ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち  vol. 21

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希望の光となったビートルズのデビューと、カヴァーされた「SUKIYAKI」~苦境のさなかにあって新たな一歩を踏み出す勇気~

希望の光となったビートルズのデビューと、カヴァーされた「SUKIYAKI」~苦境のさなかにあって新たな一歩を踏み出す勇気~

第2部・第20章

東芝の工場長などを務めてきた技術畑出身だった新社長の岡本重郷が、いかにレコード会社の経営や再建に不向きな人間だったのかについて、三鬼陽之助は「東芝の悲劇」のなかで詳しく記している。これもまた岩下文雄=大谷元夫ラインの行った、露骨な情実人事の弊害だった。

技術屋に、水商売のレコードをまかすのも、変わった人事であり、当初から社内でも疑問視する空気が強かった。しかし、これは、石坂(筆者注・泰三)の「不適材、不適所主義」を実践したということにもなり、げんに、金融出身の百瀬が、ビクター更生の前例もあって、いちがいに非難できない。問題はこの岡本起用が、大谷の意向であったといわれる点にある。
(三鬼陽之助著「東芝の悲劇」カッパ・ブックス)

大谷自身、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の電気科から、東北大を出た技術屋で、岡本とは高工時代の同窓であり、東芝では、岡本同様、旧芝浦製作所系であるわけだ。年齢は大谷の方が一つ上だが、東芝入社は岡本が六年早かった。大谷は大学へ行っていたからである。とにかく、そういう個人的関係もあって、大谷は自分の後釜に岡本をすえて、東芝音楽工業の再建に当たらせたのである。

しかし、結果は大失敗だった。岡本は、工場管理者としては有能だったが、レコード会社の社長ではなかった。その結果、再建どころか、赤字をさらに深め、社長就任十ヵ月で退陣を余儀なくされた。そのため、この間まで、東芝内部では、最悪人事として評判になったものである。

この、最悪人事を物語る挿話として、岡本社長は、どの歌手にレコードの吹き込みをさせるのか、入札をやらせたという。値段の安い歌手にうたわせるわけである。工場長が下請けに入札させる感覚である。また、昼時間になると、経費節減のため、室内の電灯を消させた。もともと、東芝音楽工業が本社の事業部から独立したのも、レコード社員が持つ独特な雰囲気が、他の社員とマッチしないためという理由もあった。アーチスト相手の水商売であるからだ。だから、岡本の工場管理者的な経営方針には、社員もくさり、せっかく、再建に乗り出しても、士気は上がらなかったのである。
(同上)

東芝音楽工業は本社の幹部からは「儲からないなら潰してしまえ」という声も出るほどで、東芝音楽工業は絶体絶命の危機に陥っていく。しかし泰三は「俺の目の黒いうちは、どんな損ができてもあの会社だけはつぶさない」と、自分の家族に語っていたという。後ろ盾になって、陰で支えていたのだ。

こうした複雑で面倒な環境のなかで苦しんでいた石坂範一郎だったが、笑い声を失いながらも希望は失わず、国際的なレコード・ビジネスに関わる人びとに接して、新しい挑戦に取り組むための種まきをしていた。立ちはだかる壁が高いことを十分に承知の上で、あえて日本の曲が世界のマーケットで成功する可能性に賭けようとしていたのだ。

範一郎をそういった行動に向かわせていた原動力は、海外から取り寄せた書物を寝る間を惜しんで読み、最新の技術やビジネスの在り方を勉強することで得た知識だった。それを支えていたのは海外の関係各社と交渉することでつながった人的なネットワークと、そこから入手した情報を分析する能力である。その辺りは、「経営に秘訣なんてものはない。ただただよく勉強することだ」と日頃から言っていた泰三とも通じるところがあった。

1961年の時点で範一郎はレコード産業の未来がレコードの製造や販売の拡大にあるのではなく、作品の創造による良質なカタログと原盤権や著作権といった権利ビジネスの発展にかかっていると見抜いていた。だから「上を向いて歩こう」という名曲に出会ったとき、中村八大の才能に賭けて世界という巨大マーケットに向けて、レコードだけではなく楽曲を売るためのアプローチを開始したのである。

苦境のさなかにありながらも、新たな一歩を踏み出そうとしていく勇気、それを可能にした先見の明には端倪すべからざるものがある。深刻な経営危機から抜け出せず展望も見えてこない、そんな苦しみのなかで東芝音楽工業の前途に光が差し始めるのは、1963年の年が開けるとほぼ同時のことだった。

最初のニュースは遥かに遠い国、イギリスから送られてきたヒットチャート上の動きだ。ケニー・ボール楽団によってカヴァーされた「上を向いて歩こう」が、「SUKIYAKI」のタイトルでUKチャートにランクインしたのである。ニューオーリンズ・ジャズ風のインストゥルメンタルの曲は、1月17日に46位で初登場すると22位、19位、14位と順調に上昇していった。そして2月14日にはベストテン入りしたのだ。最高は10位だったが、3週間もそこに留まったのは快事と言える。

