として共通点が多い。

土光は1965年の春に、東芝の社長就任という話を泰三から内々に持ちかけられた。だが正式な要請はないまま訪韓経済使節団の一人として、4月にソウルで開かれていた韓国の財界人との会議に参加していた。その時に新聞が先行する形で社長就任の記事がスクープされた。

東芝の社長交代劇は4月19日の朝、岩下社長交代を窺わせるニュースが通信社のファックスによって流れて始まった。それに刺激された新聞社はその日の夕刊や翌日の朝刊で、一斉に「岩下社長の辞任、土光後任社長の内定」と報道した。社長の岩下と部下たちはそんな状況の中で、一丸となって泰三への反撃に出た。

岩下の「わたしが相談役になるという見方もあるが、そうはならない。会長として残るつもりでいる」というコメントが日本経済新聞に載った。その後もあれこれと先走った憶測記事が、たえまなく飛び交うことになった。この段階ではまだはっきり固まった話ではなく、石坂の内密の発言から、新聞記者が推測したものだったことが判明する。

岩下も、まだ役員会で辞意を表明していなかったし、いわんや、土光への正式申し入れは、ぜんぜん、行われていなかった。いわば練り上げの最中で、まだ十分に根回しのできていないときに新聞辞令が出たのである。いつの場合でも、先走った新聞辞令は、問題を紛糾させる。今度の東芝人事についても、石坂は「混乱したのは新聞が悪いのだ」と、憤慨した。発端となった某社のスクープは、そのニュース・ソースが、皮肉にも当の石坂自身だったが、こうして騒ぎが拡大するとは、予期しなかったようである。
(三鬼陽之助著「東芝の悲劇」カッパ・ブックス)

4月23日の夕刻、雨に濡れた羽田空港に訪韓経済使節団を乗せた、韓国からの航空機が着陸した。タラップを降りた土光は記者会見の場で、経済記者たちからの質問に答えている。その席で「岩下会長でもいいか」と問われると、「受けるかどうかはこれからの問題だ。まだ具体的には考えていない。受けるとなれば、いろいろ研究し、相談をしなければならない。この話はこのくらいで勘弁してくれ」と正直に話した。

それから5日が経った4月28日の朝、新しい人事について話し合われる東芝の役員会議が始まる1時間前、土光と石坂、岩下の三人が初めて顔を揃えた。そこで「土光の社長就任、岩下会長、石坂相談役」が決定したのだ。土光敏夫は社長を引き受けるにあたって、一切の注文をつけなかった。かつての泰三と同じように単身で東芝にやってきた。自分を頼んだ泰三に代わって、岩下が会長に就任することも黙って受け入れた。

土光は社長に就任すると名門意識が強い東芝の社員たちに、「一般社員は、これまでより三倍頭を使え、重役は十倍働く、私はそれ以上に働く」と檄を飛ばした。そして毎朝七時半には出社して、びっしり働いた。初出社の日には受付で守衛に「どなたでしょうか?」と訊ねられて、「こんど御社の社長に就きました土光という者です」と珍妙なやり取りを交わしたというエピソードが残っている。

→次回は1月2日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

vol.18
vol.19
vol.20

編集部のおすすめ