ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 20

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経営危機に見舞われた東芝音楽工業~名門ゆえのエリートたちの奢り~

経営危機に見舞われた東芝音楽工業~名門ゆえのエリートたちの奢り~

第2部・第19章

新社長の土光敏夫は質素な生活で倹約家として知られていたが、当然のこととして岩下前社長が作った豪華な社長室と会長室のバス・トイレを、「こんなものいらん」と言って取り壊させた。豪華だった重役室を減らして、たくさんいた秘書たちの数も大幅に削減した。

川崎市の堀川工場の労働組合本部を一升瓶片手に訪れたのは、初出社から一週間も経たないうちのことだった。それまで組合の三役は本社に呼ばれていたので、前代未聞の社長による訪問と膝を突き合わせての話し合いには驚かされた。

土光は「仕事の上では社長も社員も同格である」と考えていた。その意識をお互いが共有するには顔を突き合わせて話し合うことがいちばんいいと、社員との信頼関係を議論を通して深めた。従業員の声を自ら率先して聞き、現場で働く社員たちとも率直に話し合いを持った。

日頃から自分の考えを社員全員に言葉で伝えるように努めて、全国30カ所を超える工場と営業所、支社の訪問を開始した。地方にある工場や営業所めぐりは、本社での仕事の合間を縫って行われた。それもほとんどは夜行列車で行って訪問し、翌日の夜行で帰ってくるという強行軍だった。土光は70歳の誕生日を迎えても夜行で出張をくり返したが、著書「私の履歴書」にこう記している。

上から下まで、全従業員と話し合う楽しみがあった。この工場めぐりで、はじめて知ったのだが、東京に近い川崎ですら、今まで一度も社長が来たことがない、という工場があったのには驚いた。彼らは、私を『オヤジ、オヤジ』と呼んで歓迎してくれ、のちには私の自宅に遊びに来る者もあった。
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土光敏夫著
「人間の記録 第190巻 土光敏夫: 私の履歴書」
日本図書センター

これは天上人のような振る舞いを望んだ前社長の岩下とは、まったく正反対の思考と行動だった。そのかいあって翌年の1966年、東芝は早くも再建に目処を立てている。1967年3月期には当期利益33億円を計上し、増配を果たした後も2年連続で増配を続けて1969年には1割2分配当を実現したのだ。そして同年の下期は売上高が2869 億円と過去最高を記録、当期利益も100億円を計上したのである。年間売上高は5000億円を超えて、岩下社長の時代のピーク時に比べて倍増した。泰三が見込んだ通り、土光は見事に東芝を再建させてみせた。

しかし三鬼陽之助はそれでもまだ根本的な原因、すなわち自分たちは「大東芝」なのだという幹部たちのエリート意識が、完全には除去されていないのではないかとの疑問を持っていた。社内に蔓延しているエリート意識、それを支える奢り、学歴重視の伝統、外国技術の編重といった、名門ならではの特権的な振る舞いをなくさない限り、将来に大きな禍根を残すことを心配したのだ。

東芝を愛するがゆえにいっさいの私情を捨てて「東芝の悲劇」を書き下ろすことにした三鬼は、そのまえがきを次のような文章で締めくくった。

この本が、どんなふうに読まれるのか、それは私にはわからない。しかし、私は、東芝のためにはもちろん、東芝以外、おおげさにいえば、日本の会社の経営者、従業員、株主に、裨益すると思うのである。東芝の悲劇は、日本の会社の悲劇である。歴史、伝統、技術に、いささかでも自信過剰になったら、しらずしらず、陥落する道である。東芝は、まさに悲劇の会社であった。しかし、陥落直前、選手交代という荒療治で、危機を回避したように思われる。これから、東芝は立ち直るだろう。しかし、第二、第三の東芝は、いま眼前に続出している。それを憂えるからこそ、敢えて私は書いたのである。
(三鬼陽之助著「東芝の悲劇」カッパ・ブックス)

それから半世紀後の2015年、三鬼が感じていた不安と危惧がものの見事に的中する。東芝は歴代社長の指示の下で利益の水増しを行ってきたことが発覚、巨額損失が明らかになって経営の危機に見舞われたのである。

さらには2016年の年末になっても、経済界を揺るがすニュースが新たに報道されている。

経営再建中の東芝は27日、2017年3月期に米国の原発事業を巡って数千億円規模の新たな損失が発生する可能性があると発表した。損失額は現時点では未確定だが、規模によっては財務基盤が大きく損なわれる恐れもある。米原発事業では、16年3月期にも約2500億円の損失を計上しており、2年連続で巨額損失を計上する事態となった。東芝は金融機関の支援を仰ぎ、抜本的な経営立て直しを図る。
(毎日新聞 2016/12/27(火) 21:34配信)

またしても「東芝の悲劇」が繰り返されることになり、まさに会社存亡の危機に陥っている。

そうした不正が繰り返される根本にあったのは、「大東芝」の社長と会長を務めた後で経団連の会長になるのがも最高の経営者という、間違ったエリート意識と歪んだ権力志向だった。それした風土が代々にわたる経営陣によって醸成されていた。まさに三鬼が心配していたことが原因で、21世紀になってから二度三度と「東芝の悲劇」が起こっているのだ。

1965年の「東芝の悲劇」は石坂泰三会長という外部から招かれて会社を再建したカリスマ経営者に対して、経営を受け継いだ東芝生え抜き組の岩下社長や大谷副社長以下の幹部たちが、長く主導権と影響力を保持しようとして対立したことから起こったものだ。そして東芝音楽工業が創業した1960年10月の時点では、その3人のメンバーは経営責任者が岩下会長と大谷社長、石坂は一介の相談役という立場にあった。しかしながら圧倒的な存在感を示していたのは、レコード事業部門に思い入れのある石坂だった。こうした体制でスタートしなければならなかったので、現場の責任者となった石坂範一郎はかなり立場が微妙で、仕事がしにくいところも多々あったのではないかと考えられる。