ケニー・ボール

もうひとつのニュースもまた、イギリスのヒットチャートが関係していた。1962年の10月にEMIのパーロフォンからデビューした新人のザ・ビートルズが、シングル第2弾「プリーズ・プリーズ・ミー」でブレイクしたのだ。「SUKIYAKI」と並んで1月からチャートの45位に登場してきた「プリーズ・プリーズ・ミー」は、次週の33位から16位にまでジャンプアップ、さらには一挙に3位へと急上昇したのだ。ここからビートルズのブームがイギリスで爆発し、熱狂的なファンが急増して社会現象になるほどの騒ぎは、たちまちヨーロッパにまで飛び火していった。

東芝音楽工業の再出発を祝うかのような小さな光が、ケニー・ボールの「SUKIYAKI」と、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」によってイギリスで灯された。それからまもなくしてアメリカのキャピトルからも、「上を向いて歩こう」に関する新情報が届けられる。

それは1959年に来日した海外担当のA&Rチーフ、デイヴ・デクスター・ジュニアに範一郎が依頼していた英語詞についてだった。デクスターはしかるべきシンガーにカヴァーさせるべく、英語の歌詞を発注したというものだった。範一郎はそのときカヴァーだけでなく、坂本九にも英語で歌ってもらうことも考えていた。デクスターの意見ではアメリカのマーケットにあっては、「英語でないと話にならない」と言われていたからだ。

ところがそこからまったく予想外の展開となり、信じられないような奇跡が起こっていくのである。

日系人が多く住むカリフォルニア州の中都市、フレズノの放送局のDJからデクスターに電話があり、坂本九のオリジナル・ヴァージョンをラジオで流したら、大変な数のリクエストが入っているとの情報が届けられた。そこで日本から送られていたレコードを聴き直したデクスターは、何かが閃いたのでその場の判断でプロモーション盤を2000枚ほど作り、「SUKIYAKA」というタイトルをつけてプレスしたのだ。これはジョージ・マーティンとロン・グッドウィンの「スキッフル・ストリングス」を、勝手に「スウィンギン・スウィートハーツ」と名づけてヒットさせた時と同じ手法だった。

SUKIYAKA

それを1963年の3月に全米の放送局へ配布したところ、プロモーション盤を気に入ったDJがラジオで流してみると西海岸のカリフォルニア州やオレゴン州ばかりでなく、日系人が住んでいるわけでもない各地からも問い合わせの電話やリクエストが来たのだ。予想以上の好反応が出てきたその手応えから、ヒットの兆しをつかんだデクスターは東京の範一郎に連絡を入れて、正式にレコードを発売する手はずを整えることにした。坂本九の声ならば英語でなくても関係なく売れると、持論を引っ込めて判断したのである。

そのときに石坂からの指摘があって、タイトルはイギリスと同じ「SUKIYAKI」に戻されることになった。キャピトルから正式に発売された「SUKIYAKI」は5月1週からヒット・チャートを駆け上り、6月15日に全米1位の快挙を成し遂げた。そこからビルボードでは3週間、キャッシュボックスでは4週間連続で1位に輝いたのである。

その勢いをかって急きょ発売になった坂本九のアルバムも20位内に入るヒットになり、インストゥルメンタルでカヴァーしたビリー・ヴォーン楽団のアルバム『SUKIYAKA』も好セールスを記録した。しかも「SUKIYAKI」はアメリカだけでなく世界各国にあるEMI系列のレコード会社から発売され、世界中で大ヒットしたのだった。

billy vaughn sukiyaka

ちなみにこの時期のデクスターはビートルズのアメリカ進出を構想していたジョージ・マーティンから、「プリーズ・プリーズ・ミー」のアメリカ発売を頼まれていた。しかしレコードを聴いたデクスターはアメリカでは売れないと判断し、キャピトルが優先的に持っていた発売権を放棄している。マーティンやブライアン・エプスタインはしかたなく、シカゴのインディーズ・レーベルだったヴィージェイに発売を委託したが、「プリーズ・プリーズ・ミー」はTOP100には入れなかった。5月27日に発売されたアメリカでの第2弾「フロム・ミー・トゥ・ユー」もまた、116位に留まって不発に終わってしまう。

その時に1位だったのが坂本九の「SUKIYAKI」なのである。デクスターの判断は実に正しかった。1963年のアメリカはまだビートルズを受け入れる準備が整っていなかったのだ。

→次回は1月9日更新予定

文 / 佐藤剛
最上部の写真:提供 / 毎日新聞社

著者プロフィール:佐藤剛

1952年岩手県盛岡市生まれ、宮城県仙台市育ち。明治大学卒業後、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』の編集と営業に携わる。
シンコー・ミュージックを経て、プロデューサーとして独立。数多くのアーティストの作品やコンサートをてがける。2015年、NPO法人ミュージックソムリエ協会会長に就任。 著書にはノンフィクション『上を向いて歩こう』(岩波書店、小学館文庫)、『黄昏のビギンの物語』(小学館新書)、『歌えば何かが変わる:歌謡の昭和史』(篠木雅博との共著・徳間書店)。

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