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偉大なるミュージックマン、石坂敬一さんを悼む ~忌野清志郎と対峙した『COVERS』をめぐって~

偉大なるミュージックマン、石坂敬一さんを悼む ~忌野清志郎と対峙した『COVERS』をめぐって~

写真:左・石坂敬一 右・石坂範一郎

RCサクセションが1988年に制作したアルバム『COVERS』は、バリー・マクガイアの反戦歌「明日なき世界」で始まり、ジョン・レノンの「イマジン」で終わるという構成で、全編が洋楽のカヴァーによるメッセージ性の高い作品だった。そのアルバムは世界で最初に原子爆弾が広島に投下された8月6日、つまり多くの人の生命が奪われた平和記念日に合わせて発売される予定になっていた。

カヴァーする際に原詩と異なる日本語の訳詞の使用を認めてもらうために、担当者レベルでは話がつかない困難な局面があったという。それが許諾されたのはビートルズやローリングストーンズを手がけてきた東芝EMIというレコード会社の信用と、トップの交渉力もふくめて、関わったスタッフによる努力の積み重ねがあったからだろう。
しかし「ラヴ・ミー・テンダー」と「サマータイム・ブルース」が原子力発電への不安や危険性を訴える内容だったことから、発売元の東芝EMIは社長の判断で、RCサクセション側に対して内容の変更を求めることになった。原子力発電を推進する親会社の東芝にとって、事業の大きな柱である原子力発電に真っ向から反対する歌を見過ごすわけにはいかなかったのだ。

立場的に圧倒的な力を持っている親会社の意向に対して、子会社の東芝EMIは何ひとつ抵抗することができなかった。その時にバンド・リーダーの忌野清志郎と向き合って、東芝EMIの会社の方針と善後策を話すことになったのが、邦楽統括本部長の立場にいた石坂敬一である。
そもそも石坂は本部長に就任したとき、忌野清志郎が率いるRCクセションを東芝EMIの邦楽における柱石にしたいという思いで、「俺は本部長だけど俺が担当をやる!」と言って、自らが獲得に動いた経緯があった。それから数年の月日を経て、42歳のミュージックマン石坂は37歳のバンドマン清志郎と、真っ向から対峙した。その時の模様を石坂はこう記している。

ホテル・オークラの一室に4人が居た。
清志郎、相澤さん(マネージャー)、熊谷(ディレクター/東芝EMI)、そして私。
「会社の事情でこのアルバムは東芝EMIから発売することはできません。サイコーの出来なのに誠に申し訳ありません」と私が辛い説明をした。
その時、清志郎は「ウムムッ・・・・・・」と唸ると同時に灰皿を投げつけた。
剣豪の如きであった。
灰皿は部屋の壁にぶつかった。
誰にも当たらず、誰も傷つけず、備品もこわさなかった。
ここなんだ、清志郎の優しさは。

(「忌野清志郎 青山ロックン・ロール・ショー2009.5.9 オリジナルサウンドトラック」付属ライナーノーツ)


忌野清志郎が変更や発売中止に同意しないのは、表現者としては当然のことであった。一方で東芝EMIという会社から出せないという結論は、どんなに納得できなくも受け入れるしかない現実だ。話し合いは平行線のままだった。
これについては忌野清志郎が2009年に亡くなるまで沈黙を守っていた石坂だったが、四半世紀の時を経て「ローリングストーン日本版」(2015年6月号)のインタビューで、自らの気持ちを明らかにしている。それは「判断は合っていたけれど、思うところはある」という、含みを持たせたものだ。

あれは私と忌野清志郎が当事者でした。ずいぶん話し合ったのですが、清志郎は『これは必要だから出す』と。けれど、私は『絶対に出せない』と言いました。なぜなら、会社の皆の人生がかかってしまう。親会社の進言でしたから。

 ビジネスマン、サラリーマンの世界では、あれしか答えはないんです。その頃、社長は東芝から来ていましたし、個人的な感情でものを言えない。

東芝EMIは1960年の秋に発足したレコード会社、東芝音楽工業株式会社が前身だった。経団連の会長として日本の高度成長経済を牽引したカリスマ的なリーダー、石坂泰三は終戦後の混乱期に倒産寸前の危機にあった東京芝浦電気(東芝)に単身で乗り込み、見事に再建を果たした伝説の人物である。音楽ビジネスに参入する夢を持っていた泰三が東芝の総務部のなかに、レコード会社を立ち上げるための準備室を作ったのは1954年のことだ。
そのときに泰三に呼ばれて実質的な創始メンバーとして指揮を執ったのが、戦前からビクター・レコードで活躍していたミュージックマン、石坂範一郎だった。彼こそは石坂敬一の父である。