たとえば東芝レコードは国内のクラシック制作に力を入れて、創立1周年を機に東京交響楽団との専属契約を結んでいる。これについて『東芝音楽工業株式会社10年史』には、範一郎の考えを反映するかのように皮相浅薄な経営責任者たちに対して、その責任を指摘するかのような逆説的な言葉が残されていた。

レコード会社が、国内最高の交響楽団を専属下に置くことは、経営採算的には到底考えられない冒険で、勿論これはレコード業界始めてのことで、前年の2期会を、専属下に置いたことと相俟って、国内楽曲のレコード化と、我が国の音楽文化の発展を指向する当社の、レコード会社として余りにも高度な企業姿勢は、レコード業界は勿論、国内の音楽家をはじめ当時の芸術界等から、大きな驚きと、賞賛の声をあつめた。
(『東芝音楽工業株式会社10年史』)

「経営採算的には到底考えられない冒険」が、実際には「余りにも高度な企業姿勢」だったことから、その試みは何ひとつ良い結果を残さなないまま、会社が経営危機に見舞われたことであえなく終了した。誰が主導したのかは定かでないが、こうしたことが起こっている状態のなかで経営の危機に直面させられる事態になるのだ。

外からはいかにも順風満帆に見えていた新しい会社が、実際には経営危機に瀕していることが明らかになったのは1962年に入ってすぐのことだ。創業から2年もしないうちにそうなったのは、大谷元夫社長以下、東芝から送り込まれた役員や社員によって積極的に進められたステレオやテープレコーダーなど、音響機器の販売部門の数字のごまかしと、あらたに手がけた河合楽器との提携による電気オルガンの販売に原因があった。

急速な業務拡大策とともにそれらの事業を進めたことで、支店や営業所を通じて小売店へ商品を押し付け販売するようになっていった。そして音響機器や楽器を売るために書店や電器店にまで販路を拡大してレコードも扱わせるようにした。しかしそうした強気の営業方針が裏目に出て、特約店が大量の不良在庫を抱えて身動きがとれなくなり、都合の悪い事実は先送りの形で隠蔽されたのだ。それは東芝本社で起こっていた派閥による側近政治や、そこから生じた甘い販売政策、在庫や返品の隠蔽がはびこる体質からくるものだった。いわば同じ病巣によるものだったのである。そしてある日、突然、東芝音楽工業は経営の危機に見舞われた。

それについて社史に残されている記述は、当時を体験した人間の悔しさと怒りのリアリティに満ちている。その文面から伝わってくる切迫感は範一郎の本心だったのではないか、ぼくにはそう思えたのだった。

経営面での苦境は、レコード及び音響機器の両部門とも、遂に収拾することが出来ない程の事態に立ち入ってしまった。会社設立以来わずかに2年目のことである。
華やかにデビューしたプロローグの光景が、いまだ脳裡に焼きついている最中、不運にも決定的挫折の憂き目を見ようとは、余りにも高価な代償を払わなければならない段階に立ち到ってしまった。
(同上)

ここで範一郎は創業時の姿に立ち返り、レコードの制作と製造、および販売を専業とする方向で再建案をまとめている。そして親会社の専務取締役、東芝音楽工業の監査役に就いていた久野元治に理解と協力を求めている。その後ろにはもちろん相談役、石坂泰三の強いバックアップがあったことであろう。

久野はいったん音響機器と楽器の販売部門を東芝音楽工業から切り離し、不採算部門を東芝商事に移管した。そしてレコード・ビジネスだけに業務を絞って、東芝音楽工業を立て直すことにする。

定時株主総会で大谷社長は取締役に降格し、実質的な責任者だった専務の砂田茂、音響機器部門の常務のほか3人の取締役が責任をとって退任した。同じく責任の所在を明らかにするため、音響機器営業部長や経理部長も退職した。そうやって病巣を完全に取り除いたうえで、親会社から就任してきた岡本重郷社長のもと、気持ちも新たに一丸となって再建に取り組むことになった。

ところが新社長の岡本重郷が問題で、再建はすぐに暗礁に乗り上げた。大谷前社長が指名して後任に送り込んできた岡本は、音楽ビジネスの根本をまったく理解できない人物だったのだ。社長が打ち出す政策はどれもちぐはぐなものとなり、再建への努力が実らないどころか社員の士気を奪ってしまい、会社全体を暗い気持ちに追い込む事態にまでなっていく。

『東芝音楽工業株式会社10年史』には、こんな深刻な声が残されていた。

(岡本会長は)社内外両面に亘って、強力な個性的指揮を振い、事態収拾のため、全社員は、日夜を問わず苦難の道を自ら苔うち踏みしめて進んだ。然しながら、不運にも努力は実らなかった。事態は、益々悪化の一途を辿るばかりであった。レコード営業に於いても、一日の経過は更に一日の経営悪化を招く程の深刻さであった。社内は笑い声を失った。
(同上)

まったく頓珍漢な政策ばかりを打ち出されて、音楽ビジネスに精通していた社員や範一郎は呆れるしかなかった。「強力な個性的指揮を振い」とは言い得て妙だが、そんな最悪の状況のなかで、苦難の道の向こうから微かな光が見えてくるのは1963年の1月のことだ。その光はふたつあったのだが、どちらもイギリスで灯されたものだった。

→次回は1月5日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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