東芝レコードの生みの親に当たる泰三から命を受けた範一郎は、日本の新しい音楽を作ることを心がけた。

そして海外でも通用すると思えるクォリティの作品、作曲家の中村八大と作詞家の永六輔が作った「上を向いて歩こう」が1961年の秋に誕生したことで、それを年明けから世界のマーケットに売り込んだのだ。当時の日本人がまだ誰も考えつかなかった、挑戦的で夢のある試みだった。
その結果、坂本九の歌った「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」のタイトルで、1963年の夏に全米チャート1位を獲得したのである。範一郎はここで日本の音楽史に残る金字塔を打ち立てたと言えるのだが、当時はその偉大さが認識されることはなかった。
ビートルズがアメリカでブレイクした1964年から、範一郎はベンチャーズとビートルズ、ピーター・ポール・アンド・マリー、アダモのヒットで洋楽の売上を大きく伸ばし、業績を一気に隆盛へと導いた。続いてエレキブーム、加山雄三ブーム、フォーク・ブーム、GSブーム、カレッジ・ポップスと、若者たちが好む新しい日本の音楽を発展させる一方で、プロダクションや音楽出版社との原盤制作システムを推進するなど、音楽業界の近代化に大きく貢献した。

範一郎は東芝レコードの屋台骨を築いただけでなく、日本の音楽文化に新時代をもたらしたミュージックマンであった。しかし東芝音楽工業の経営者は代々、全員が東芝本社の出身で占められていた。本社で功成り名を遂げた者が子会社の社長になるという、暗黙の天下りコースが敷かれていた。
物静かな学者肌だった範一郎は出世や名声をまったく望まず、数十人の社員で始めた東芝音楽工業の裏方に徹して、専務取締役として代々の会長や社長に仕えた。そして10年で1000人を越す社員のリーダーカンパニーに育て上げると、定年まで勤めて静かにサラリーマン生活に終止符を打った。主君に忠誠を尽くした侍のような、見事な引き際だったと言える。

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左・石坂邦子(長女) 中央・石坂範一郎(父) 右・石坂敬一(長男)

そうしたミュージックマンの父を尊敬していた石坂は、ビジネスマンとしての部分で父を越えたいと考えていたように思える。

資本主義社会のルールでは、大株主である東芝の進言を無視するようなことはできない。そういう意味では、私は間違ってないんです。『出す』と言った清志郎も間違ってない。

当事者同士の話し合いは平行線のままに終わった。石坂は6月25日に発売予定だった先行シングルの「ラヴ・ミー・テンダー」と、アルバム『COVERS』に関する発売中止の新聞広告を出した。それが「上記の作品は素晴らしすぎて発売出来ません」という、ふつうに読んだのでは意味がよくわからない文章となった。
不思議なことにその広告は、音楽とはまるで場違いな経済面の片隅に掲載された。もしかすると親会社である東芝の幹部に向けた、石坂の意地と抵抗の証だったのかもしれない。ぼくは遅ればせながら、そのことに思い当たった。おそらくは葛藤や無念を自分の中に押さえ込んで、ただ結果だけを世間に公にしたのではないか。

ふたりとも「間違っていない」と判断した石坂は、「素晴らしい」がゆえに『COVERS』を自社から発売出来ないのなら、完全な形で世に出すにはどんな方法があるのかを考えたはずだ。それを即座に行動に移していた経緯について、あらためて複数の当事者たちから教えてもらったのはつい最近のことである。
自らの立場や地位を守ろうとするビジネスマンが、そうした行動をとることはあり得ない。己の保身を図るのであれば、嵐が過ぎるのをじっと待てばいい。親会社の逆鱗に触れることには近づかないに限る。しかし石坂は東芝EMIが出せないのであれば、ほかのレコード会社から可及的速やかに発売するという方法を選んだ。それがアーティストのためになると判断したのである。

そのときの石坂はビジネスマンでなく、まさにミュージックマンだったと思う。すぐに洋楽ディレクターだった頃から築いてきた人脈をたどり、次の発売元となってくれるレコード会社と秘密裏に交渉を始めた。理路整然とした合理主義のビジネスマンで、親会社との間に立っていた社長の乙骨剛からも、きちんと理解を得ていたのであろう。そうでなければ他社から無傷のまま、すんなりと発売になることは考えられない。
ところが発売を了承していたレコード会社にも何らかの圧力、もしくは自己規制の力がかかったことで、急に雲行きが怪しくなってしまった。当時は日本のレコード会社の過半数が大手電機メーカーの子会社、もしくは系列という状態にあったのだ。

そこで一旦は振り出しに戻ったものの、すぐに電機メーカーとは無縁だったキティ・レコードとの間で、8月15日の終戦記念日に発売する合意が出来た。キティの創始者だった多賀英典もまた、異端児とも呼ばれた伝説のプロデューサーだった。そして当初に予定していた日から、わずか1週間の遅れで『カバーズ』は日の目を見ることになった。にわかには信じられないことだが、紛うことなき事実である。
これはこの問題に関わっていた人たちの一人一人が、いかに迅速に判断しながら、自分の責任で仕事をしていたのかを、如実に物語っていると思う。

その結果、中止の影響による騒ぎや過激な内容が話題になったこともあり、『カバーズ』はオリコンのアルバム・チャートで1位を獲得した。セールス面での苦労が多かったRCサクセションにとって、これは最初で最後の1位となったのだ。
忌野清志郎はすかさず発売中止問題に対する怒りを込めて、RCサクセションのライヴ盤『コブラの悩み』を4ヵ月後の12月16日に発表する。また翌年10月11日には覆面バンド、タイマーズのアルバム『ザ・タイマーズ』に反核をテーマにした「LONG TIME AGO」を収録した。これら2枚のアルバムが東芝EMIから発売されたことは、与えられた環境の中で自分の立場をわきまえつつも、最大限にアーティストと音楽に対する敬意を示そうとしたミュージックマン、石坂だからこそ成し得たものだろう。

やがてポリグラム(現:ユニバーサルミュージック)に請われた石坂は、1994年に東芝EMIから移ると最高経営責任者として指揮を執った15年の間に、日本一のレコード会社に育て上げる。石坂を招き入れたユニバーサルミュージック・アジアのトップ、ノーマン・チェンは石坂のことを「Samurai」と呼んだという。
その間に日本レコード協会会長と顧問も務めていた石坂は、2011年からワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長兼CEOに就任し、2015年には旭日中綬章を受章している。
こうして日本の音楽業界で最も成功したエグゼクティブの1人となった石坂だが、2009年に亡くなった忌野清志郎を悼む文章のなかで、こんなひと言を述べていたのが思い出された。

今、清志郎は天国への階(キザハシ)をゆっくり昇っているのかな。いずれアナタは日本の音楽文化史の聖人のひとりになるんだろうな。

(「忌野清志郎 青山ロックン・ロール・ショー2009.5.9 オリジナルサウンドトラック」付属ライナーノーツ)


日本の音楽文化史の偉人として、ミュージックマンの石坂範一郎と石坂敬一、父と子の両名が語り継がれるべきだと、ぼくはいま強く思っている。

2017年1月10日  佐藤剛

 

出典を書いていない石坂敬一氏の発言は、すべて「ローリングストーン日本版 2015年6月号」の、『小特集:表現の自由を規制するのは誰か。音楽編 石坂敬一 元ワーナーミュージック・ジャパン名誉会長』からの引用です。


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エンタメステーションではミュージックマンの石坂範一郎氏にまつわる長編ノンフィクション「ビートルズの武道館公演を実現させた陰の立役者たち」(執筆・佐藤剛)を連載中です。


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RCサクセション
『カバーズ』

【収録曲】
1.明日なき世界
2.風に吹かれて
3.バラバラ
4.シークレット・エージェント・マン
5.ラブ・ミー・テンダー
6.黒くぬれ!
7.サマータイム・ブルース
8.マネー
9.サン・トワ・マミー
10.悪い星の下に
11.イマジン


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